精霊の庭へⅨ ~ 龍王の鱗
イグニスが舌打ちするように焔を散らす。
「どいつもこいつも甘いな」
「分かってる」
ルルリアは右手を下ろした。
テンフラウの内側で、鋼球が回転している。
「でも、今は殺す相手じゃないと思ったの」
「面倒を抱え込むのが好きなやつらだな」
「覚悟はしてる」
「ならいい」
イグニスはそれ以上言わなかった。
~本文より
「荷を奪う気もなく、命を取る気もなく、ただ恐怖だけを残す者たちよ。おまえたちは賊ではない。賊の皮を着せられた哀れな役者だ」
賊の一人が牙を剥く。
「獣人が人間の商人を庇うのか!」
「うちの商会の者だ。獣人種も人間種も関係ない」
主人の声は、静かだった。
「荷を運ぶ者は仲間だ。飯を分ける者も仲間だ。道で倒れた時に手を貸す者も仲間だ」
「きれいごとを!」
「商人だからな。きれいに包まねば、売れるものも売れん」
火トカゲ人の主人は棍棒を構え直した。
「私の仲間に手を出すな」
その言葉に、人間種の商人たちが主人の背後へ集まった。
獣人種の御者もいる。
人間種の荷運びもいる。
小さな火トカゲ人の子供も、荷台の奥で震えながら主人を見ている。
ルミナリスは、その光景を見た。
種族が違う。
形も違う。
でも、互いを守ろうとしている。
それは、帝国や王国や大商会の話より、ずっと小さな世界だった。
小さくて壊れやすい。
だからこそ、守らなければ簡単に踏み潰される。
「イグニスさん」
ルミナリスが呼ぶ。
「燃やすなって言うんだろ」
「はい」
「言われなくても分かってる」
イグニスの焔が不機嫌に揺れた。
「ちょっと脅すだけだ」
次の瞬間、賊たちの背後で火柱が上がった。
誰も焼いていない。
逃げ道の横に、壁のような炎が立つ。
賊たちが一斉に退いた。
「今だけは見逃してやる」
イグニスの声が響く。
「焔の精霊は焔を通してすべてを見る。次は無え」
脅しは分かりやすかった。
賊たちは崩れた。
一人が逃げる。
それにつられて、残りも走り出す。
オルクスは追わない。
ルルリアは、一人だけ逃げ遅れた賊の腕をテンフラウで軽く弾いた。
雷が走り、武器が落ちる。
「行きなよ」
ルルリアは言った。
賊が睨む。
「何だと」
「逃げるなら今。捕まったら、たぶん雇った人たちに切られるよ」
賊の顔色が変わった。
ルルリアは小さく続ける。
「あなたたち、賊にさせられてるんでしょ。違う?」
答えはなかった。
賊は武器を拾わず、森の奥へ逃げた。
イグニスが舌打ちするように焔を散らす。
「どいつもこいつも甘いな」
「分かってる」
ルルリアは右手を下ろした。
テンフラウの内側で、鋼球が回転している。
「でも、今は殺す相手じゃないと思ったの」
「面倒を抱え込むのが好きなやつらだな」
「覚悟はしてる」
「ならいい」
イグニスはそれ以上言わなかった。
ルミナリスは倒れた商人へ駆け寄る。
「怪我を見せてください」
「いや、助かった。本当に助かった」
人間種の商人が震えながら頭を下げる。
荷台の奥から子供が顔を出した。
さっきルルリアが庇った子だ。
ルルリアを見ると、子供は小さく手を振った。
ルルリアは少し戸惑いながら、右手ではなく左手で振り返す。
右手はまだ痺れていた。
「痛い」
小さく呟く。
バルカの言葉が頭をよぎった。
痛いくらいで済むようにした。
確かに、右手は動く。
テンフラウは壊れていない。
メル・アラも腰で静かに鳴っている。
初実戦としては、たぶん悪くない。
火トカゲ人の主人が、ルルリアたちの前へ歩いてきた。
赤銅色の鱗は、朝の光を受けて鈍く光っている。
眼差しは落ち着いていたが、首元のお守りを握る手には力がこもっていた。
「助けていただき、感謝します」
主人は深く頭を下げた。
「私は、ザイムと申します。見ての通り、小さな隊商の主です。帝国の荷でも、ゴルデンオストの荷でもありません。ただの商人です」
ルルリアは、少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった。ゴルデンオストじゃなくて」
ザイムは一瞬だけ不思議そうな顔をして、それから苦笑した。
「大商会に見えましたか」
「見えないから、よかった」
「それは安心しました」
ザイムは、今度はルミナリスへ向いた。
「荷も人も救われました。礼をしなければなりませんが、今は道の上です。まずは怪我人の手当てを」
