精霊の庭へⅡ ~極星法座の天秤
部下が剣へ手を伸ばしかける。
「抜かなくて結構です」
ヴェルドリクの声は、変わらず丁寧だった。
「この距離まで入られている時点で、剣を抜く段階は過ぎています」
部屋の隅。
積まれた木箱の影が、少しだけ濃くなった。
そこに、人の形があった。
~本文より
アラン卿。
友人であり、協力者であり、帝国法の外へ指を伸ばす危険な知性でもある。
恐らく人外の存在。
「第三版を送ります」
「第三版、ですか」
「ええ。第二版でも情報が多すぎます。ルルリアの解除手順、通行証の改変構造、人間種避難名簿、リシュタ家に繋がる断片はすべて伏せてください」
「アラン卿に疑われるのでは」
「疑うでしょうね」
ヴェルドリクは、冷たく微笑んだ。
「疑う程度なら、友情の範囲です」
その時だった。
机の上の灯が、ふっと小さく揺れた。
風はない。
窓は閉じている。
部下が剣へ手を伸ばしかける。
「抜かなくて結構です」
ヴェルドリクの声は、変わらず丁寧だった。
「この距離まで入られている時点で、剣を抜く段階は過ぎています」
部屋の隅。
積まれた木箱の影が、少しだけ濃くなった。
そこに、人の形があった。
黒衣ではない。
外套でもない。
ただ、影が人の輪郭を真似ている。
顔は見えない。
息もない。
音もない。
そこにいるという事実だけが、部屋の温度を下げていた。
ヴェルドリクは椅子に座ったまま、その影へ視線を向けた。
「極星法座の方でしょうか」
影は答えない。
「沈黙は肯定として扱いますよ」
返事はない。
「なるほど。金の天秤ですね」
部下の肩が強張った。
極星法座。
帝国の法執行最高機関。
皇帝の名のもとに、帝国の法を執行する最奥の機関。
その中でも、金の天秤は別格だった。
座長にして最高峰執行官ヴァルド。
その配下は、法の名で人を裁き、法の隙間に潜るものを掴み、帝国に反する存在を処理する。
相手が貴族であろうと、軍であろうと、悪魔であろうと、精霊であろうと。
帝国に反するなら、秤に載せる。
そして、裁く。
だが、ヴェルドリクは、恐れている様子を見せなかった。
「私の報告書に、ご興味が?」
影は答えない。
机の上に置かれていた第三版の写しが、音もなく浮いた。
アラン卿へ送る予定だった報告書だ。
影は手に取らない。
触れずに、内容だけを読む。
紙面の一部が、淡い金の光を帯びた。
通行証改変の手順。
名簿追跡不能化の構造。
ルルリアの針の動き。
リシュタ家へ繋がる補給経路の断片。
人間種避難名簿。
精霊の庭に関わる象徴存在の推察。
それらの文字が、順に薄くなる。
消えたのではない。
法的閲覧不能の封に入った。
許可なき者には、初めから書かれていないようにしか見えない。
改竄ではない。
破棄でもない。
証拠隠滅でもない。
執行保全。
ヴェルドリクは、その処理を見て小さく笑った。
「お見事ですね。削除ではなく保全ですか。金の天秤らしい」
影は沈黙したままだった。
「アラン卿への排除手続きは、もう始まっていると見てよろしいですか」
部下が息を呑む。
影は答えない。
沈黙は、肯定に近かった。
ヴェルドリクは筆を手に取る。
「私はアラン卿と敵対するつもりはありません。悪魔の知性は有用です。古い文明、魂の構造、名の重み。あの方の視点から得られるものは多い」
筆先が紙に触れる。
「ですが、人間種の名簿を好みすぎる点は、監察局としても扱いに困ります」
影の輪郭が、わずかに揺れた。
「ヴァルド座長は、どこまでご存じなのでしょう」
その名が出た瞬間、部屋の温度がさらに下がった。
部下の顔から血の気が引く。
ヴェルドリクは動じなかった。
「失礼。最高峰執行官、と呼ぶべきでしたか」
影は答えない。
沈黙は、これまでよりも重かった。
「ご安心ください。私は、詮索を職務に含めるほど愚かではありません。監察局局員として、見えるものだけを記録します。見えないものを暴くのは、私の担当ではない」
影の輪郭が、ほんの少し薄くなる。
「ただし、私の監察を壊されるのは困ります」
ヴェルドリクの声は、どこまでも丁寧だった。
「ルミナリス一行は、今後の帝国機構を測るうえで貴重な対象です。精霊の庭へ向かう意味も大きい。ただし、庭そのものには踏み込みません。精霊に関わる時は、距離を誤った者から消えます」
影はまだ消えない。
「もちろん、人間種の避難者やリシュタ家の子供たちへ繋がる情報は渡しません。アラン卿へも、必要分だけに留めます。金の天秤がそれを望むなら、私の判断と衝突しません」
部屋に沈黙が落ちた。
やがて、影が初めて動いた。
黒い指先のようなものが伸び、机の上に置かれた一枚の記録片を指す。
精霊の庭方面。
王国残党再結集に関わる象徴存在、または隠里の可能性あり。
その項目の上に、金の封が落ちた。
閲覧不可。
ヴェルドリクは目を細める。
「そこも伏せますか」
影は答えない。
「アラン卿には、象徴の推察も渡したくないのですね」
沈黙。
やはり肯定に近い。
机の上に、一枚の黒い札が残された。
金の縁取り。
中央には、傾かない天秤の紋。
帝国法執行保全命令。
対象。
人間種避難名簿。
リシュタ家関係者。
悪魔契約誘導に繋がる記録。
ルミナリス一行に関する個人識別情報の一部。
精霊の庭に関する象徴推察の一部。
執行系統、金の天秤。
無条件執行の権限付与。
ヴェルドリクは、その札を見下ろした。
「正式な命令書ですか。律儀なことです」
影は消えた。
部屋の隅に、冷たさだけが残る。
部下が、ようやく息を吐いた。
「追いますか」
「追いません」
ヴェルドリクは首を横に振った。
「あれを追うのは、監察ではなく自殺です」
「報告は」
「金の異端者様には、極星法座による執行保全命令が入った、とだけ報告します。金の天秤の影が直接来たとは書かないでください」
「なぜですか」
「書けば、読みたい者が増えます」
ヴェルドリクは、黒い札を封筒に入れた。
「読みたい者が増えれば、消される者も増える。私は試験官です。無駄な死体を増やす仕事ではありません」
部下は深く頭を下げた。
「アラン卿へは」
「第四版を送ります」
「第四版、ですか」
「ええ。金の天秤に見られた以上、第三版では不用心です。装具の性能は残す。精霊の庭の名は残す。王国残党の動きも残す。ただし、象徴の推察は薄めます。ルルリアの解除手順、人間種の名簿、リシュタ家の痕跡は完全に伏せる」
「アラン卿に疑われます」
「疑うでしょうね」
ヴェルドリクは冷たく笑った。
「疑う程度なら、まだ友情の範囲です」
筆が走る。
報告書の頁が、また一枚増えた。
監察継続。
精霊の庭入口手前まで。
通常部隊派遣不可。
金の天秤による執行保全あり。
悪魔系統への情報流出制限、要。
最後に、短く書き足す。
精霊領域は、帝国機構の測定限界を超える可能性あり。
不用意な接触は禁忌。
観察できないこともまた、記録とする。
ヴェルドリクは筆を置いた。
「さて」
静かな声が、灯の下に落ちる。
「試験は、少し複雑になりましたね」
次回、金の天秤を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




