精霊の庭へⅫ ~逃げる泉と迷いの泉
「怖がれ。正しい」
イグニスは水の上へ近づいた。
焔が水面を照らす。
水面には、ルルリアの顔が映っていた。
だが、少し違う。
映った顔は、笑っていた。
ルルリア自身は笑っていない。
「うわ」
ルルリアは一歩下がった。
~本文より
イグニスがルミナリスにはっきり告げた。
「水の音を追うな。羅針盤を見ろ。俺様の言うことを聞け。いいな」
「はい」
「名前を呼ばれても返事するな」
「はい」
「変な花に触るな」
「はい」
「ルルリア、おまえは特に走るな」
「それは状況による」
「状況によらず、一回止まれ」
「分かった。一回止まる」
「よし」
オルクスは剣の柄に手を添えながら尋ねた。
「わしには何か助言はないのか?」
イグニスは火花を散らしながら笑った。
「じじいの精霊人剣士で森の精霊の愛人が何抜かす」
「愛人などではないぞ」
「そうか。なら、森の思われものでいいな?」
オルクスはやれやれと小さく息を吐くと、周りを見渡していた。
まだ、剣の出番ではない。
それでも、守る者としてそこにいる。
ルミナリスは森を見ていた。
古い獣道の奥で、水の音がする。
近い。そして急に遠い。
知覚機能に故障は無い。正常に稼働し距離も反響で計算している。
だが、やはり、近くなり遠くなっている。
呼んでいるようで、逃げているようでもある。
森の逃げる泉。
森王の泉。
その入口へ、ルミナリス一行は足を踏み入れた。
ルルリアが前を向くと、森の奥から、水の匂いがした。
ひんやりと冷気も感じる。
冷たく、深く、澄んでいる水の気配。
イグニスの焔が、少しだけ小さくなる。
「近いぞ」
「森王の泉ですか」
ルミナリスの声も小さかった。
「まだ入口の入口だ。森の逃げる泉って噂になるくらいだ。まともに追うと逃げられる」
「では、どうすればいいのですか」
「羅針盤を見ろ。水の音を追うな。足元を見ろ。名前を呼ばれても返事するな。俺様が止まれと言ったら止まる。いいな」
「はい」
「ルルリア、おまえは特にだ。変な声に反応して走るな」
「分かってる」
「分かってなさそうだから言ってる」
「分かってるって」
メル・アラが、腰で小さく鳴った。
新しい翼は、慣れてきたとはいえまだ少しぎこちない。
それでも、前へ進むには十分だった。
ルミナリス一行は、古い獣道の奥へさらに進む。
森王の泉へ続く道が、木々の影の中で細く開いていた。
その先で、水の音がした。
まるで誰かが、名を呼ぶ前に息を吸ったような音だった。
古い獣道は、すぐに道ではなくなった。
最初は、人が一人通れる程度の細い踏み跡だった。
草は腰ほどまで伸び、湿った土には小さな足跡がいくつも残っている。
獣のもの。
それから、何のものか分からない細い跡。
少し進むと、踏み跡は消えた。
あるはずの道が、草の下へ潜ったようだった。
振り返れば、さっきまで歩いていた道も見えにくい。
ルルリアは足を止めた。
「もう戻る道が見えないんだけど」
「見るな」
イグニスが言った。
「戻る道を探すと、森が親切なふりをする。親切な森ほど信用するな」
「親切なのに?」
「親切な顔をした罠が一番面倒だ」
イグニスは乱暴に前を指した。
「羅針盤を見ろ。地面を見るな。水の音を追うな。俺様の火を見失うな」
ルミナリスは星の羅針盤を持ち直した。
針は震えている。
細かく震え、時々止まり、また別の方角へわずかに傾く。
まるで、何かに迷わされているようだった。
「針が落ち着きません」
「泉が逃げてるんじゃねえ。こっちを試してる」
イグニスの焔は、いつもより低く燃えていた。
「右だ」
ルミナリスは右へ向かう。
すぐに、足元で水音がした。
小さな流れが草の下を通っている。
澄んだ水だった。
手を伸ばせば、すくえそうに見える。
ルルリアが少し屈もうとした瞬間、イグニスが怒鳴った。
「触るな!」
ルルリアの手が止まる。
「まだ触ってない」
「触る顔だった」
「顔で分かるの?」
「分かる。おまえは好奇心が足に出る」
「足?」
「今、半歩寄っただろ」
