精霊の庭へⅥ ~帝国の法の番人
「……お客様ですね」
部下が反射的に剣へ手を伸ばしかけた。
「抜かなくて結構です」
ヴェルドリクの声は静かだった。
「この距離まで入られている時点で、剣を抜く段階は過ぎています」
~本文より
ヴェルドリクの仮設拠点には、窓が少なかった。
外から見れば、古い倉庫の二階にすぎない。商人が使わなくなった帳簿置き場。
潮で傷んだ木壁。剥げかけた看板。港の湿気を吸った階段。
その奥に、帝国監察局の目が置かれている。
机の上で、記録片が静かに光っていた。
「監察局本部へは、機構改善案を添えてください。記録核、通行証、支援物資内の照合機構は、すべて改修対象です」
部下が記録を取る。
ヴェルドリクは、そこでわずかに目を細めた。
部屋の空気が、ほんの少し変わっていた。
風ではない。魔力でもない。殺気でもない。
頁が一枚だけめくられたような気配。
「……お客様ですね」
部下が反射的に剣へ手を伸ばしかけた。
「抜かなくて結構です」
ヴェルドリクの声は静かだった。
「この距離まで入られている時点で、剣を抜く段階は過ぎています」
部下の指が止まる。
部屋の隅。
積まれた古い木箱の影が、わずかに濃くなった。
そこに、人の形があった。
ただ、影が人の輪郭を真似ている。
顔は見えない。目も見えない。息も感じない。
それでも、そこにいる。
ヴェルドリクは椅子に座ったまま、影へ視線を向けた。
「極星法座の方でしょうか」
影は答えない。
「沈黙は肯定として扱いますよ」
返事はない。
ヴェルドリクは薄く笑った。
「なるほど。金の天秤ですか」
部下の肩が強張る。
極星法座。
帝国の法執行最高機関。
皇帝の名のもとに、帝国の法を執行する最奥の機関。
その中でも、金の天秤は別格だった。
座長にして最高法執行官ヴァルドの配下。
法の名で人を裁き、法の隙間に潜るものを掴み、帝国の秤を傾ける者を処理する影。
表の軍が届かない場所へ届く。
貴族の名が守る扉を開く。
悪魔との契約すら、法の文言で縛り上げる。
帝国の中で、もっとも静かで危険な刃。
だが、ヴェルドリクは、恐れている様子を見せなかった。
「私の報告書に、ご興味が?」
影は答えない。
机の上に置かれていた一枚の写しが、音もなく浮いた。
アラン卿へ送る予定だった第二版だ。
影はそれを手に取らない。
触れずに、ただ内容だけを読む。
ヴェルドリクは、咎めなかった。
「ご覧になっても構いません。私は職務を果たしているだけです」
影の輪郭が、わずかに揺れた。
机の上の写しから、数行の文字が薄くなっていく。
ルイナリス達の観察記録の内容だった。
文字は消えたのではない。法的閲覧不能の封に入れられたのだ。
許可なき者には、初めから書かれていないようにしか見えない。
執行保全。
ヴェルドリクは、その処理を見て微笑んだ。
「お見事ですね。削除ではなく保全ですか。金の天秤らしい」
影は沈黙したままだった。
「アラン卿への排除手続きは、もう始まっていると見てよろしいですか」
部下が息を呑んだ。
アラン卿。
悪魔と言われる存在。
ヴェルドリクにとっては友人であり、協力者でもある。
同時に、帝国の法の外へ指を伸ばす危険な存在でもあった。
影は答えない。
沈黙は、今度も肯定に近かった。
ヴェルドリクは、筆を手に取る。
「私はアラン卿と敵対するつもりはありませんよ」
静かな声だった。
「悪魔の知性は有用です。古い文明、魂の構造、名の重み。あの方の視点から得られるものは多い」
筆先が、紙に触れる。
「まあそれでも、人間種の名簿を好みすぎる点は、監察局としても少々扱いに困ります」
影の奥で、何かがわずかに動いた。
ヴェルドリクは続ける。
「ヴァルド座長は、どこまでご存じなのでしょう」
