思いの果てにⅣ ~ ネメリアとオルクス
オルクスのその顔が、信じられないものを見るように強張る。
「……ネメリア」
名が落ちた。
庭が、その名を拾おうとはしなかった。
その名は、すでに庭の中に根を張っているものだった。
女性は、かすかに微笑んだ。
「風ではなくこの姿で、貴方に逢えました」
声は、木漏れ日のように柔らかかったが、ルルリアの背筋が震えた。
イグニスの焔が消えたあと、精霊の庭は急に広くなった。
同じ場所にいるはずなのに、空気の厚みが変わった。
さっきまで前で燃えていた赤い光がないだけで、花の色も、水の音も、草の揺れも、すべてがこちらへ近づいてくるようだった。
ルルリアは耳を塞いだまま、足元の白い花を見下ろしていた。
花は、楽しそうに揺れている。
「ようこそ」
また声がした。
小さな声。
子供のようでもあり、老人のようでもある声。
ルルリアは眉を寄せる。
「返事しない。返事しない。返事しない」
「そこまで言うと、返事に近い」
オルクスが静かに言った。
「えっ」
「言葉を向けるな。聞こえたことを、心の中で流せ」
「難しい」
「難しい場所だ」
オルクスの言葉は落ち着いていた。
だが、その横顔は硬い。
イグニスがいなくなったせいだけではない。
庭そのものが、何かを待っている。
ルミナリスは星の羅針盤を見た。
針は、先ほどまでと同じく庭の奥を指している。
しかし、光は少し細くなっていた。
まるで、道を示してはいるが、守りはしないと言っているようだった。
「進みましょう」
ルミナリスが言う。
声は小さかった。
花に向けた言葉ではない。
水にも、風にも、木にも向けていない。
仲間にだけ届く声。
ルルリアは頷いた。
「うん。イグニスが戻ってくる前に、変な実とか食べないようにしないと」
「食べなければよいだけだ」
オルクスが言う。
「そうなんだけど、ここだと実の方から口に入りそうで怖い」
「ありえぬとは言い切れぬな」
「そこは否定して」
ルルリアが顔をしかめる。
その時、道の先で枝が揺れた。
風は吹いていない。
枝は、自分の意思で道を開けるように左右へ分かれていく。
葉が重なり、光が落ち、草の上に細い影が伸びる。
その影の中から、一人の女性が現れた。
緑の髪。
森の葉と同じ色をした長い髪が、肩から背へ流れている。
肌は白く、しかし、人の白さではない。
樹皮の下にある新しい木肌のような、静かな白さだった。
耳は長い。
精霊人エルフに似ている。
だが、完全なエルフではない。
瞳は深い森の色をしていた。
その奥に、黒い樹の影が沈んでいる。
服は布ではなかった。
葉と影と、細い蔓で編まれたような衣。
歩くたびに足元の草が小さく伏せ、また起き上がる。
女性は静かに立ち止まった。
ルミナリスは息を呑む。
美しい。
だが、ただ美しいだけではない。
人でなくなったもの。
そんな気配があった。
オルクスのその顔が、信じられないものを見るように強張る。
「……ネメリア」
名が落ちた。
庭が、その名を拾おうとはしなかった。
その名は、すでに庭の中に根を張っているものだった。
女性は、かすかに微笑んだ。
「風ではなくこの姿で、貴方に逢えました」
声は、木漏れ日のように柔らかかったが、ルルリアの背筋が震えた。
その柔らかさの奥に、黒い森の記憶がある。
枝に絡まれ、根に沈み、呪いが花を咲かせるような記憶。
オルクスは、動けなかった。
「おぬしは……生き返ったのか?」
「いいえ、死んだままです」
ネメリアは穏やかに言った。
「黒の樹魔女として。呪いの根に絡まり、あなたの剣に断たれて」
ルミナリスは、オルクスの腰の魔剣を見た。
アシュラム。
これまで幾度もオルクスの手にあった魔剣。
重く、静かで、血を急がない剣。
その剣が、かすかに震えていた。
ネメリアの視線も、アシュラムへ落ちる。
「その剣も、久しいですね」
オルクスは、低く答えた。
「アシュラムは、おぬしの呪いを断つために振るった剣だ」
「はい」
ネメリアは頷いた。
「私を救うために。私を殺すために」
オルクスの拳が震える。
「すまぬ」
「いいえ」
ネメリアは一歩近づいた。
その足元で、黒い小さな花が咲いて、すぐに白く変わった。
「あなたは断ちました。黒い樹が私を食い尽くす前に。私が誰かを、もっと多く傷つける前に。あなたは、私の呪いを断ちました」
「だが、おぬしは死んだ」
「呪いの躰は死にました」
ネメリアの声は穏やかなままだった。
「そして、森が残った魂を、拾いました。森の息として残れるように」
ルルリアは小さく呟く。
「精霊に、なったの……」
ネメリアの視線がルルリアへ向いた。
その視線は優しかった。
だが、ルルリアは少し身を固くした。
優しいものほど危ない。
イグニスの言葉が、まだ耳に残っている。
ネメリアはそれに気づいたように微笑む。
「よい警戒です。原初の焔に、よく叱られましたね」
「かなり」
「でしょうね」
ネメリアはルミナリスを見た。
その瞳が、少しだけ深くなる。
「凍てつく金冠を越えた者にして、調和をもたらすもの」
ルミナリスは、星の羅針盤を抱く手に力を入れた。
「あなたは……私たちを、試しに来たのですか」
「いいえ」
ネメリアは首を横に振った。
「もう試しは始まっています。私が来たのは、道を分けるためです」
「道を……」
オルクスの表情が変わった。
何かを察したのだ。
「ネメリア」
「オルクス」
ネメリアの声は静かだった。
「あなたは、ここまでです」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回、オルクスとルミナリス、ルルリアの思いを描きます。
また是非ご一読ください。