ルルリアは自分の足を見る。
確かに、メル・アラの右足が少しだけ水へ向いていた。
「……怖い」
「怖がれ。正しい」
イグニスは水の上へ近づいた。
焔が水面を照らす。
水面には、ルルリアの顔が映っていた。
だが、少し違う。
映った顔は、笑っていた。
ルルリア自身は笑っていない。
「うわ」
ルルリアは一歩下がった。
水面の顔も、一歩下がる。
そして、唇だけが動いた。
声はなかった。
それでも、何かを言っているように見えた。
「見るな」
オルクスの声が低く落ちる。
ルルリアはすぐに顔を逸らした。
「今の、何」
「水が真似ている」
オルクスは剣の柄に手を添えていた。
抜いてはいない。
「こちらの形を覚えようとしている。まだ敵意ではない」
「敵意じゃなくてこれ?」
「好奇心だ。あとじじい剣士は剣を抜くな」
「精霊の好奇心、嫌いになりそう」
イグニスが鼻で笑うように火を揺らした。
「まだましだ。嫌われたら水じゃ済まねえ」
水音は、すぐに遠ざかった。
さっきまで足元にあった流れは、草の下から消えていた。
濡れていたはずの土も、乾き始めている。
ルミナリスは羅針盤を見る。
針は、消えた水の方ではなく、さらに森の奥を指していた。
「追ってはいけないのですね」
「そうだ。逃げる水を追うと、いつまでも着かねえ。逃げた水じゃなく、残った匂いを追う」
「匂いですか」
「羅針盤には道が見える。俺様には、水がどこで嘘をついたか分かる」
イグニスは前へ飛んだ。
「こっちだ」
一行はさらに奥へ進む。
木々は、いつの間にか大きくなっていた。
幹には苔が厚くつき、枝は空を覆うように絡んでいる。
朝のはずなのに、森の中は夕方のように薄暗い。
葉の隙間から落ちる光は、金色ではなく、青白かった。
ルミナリスは胸元の灼熱の石守に触れた。
石は服の内側で、静かな温もりを返している。
冷えた森の中にいるほど、その温もりははっきり感じられた。
「その石、効いてるか」
イグニスが聞いた。
「はい。温かいです」
「なら持っとけ。ここは水と木の場所だ。火を嫌うものもいれば、火を欲しがるものもいる。おまえは目立つ」
「私が?」
「杖を持ってる。羅針盤を持ってる。妙な魂を抱えてる。目立たねえと思う方が無理だ」
ルミナリスは少し困った顔をした。
「では、どうすれば」
「堂々としてろ。こそこそすると、森は追いかけたくなる」
ルルリアが横から言う。
「イグニスの助言、乱暴だけど役に立つのが腹立つ」
「ありがたく聞け」
「ありがとう」
「素直すぎるのも腹立つ」
その時、遠くから声がした。
ルルリア。
ルルリアは立ち止まった。
声は、確かに自分の名を呼んだ。
しかも、聞き慣れた声だった。
小さな、懐かしい声。
昔、鳥籠の中で聞いたような。
逃げる前の夜に聞いたような。
ルルリア。
もう一度、声がする。
今度は、少し近い。
ルルリアの足が動きかけた。
メル・アラが腰で鳴る。
その音で、ルルリアは我に返った。
「……返事、しない」
小さく呟く。
声は止まった。
次の瞬間、別の声がした。
ルミナリス。
ルミナリスは顔を上げる。
その声は、ソラデアに似ていた。
優しく、懐かしく、胸の奥を直接撫でるような声。
ルミナリス。
こちらへ。
ルミナリスの指が、星の羅針盤から少し離れた。
オルクスが動こうとする。
だが、踏み出せない。
森の空気が、オルクスの足元を静かに押さえていた。
精霊人エルフの剣は、この試しに届かない。
オルクスの顔に、苦いものが走る。
「ルミナリス」
低く呼ぶ。
だが、それ以上はできない。
ルミナリスは声の方を見つめていた。
イグニスが、ルミナリスの目の前に飛び出した。
「聞くな!」
焔が荒く燃える。
「それは声じゃねえ。餌だ!」
ルミナリスの肩が震えた。
星の羅針盤が、手の中で強く光る。
針は、声のした方とは別の方角を指していた。
次回、さらに奥へと進む一行に訪れる試練を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




