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機械少女の涙は蒼穹に還る ~メガリマギアの灯火  作者: しきもとえいき
第20章

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精霊の庭へⅩⅧ ~金冠の試練

白い冠が動いた。

 鳥の翼と籠の格子でできた氷の輪が、ルルリアの胸元へ近づく。

 冷気が心臓を掴むように広がって吸い込まれるように消えていく。

~本文より

 水の階段は、冷たかった。

 足を置くたびに、靴底から冷気が上がってくる。

 冷気は足首を巻き、膝へ絡み、腰へ届く。


 メル・アラの銀青鋼が、小さく軋んだ。

 凍る音ではない。

 測られる音だった。


 ルルリアは歯を食いしばる。


 水の階段は沈んでいく。

 上を見ても、森の空地はもう遠い。

 オルクスの姿は銀色の水越しにぼやけ、声も届かない。


 イグニスの焔だけが、少し前で赤く燃えていた。


「足を止めるな」


 イグニスが言う。


「止まると、考えなくていいことを考え始める」


「もう考えてる」


「なら、考えながら歩け」


「難しいこと言う」


「止まるよりましだ」


 ルミナリスは星の羅針盤を胸元に抱き、慎重に階段を降りていた。

 その横で、白い冠が静かに浮かんでいる。


 ルルリアの前にも、冠があった。

 鳥の翼のような氷。

 籠の格子のような氷。

 歪んだ輪。


 それは頭の上ではなく、胸の前で回っている。

 まるで、心の形を探しているようだった。


「これ、近いんだけど」


 ルルリアが言う。


「近づけてるんだ」


 イグニスは短く答えた。


「嫌なら逃げろ」


「逃げたら?」


「泉の外へ戻されるなら親切な方だな」


「親切じゃない方は?」


「水の中で、自分が逃げた理由だけを見続ける」


 ルルリアは口を閉じた。


 それは嫌だった。とても、嫌だった。


 水の階段が、ふいに途切れた。

 足元の水が平らになる。

 階段ではなく、浅い水面の道になった。


 その先に、広い場所がある。

 水の中なのに、そこには乾いた床があった。

 白い石でできた、円形の広間。

 壁はないし天井もない。


 ただ、周囲を銀色の水が取り囲んでいる。

 広間の中央に、古い鳥籠があった。


 ルルリアの足が止まる。


 鳥籠。

 細い鉄の格子。小さな扉。

 内側に敷かれた布。

 外から見れば美しく、内側から見れば逃げ場のない場所。

 その形を、ルルリアは知っていた。


「……趣味悪い」


 声が出た。

 鳥籠の中に、小さな少女が座っていた。


 背を丸め、膝を抱えている。

 顔は見えない。


 だが、分かる。

 あれはあたしだ。


 イグニスは何も言わない。

 ただ、焔を少し低くして、ルルリアの横へ浮かんでいた。


 鳥籠の中の少女が、顔を上げる。

 ルルリアと同じ顔だった。

 今より幼く、痩せていて、目だけがよく動く。

 逃げ道を探す目。

 叱られる前に正解を探す目。

 殴られる前に空気を読む目。


 少女は言った。


「逃げないの?」


 ルルリアは息を吸った。

 水の広間が静まり返る。

 白い冠が、胸の前でゆっくり回った。


「逃げたいよ」


 ルルリアは正直に答えた。

 少女は首を傾げる。


「じゃあ、逃げればいい。逃げるのは悪いことじゃない。逃げないと壊れる。逃げないと売られる。逃げないと名前を取られる」


「うん」


 ルルリアは頷いた。


「知ってる」


「知ってるなら、どうして戻るの?」


 少女の手が、鳥籠の格子を握る。


「どうして危ない方へ行くの? どうして誰かのために走るの? どうして、届こうとするの?」


 声は責めていた。

 泣いてもいた。


「間に合わなかったら、また壊れるよ」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 ルルリアは、右手を握った。


