精霊の庭へⅩⅣ ~駆り立てる幻
「ルミナリス?」
ルルリアが声をかける。
ルミナリスは答えようとして、言葉が出なかった。
水面の中の金属の腕が、わずかに動いた。
拾って。
今度は声があった。
小さな声。
自分の声にも、誰か別の声にも聞こえる。
拾って。
私は、ここに。
~本文より
木の中へ入った瞬間、足音が消えた。
土を踏む感触はない。
木の根を越える感触もない。
足元には水がある。
浅い。
足首ほどの深さしかないのに、底がないように思えた。
ルミナリスは、星の羅針盤を胸元に抱いたまま歩いた。
水は冷たい。
冷たいはずなのに、肌を刺さない。
ただ、足を通して何かを測られているようだった。
ルルリアは半歩後ろを歩く。
メル・アラは沈まない。
水に足を入れているのに、装具の継ぎ目へ水が入り込む気配がない。
銀青鋼の補助翼は閉じたままだった。
「変な感じ」
ルルリアが小さく言った。
「足元が水なのに、濡れてる感じがしない」
「濡れてるぞ」
イグニスが前で燃えながら言う。
「ただ、水の方がおまえを覚える前に離してる」
「覚えるって何」
「足跡を覚える。重さを覚える。癖を覚える。逃げ方もな」
ルルリアの顔がこわばる。
「嫌なこと言わないでよ」
「嫌なことだから先に言ってる。ここは覚える水だ。何を渡すか、気をつけろ」
オルクスは最後尾にいた。
剣は抜いていないし、抜けないわけではない。
抜けば、木の内側がこちらを見る。
そういう気配があった。
オルクスは手を柄から離した。
「剣は、ここでは騒がしすぎるか」
「分かってるじゃねえか、老いぼれ」
イグニスが言った。
「この水は、音にも敏い。刃の音、雷の音、怒りの音。全部拾う」
「火の音は?」
ルルリアが聞く。
「俺様の火は別だ」
「ずるい」
「偉いからな」
「原初だもんね」
水の道は、まっすぐではなかった。
木の内側だというのに、空間はどこまでも続くように広い。
左右には木肌がある。
だが、木肌の向こうで森が揺れている。
葉の影。
鳥の影。
知らない獣の目。
時々、そこに別のものが映る。
倒れた白い塔。
焼けた旗。
海の底のような暗い道。
遠くで泣く誰かの背中。
ルミナリスは足を止めそうになった。
その背中が、誰のものか分からなかったからだ。
知っている気がする。
知らない気もする。
胸の奥で、何かの痛みが揺れる。
「見るな」
イグニスが言った。
「それは、おまえの記憶とは限らねえ」
ルミナリスは息を吸う。
「はい」
「分からんものを、無理に自分のものにするな。水が喜ぶ」
ルミナリスは頷いた。
栄光の星の杖が、背中で微かに震える。
星の羅針盤は、小さな光を放ち続けていた。
その光だけが、今進むべき道を示している。
少し先で、ルルリアが立ち止まった。
「今、誰かいた」
水面の向こうに、小さな影が立っていた。
子供のような背丈。
頭から布をかぶっている。
顔は見えない。
影は、ルルリアへ向けて手を伸ばした。
助けて。
声はなかった。
それでも、言葉が分かった。
お願い、助けて。
ルルリアの右手が動く。
テンフラウの内側で鋼球が鳴った。
「待て」
オルクスの声が飛ぶ。
ルルリアは息を呑んだ。
影の足元を見る。
水に映っていない。
立っているのに、影がない。
手を伸ばしているのに、水面は揺れていない。
ルルリアは右手を下ろした。
「……罠?」
「試しだ」
イグニスが言う。
「助けたいなら、まず見ろ。見ずに飛び込む奴は、助ける前に沈む」
ルルリアは唇を噛んだ。
「助けてって、言ってた」
「言ってねえ。おまえがそう聞いた」
「同じじゃない」
「違う。見せてやるよ」
イグニスの焔が、影の方へ少し近づいた。
影は揺れ、次の瞬間、ただの濡れた枝になった。
枝の先に、破れた白い布が引っかかっている。
水が、細く笑ったような音を立てた。
ルルリアは肩を落とした。
「嫌な場所」
「いい場所だ」
イグニスは言った。
「嫌なものを見せるってことは、まだ追い返してるだけだ。沈める気なら、もっと優しく呼ぶ」
「優しい方が危ないの?」
「そうだ」
ルルリアは顔をしかめた。
「精霊、やっぱり面倒くさい」
「何度も言わせるな。面倒なんだよ」
水の道は、少しずつ広くなっていった。
頭上に、枝の天井が見える。
その枝の間から、空がのぞいた。
空の色がおかしい。
朝でも昼でもない。
夜でもない。
薄い銀色の光が、葉の間から落ちている。
ルミナリスは足元の水を見る。
自分の姿が映っていない。
代わりに、別のものが映っていた。
金属の腕。
割れた装甲。
ひびの入った胸部。
誰かの手に拾い上げられる、小さな機械の体。
胸の奥が冷えた。
「ルミナリス?」
ルルリアが声をかける。
ルミナリスは答えようとして、言葉が出なかった。
水面の中の金属の腕が、わずかに動いた。
拾って。
今度は声があった。
小さな声。
自分の声にも、誰か別の声にも聞こえる。
拾って。
私は、ここに。
ルミナリスの指が、水面へ伸びる。
その手首を、熱が包んだ。
胸元の灼熱の石守が、赤く光っていた。
熱い。
だが、焼けない。
手を止めるための熱だった。
ルミナリスは、はっと息を吸った。
イグニスがルミナリスの目の前で燃えた。
「触るなって言ったろ」
声は低かった。
「それは今のおまえじゃねえ」
「今の……私に?」
「知らん。言葉の綾だ」
「イグニスさん」
「考えるな。水が考えさせようとしてる時は、大抵ろくでもねえ」
ルミナリスは水面から目を逸らした。
金属の腕は、すぐに消えた。
水面には、ただ銀色の光だけが揺れている。
ルルリアがルミナリスのそばへ来る。
「大丈夫?」
「はい。灼熱の石守が、止めてくれました」
胸元の石は、まだ温かい。
先ほどよりも強く、赤い模様が光っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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