「はい。手伝います」
ルミナリスは頷く。
オルクスは周囲を見た。
「まだ近くに残っているかもしれぬ。手当ての間、警戒する」
「お願いします」
ザイムは深く頭を下げた。
その時、首元のお守りが服の外へこぼれた。
黒い小さな鱗。
石にも見える。
金属にも見える。
古い骨にも見える。
ただ、近づくと妙な圧があった。
ルルリアは、それを見て眉を寄せた。
「それ、お守り?」
ザイムは少し照れたように、首元へ手をやった。
「ええ。先祖代々の形見です。大したものではありません。古い鱗だと聞いております」
「鱗?」
「祖父の祖父よりも前から、家にあるものです。火事でも割れず、盗賊に襲われた時も失くならず、嵐の夜にも紐だけは切れなかった、と」
イグニスの焔が、ふいに強くなった。
「おい。そいつを見せろ」
ザイムは少し身を引いた。
「これは売り物ではありません」
「誰が買うと言った。見せろ。噛みつきゃしねえ」
「燃やしませんか」
「燃やすか。そんなもん燃やしたら、こっちの火が嫌がる」
ルミナリスが困ったようにイグニスを見る。
「イグニスさん、もう少し優しく」
「優しくしてるだろうが」
「していません」
ザイムは戸惑いながらも、首元のお守りを少しだけ持ち上げた。
黒い欠片は、朝の光を吸い込むように鈍く光っていた。
魔石の光ではない。呪具の光でもない。
それ自体が光を重々しく発している。
イグニスは、じっとそれを見た。
「ただの鱗じゃねえな」
イグニスの焔が、少しだけ変な揺れ方をした。
ルルリアはそれに気づく。
「知ってるの?」
「知らん」
「今の言い方、絶対知ってる」
「うるせえ」
イグニスは黒い鱗を睨む。
「龍王の鱗の欠片だ。しかも、かなり古い。龍王の中でも変わり者の奴の欠片だな」
「龍王……」
ザイムの声が震えた。
周囲の商人たちも、息を呑む。
ルルリアが小さく首を傾げた。
「龍王って、龍の王様?」
「雑に言えばそうだ」
「雑じゃない言い方だと?」
「面倒だ。今はそれでいい」
イグニスは鱗を睨み続ける。
「龍王の中にも、いろいろいる。空の上でふんぞり返ってる奴、海の底で寝てる奴、山みたいに動かねえ奴、人間なんざ虫だと思ってる奴」
「怖いですね」
ルミナリスが言う。
「怖くねえ龍王なんざいねえよ」
イグニスは、少しだけ黙った。
「そいつは変わり者だ。地上の小さい命が好きなんだよ。獣も、人間も、火トカゲも、鳥も、虫も、勝手に生きて、勝手に転んで、勝手に立つ。そういうのを見てるのが好きな変な奴だ」
「優しい龍王なのですか」
ルミナリスが尋ねた。
イグニスはすぐには答えなかった。
「優しい、で済むような奴じゃねえ」
声に、ほんの少しだけ昔を思い出す響きがあった。
「でかい。重い。強い。腹が立つくらい強い。まあ……悪い奴じゃねえよ」
「戦ったことがあるみたいな言い方」
ルルリアが言った。
イグニスの焔が、ぼっと大きくなる。
「ない」
「あるんだ」
「ないと言ってるだろうが」
「負けた?」
「燃やすぞ」
ルルリアはすぐに両手を上げた。
「はい、言いません」
イグニスはそっぽを向いた。
「とにかく、それは売るな。捨てるな。悪魔に見せるな。変な術師に触らせるな。そいつは気まぐれだが、守ると決めたものはしつこく守る」
ザイムは、お守りを両手で包んだ。
「この鱗は、私たちを守ってくれていたのですね」
「たぶんな」
イグニスは少しだけ焔を弱めた。
「持ち主を王様みたいに守るんじゃねえ。小さい命を、もう少しだけ生かす守りだ。火を逸らす。悪意を鈍らせる。死ぬはずの一撃を、少しだけずらす」
ザイムは、深く息を吐いた。
「先祖が助かったのは、このおかげだったのかもしれません」
「かもしれねえな」
イグニスはそっぽを向いたまま言う。
「大事にしろ。他の奴には絶対に渡すな」
最後の言葉だけ、火が強くなった。
ザイムは深く頷いた。
「分かりました。これは、家の守りです」
ルミナリスは、黒い鱗を見つめた。
何かが分かったわけではない。
鱗が呼んだわけでもない。
ただ、守るという言葉だけが、胸に残った。
小さい命を、もう少しだけ生かす守り。
その響きが、なぜか忘れられなかった。
次回、精霊の庭へ進む一行の旅の一時を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




