精霊の庭へⅢ ~見守る者
その下にある腕輪には、帝国法最高位の封印が刻まれている。
並ぶはずのない二つが、同じ場所にあった。
流浪者の外套。
一つ星の天秤の腕輪。
低い声が落ちる。
「報告を」
金の天秤の影が、頭を垂れたまま答える。
「ヴェルドリク・ゼナは、精霊の庭への通常追跡を否定。入口手前までの観察に留める判断を下しました」
極星法座の金の天秤の影が、一人の男の前に膝をついていた。
壁には、帝国法の条文が刻まれた石板をぶら下げている。
貴族の罪。 軍の越権。
悪魔契約。異種族による帝国法侵犯。
精霊災害。
神獣級存在への執行規定。
人の手に余るものを、それでも法の内側に引きずり込むための条文だった。
奥の席に、顔は見えない。
ただ、椅子の背には粗末な外套が掛けられていた。
帝国第四等民の流浪者が身につけるような、色褪せた布。
その下にある腕輪には、帝国法最高位の封印が刻まれている。
並ぶはずのない二つが、同じ場所にあった。
流浪者の外套。
一つ星の天秤の腕輪。
低い声が落ちる。
「報告を」
金の天秤の影が、頭を垂れたまま答える。
「ヴェルドリク・ゼナは、精霊の庭への通常追跡を否定。入口手前までの観察に留める判断を下しました」
「妥当だ」
声に、感情の揺れはない。
「監察局員としては、よく弁えている。精霊の領分へ軍靴を入れれば、踏んだ土が敵になる」
「アラン卿へ流れる記録の一部は、執行保全により封じました。ルルリアの解除手順、人間種避難名簿、リシュタ家関係者、精霊の庭の象徴推察はいずれも悪魔閲覧不可としています」
「いいだろう」
「アラン卿の排除手続きは」
部屋の奥で、金の天秤がかすかに鳴った。
「変更はない」
短い命令だった。
「ただし、戦力の分析が終わらない限り、手は出すな」
影は顔を上げない。
「斬るだけでは足りぬ。契約、媒介、証人、利益の流れ、そのすべてを法の下へ引きずり出してから裁く」
「承知しました」
「アラン卿は名を欲している。名簿を欲している。契約の入口を欲している。保護ではない。欲望のままの刈り取りだ」
低い声が、条文の刻まれた壁に触れて沈む。
「欲しいままの悪事を、権力の衣で隠すなら、衣ごと剥ぐ」
金の天秤の影が、さらに深く頭を垂れた。
「精霊の庭内部への介入は如何しましょう?」
「現時点では不要だ」
「精霊が帝国に反目した場合は?」
「その時は、全て排除する」
答えは短く、冷たかった。
「相手が精霊王であろうと、古き森であろうと、帝国領内で帝国の民を害し、帝国法に反するなら執行対象だ」
「可能ですか」
「そのために、金の天秤がある」
静かな声だった。
誇りではない。
威嚇でもない。
ただの事実として告げられた。
「ただし、今は違う。精霊の庭は隠している。守っている。害しているのではない」
報告書の頁がめくられる。
「アルゲントルム魔法人の隠里。王国の血統。森の精霊王の保護。いずれも帝国にとって危険ではある。だが、危険と違法は同じではない」
影は動かなかった。
「ルミナリス一行は?」
「何物にも触れさせるな」
声が少しだけ低くなる。
「試練は、当人たちのものだ。我々、金の天秤も同じだ」
「見守るのみ、ですか」
「入口までは道を濁らせるな。干渉しようとする手だけを削れ。精霊の庭が拒むなら、それは庭の理だ。通すなら、それも庭の理だ」
椅子の背で、粗末な外套がわずかに揺れた。
「帝国法は万能ではない。万能であろうとした法は、暴政になる」
金の天秤の影は、深く頭を下げた。
「承知しました」
「ただし」
声が、最後に冷たく落ちる。
「精霊が帝国の民を、人間種を狩るなら、その瞬間に話は変わる」
金の天秤が、静かに傾いた。
「その時は、森ごと秤に載せる」
影は消えた。
部屋には、古い条文と、粗末な外套と、小さな歯車細工だけが残る。
机の隅に置かれた歯車細工は、子供の手で作られたものだった。
噛み合わせは少し甘い。
それでも、丁寧に磨かれている。
リシュタ家の子供たちが残したもの。
低い声が、その歯車へ向けて静かに落ちた。
「あの子らは、帝国の道具ではない。人々の未来だ」
灯が一つ消える。
気配は外へと消えていく。
しばらくの後、アステル・リーフの屋根の上を、黒い小鳥が飛んでいた。
嘴の内側に、悪魔の細い印が刻まれている。
アラン卿の目だ。
小鳥は、そのまま飛ぶ。
見たものを運ぶ。
聞いたものを運ぶ。
ルルリアの針の動き。
ルミナリスとオルクスの影。
精霊の庭などの大事な話の輪郭を、屋根の上にある、ただの古い銅貨へと。
帝国監察局のものでも、商会のものでもない。
古き忘れられた魔法。
悪魔の契約に触れた者が、魂と名の値段を測るために使う、いわば小さな秤だ。
金の天秤の影は、それを見下ろした。
掌に、傾かない天秤の紋が浮かぶ。
小さな秤は音もなく割れた。
破壊ではない。
法に基づく押収だった。
割れた秤は黒い布に包まれる。
アラン卿へ伸びる手は、一本ずつ短くなっていく。
殺しではない。
襲撃でもない。
宣戦でもない。
排除の準備。
悪魔がまだ気づかぬ場所で、帝国法の刃が静かに研がれていた
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