 テンフラウは沈黙している。

 ここでは撃てない。

 雷で壊せる鳥籠ではない。


 メル・アラも静かだった。

 ここでは跳べない。

 逃げるにも、届くにも、まず足を自分で動かすしかない。


「私も、そう思う」


 ルルリアは言った。


「間に合わなかったら怖い。守れなかったら怖い。助けようとして、何もできなかったら、たぶんずっと残る」


「なら逃げて」


「でも、逃げても残る」


 少女が黙った。


 ルルリアは、自分の胸に手を置いた。


「逃げて助かったことはある。逃げたから生きてる。逃げるのは悪いことじゃない。それは今もそう思ってる」


 ゆっくり、言葉を選ぶ。


 水が聞いている。

 冠が聞いている。

 昔の自分が聞いている。


 ごまかせない。


「でも、逃げたあとで、誰かの悲鳴だけ残ることもある。背中を向けた時の顔が残ることもある。私は、それも知ってる」


 鳥籠の少女の目が揺れた。


「じゃあ、どうすればいいの」


「分からない」


 ルルリアは答えた。


「全部に間に合う方法なんて、分からない」


 白い冠が、少しだけ近づく。


 冷気が胸へ触れた。


 願いを冷やす。


 熱すぎる願いは、周りを焼く。

 弱すぎる願いは、水に流される。

 残るなら通る。

 砕けるなら沈む。


 イグニスの言葉が蘇る。


 ルルリアは、鳥籠の少女を見た。


「だから、一つだけ決めた」


「何を」


「逃げる足を、捨てない」


 少女が目を見開く。

 ルルリアは続ける。


「逃げることを恥ずかしいことにしない。逃げた私を、いなかったことにしない。あなたが逃げてくれたから、今の私はここにいる」


 鳥籠の格子が、かすかに揺れた。


「でも、今の私は、逃げるだけじゃない」


 ルルリアは一歩進む。


「届きたい。助けたい。間に合いたい。怖くても、足が震えても、誰かが助けてって言った時、最初から背中を向ける人にはなりたくない」


 少女は、格子の奥で震えていた。


「また捕まるかもしれない」


「うん」


「また失敗するかもしれない」


「うん」


「また、貴女を利用する誰かに名前を呼ばれるかもしれない」


 ルルリアは、そこで少し笑った。


「それは嫌」


「なら」


「だから、私は先に自分で名乗るよ」


 水が揺れた。

 白い冠が止まる。


 ルルリアは、鳥籠の前に立った。


「私はルルリア。逃げて、逃げて生きてきた。それもあたし。でも……今、少しは手が届く」


 鳥籠の扉が、音もなく開いた。

 中の少女は、出てこない。

 ルルリアは手を伸ばした。


「一緒に行こう」


 少女はルルリアの手を見た。


「私も?」


「うん。あたしはあたしを置いていかない」


「私は、弱いよ」


「知ってる」


「怖がりだよ」


「知ってる」


「すぐ逃げるよ」


「必要なら逃げようよ」


 ルルリアは、少しだけ困ったように笑った。


「でも、逃げる前に一回見る。助けられるか、一回見る。届くなら、届く。無理なら、逃げて次を探す」


 少女の目から、涙が落ちた。

 それは水に触れる前に、小さな光になった。

 少女は鳥籠から出た。

 細い手が、ルルリアの手に触れる。


 冷たい。

 次の瞬間、鳥籠が崩れた。

 鉄の格子は水になり、布は霧になり、広間の白い床へ吸い込まれていく。

 少女の姿も、少しずつ薄れていった。

 消える前に、少女は言った。


「じゃあ、走って」


 ルルリアは頷く。


「うん」


「逃げてもいい。助けてもいい」


「うん。自分を見失わないように踏ん張るよ」


 少女は笑った。

 そして、光になってルルリアの胸に溶けた。


 白い冠が動いた。

 鳥の翼と籠の格子でできた氷の輪が、ルルリアの胸元へ近づく。

 冷気が心臓を掴むように広がって吸い込まれるように消えていく。


 ルルリアは身を固くした。


 冠が、願いに嵌まる。


 逃げたい。助けたい。

 間に合いたい。


 ばらばらだった熱が、冷やされ形を持つ。


 逃げる願いは、消えなかった。助けたい願いも、消えなかった。

 その二つの間に、細い道ができた。

 ルルリアは息を吐いた。


 胸元の冷気が、痛みではなく、芯になっていく。


 メル・アラが腰で鳴った。

 今度は、いつもより軽い音だった。

 テンフラウの内側で、鋼球が一つだけ優しく転がる。


 イグニスがふんと焔を揺らした。


「まあ、悪くねえ」


 ルルリアは振り返る。


「褒めてる?」


「褒めてねえ。よく泉に沈まなかったと言ってるだけだ」


「それ、褒めてるよ」


「うるせえ」


 イグニスは火花を散らしながらそっぽを向いた。


次回はルミナリスの試練を描きます。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

また是非ご一読ください。

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