その名が出た瞬間、部屋の温度が下がった。
部下の顔から血の気が引く。
その名を口にすることは死刑宣告に等しいからだ。
ヴェルドリクは、動じない。
「失礼。最高法執行官、と呼ぶべきでしたか」
影は答えない。
沈黙は、今までよりも重かった。
ヴェルドリクは、筆を止めた。
「ご安心ください。私は、詮索を職務に含めるほど愚かではありません。監察局局員として、見えるものだけを記録します。見えないものを暴くのは、私の担当ではない」
影の輪郭が、少しだけ薄くなる。
「ただし、私の試験を壊されるのは困ります」
ヴェルドリクの声は、どこまでも丁寧だった。
「ルミナリス一行は、今後の帝国機構を測るうえで貴重な対象です。精霊の庭へ向かうなら、あの環境でどの程度の観察が可能か確認したい」
影は、まだ消えない。
「もちろん、人間種の避難者やリシュタ家の子供たちへ繋がる情報は渡しません。アラン卿へも、必要分だけに留めます。金の天秤がそれを望むなら、私の判断と衝突しません」
部屋に沈黙が落ちた。
やがて、影が初めて動いた。
木箱の影から、黒い指先のようなものが伸びる。
机の上に置かれた一枚の記録片を指す。
潮翼機甲メル・アラの観測記録。
ヴェルドリクはそれを見た。
「これですか?」
影は答えない。
記録片の一部が、薄く光る。
対象、ルルリア。
旧ゴルデンオスト系斥候技術保持。
新装具により救出到達性能向上。
その下に、影が新たな封をかけた。
閲覧不可。
ヴェルドリクは、小さく笑った。
「なるほど。アラン卿には、些細な変化すら情報を渡したくないのですね」
影は、静かに沈んでいく。
去る前に、机の上へ一枚の黒い札が残された。
中央には、傾かない天秤の紋。
帝国法執行保全命令。
対象。ルミナリス一行に関する個人識別情報の一部。
執行者。金の天秤。
ヴェルドリクは、その札を見下ろした。
「正式な命令書ですか。律儀なことです」
影は消え、部屋の隅に残った冷たさだけが、金の天秤の存在を示していた。
部下が、ようやく息を吐いた。
「……追いますか?」
ヴェルドリクは首を横に振った。
「追いません。あれを追うのは、監察ではなく自殺です」
「報告は如何しましょう?」
「不要です」
「金の異端者様にも、ですか」
ヴェルドリクは少し考えた。
「いいえ。金の異端者様には、極星法座による執行保全命令が入った、とだけ報告します。金の天秤の影が直接来たとは書かないでください」
「なぜですか」
「書けば、読みたい者が増えます」
ヴェルドリクは、黒い札を封筒に入れた。
「読みたい者が増えれば、消される者も増える。私は試験官です。無駄な死体を増やす仕事ではありません」
部下は深く頭を下げた。
ヴェルドリクは再び報告書に目を落とす。
「アラン卿へは、第二版ではなく第三版を送ります」
「第三版、ですか」
「ええ。金の天秤に見られた以上、第二版では不用心です。第三版では、ルルリアの名を少し薄めましょう。装具の性能は残す。解除手順は消す。感情変化は削る。リシュタ家に繋がる痕跡は完全に伏せる」
「アラン卿に疑われるのでは」
「疑うでしょうね」
ヴェルドリクは、冷たく笑った。
「疑う程度なら、友情の範囲です」
筆が走る。
報告書の頁が、また一枚増えた。
その上に、ヴェルドリクは短く記した。
監察継続。
対象を精霊の庭方面へ誘導。
金の天秤による執行保全あり。
ヴェルドリクは筆を置いた。
「さて」
静かな声が、灯の下に落ちる。
「試験は、少し面白くなりましたね」
次回、極星法座とルミナリス一行の旅の始まりを描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




