金枝の鳥籠ⅩⅦ ~新しき翼
バルカがイグニスを見た。
「一瞬だけだ。噛ませすぎるなよ。石が火を覚えすぎると、装具が持ち主を焼く。その前に灰にはしないでくれ」
「俺様に指図する気か、土くれの鍛冶師」
「炉の前では、俺は絶対だ。火も鉄も俺の言うことを聞かせる」
工房の空気が、ぴんと張った。
ルミナリスが少し慌てる。
「あの、喧嘩は」
~本文より
アステル・リーフの通りには、昼の喧騒が戻り始めていた。
荷車が軋み、鍛冶場の槌音が遠くで鳴る。
魚を売る声と、鉄を運ぶ声と、酒場から漏れる笑い声が混ざっている。
そのすべてが、生きている町の音だった。
ふと、ルルリアは背中に視線を感じた。
ゴルデンオストの目ではない。
商人の目でもない。
もっと乾いていて、もっと冷たい。
荷の流れを見る目。
人の動きを測る目。
失敗を怒るのではなく、失敗の形を記録する目。
ルルリアは立ち止まらなかった。
見られている。
その感覚だけを胸にしまい、歩き続ける。
「どうした? やはり気になるかの?」
オルクスが低く問う。
「ううん。何か、まだ見られてる気がしているだけ」
「商会かの?」
「違うと思う。もっと……嫌な感じ」
オルクスの目が細くなる。
「それは……厄介だの」
「うん。でも、今は名前が分からない」
「良いか。今は相手を追うな。足を止めるな」
「分かってる」
ルルリアは頷いた。
逃げるために歩くのではない。
次へ間に合うために歩く。
バルカの工房へ戻れば、素材が届く。
龍の血一滴。
火喰い玉石。
中空魔導骨。
銀青鋼。
微細魔導環。
魔鉄鋼。
そして、イグニスの焔。
「ねえ、イグニス」
「なんだ、小鳥」
「燃やさずに、火喰い玉石に焔を噛ませるの、できる?」
「できるに決まっている。俺様を何だと思っている」
「焚火?」
「貴様」
イグニスの焔が一瞬だけ膨らんだ。
ルミナリスが困ったように微笑む。
「イグニスさんは、すごい焔です」
「分かっているならよい」
「そして、優しい焔です」
「そこは違う」
「はい」
「また納得したふりをしたな」
ルルリアは、また少し笑った。
笑うたびに、胸の奥の痛みが少しずつ形を変えていく。
消えるわけではない。
消したいわけでもない。
痛みがあるから、覚えていられる。
蜂蜜入りのお茶の味。
鳥籠の温かさ。
そこから出ると決めた冷たい空気。
すべてを持ったまま、前へ行く。
バルカの工房が見えてきた。
煙突から、濃い煙が上がっている。
炉の音が、低く町の石畳を震わせていた。
工房の前には、すでに荷車が二台止まっていた。
早すぎる。
ルルリアは思わず顔をしかめた。
「……もう届いてる」
オルクスが荷車を見る。
「仕事が早いな」
「早すぎるんだよ。怖いんだよ、あそこ」
荷車のそばで、バルカが腕を組んで立っていた。
赤茶けた髭を揺らし、見るからに機嫌が悪そうな顔をしている。
「遅い」
「半刻以内って聞いたばかりなんだけど」
「荷はもう来た。人間どもの商会は気味が悪い。俺が注文する前に欲しい物を揃えやがる」
「それは分かる」
ルルリアが素直に頷くと、バルカは鼻を鳴らした。
「分かるなら、さっさと見ろ。妙な印や術式が混じってたら、炉に入れる前に叩き割る」
「叩き割ったら知らせる流れがあるかも」
「なら、おまえが先に眠らせろ」
「今やったばかりなんだけど」
「一度やったなら二度も同じだ」
「無茶言うなあ」
ルルリアは文句を言いながらも、荷車へ近づいた。
木箱には何の刻印もない。
商会の保証印もない。
封蝋もない。
ただ、必要なだけの縄で縛られている。
嫌味なくらい条件どおりだった。
ルルリアは縄に触れ、木箱の角を確かめ、底の継ぎ目をなぞる。
記録の糸はない。
照合の反応もない。
見張るための目もない。
「……見た限り、眠ってる。というか、何も入ってない」
バルカの眉間にしわが寄る。
「見た限り?」
「一応だよ」
「一応で炉に入れられるか、馬鹿娘」
「じゃあ自分でも見てよ、偏屈鍛冶」
「見るに決まってるだろうが」
バルカは乱暴に木箱を開けた。
中から、銀青色に鈍く光る金属板が現れる。
光の角度によって、海の底のような青が揺れた。
銀青鋼。
バルカの目が変わる。
「……質が良すぎる」
「いいことじゃないの?」
「良すぎる物は信用ならねえ」
別の箱には、中空魔導骨が収められていた。
見た目は白い骨のようでありながら、内側に細い魔導管が走っている。
軽く、硬く、魔力の抜けがいい。
さらに、帝国規格の微細魔導環。
純度の高い魔鉄鋼。
火喰い玉石。
どれも、注文以上の品質だった。
バルカはしばらく黙って素材を見ていた。
やがて、低く唸る。
「気に食わねえ」
「何が」
「全部だ。質がいい。揃いすぎてる。余計な印もねえ。だから気に食わねえ」
「面倒くさいね」
「鍛冶師は面倒くさくていいんだよ」
バルカは火喰い玉石を手に取った。
赤黒い石だった。
中に小さな火が閉じ込められているように、奥で鈍く光っている。
イグニスがふわりと近づいた。
「ほう」
その声に、珍しく感心の色があった。
「それ、いい石?」
「火を食う石だ。大抵の火なら腹を壊す。俺様の焔なら、むしろ躾けられる」
「石を躾けるの?」
「火をなめた石に、火の礼儀を教えるのだ」
バルカがイグニスを見た。
「一瞬だけだ。噛ませすぎるなよ。石が火を覚えすぎると、装具が持ち主を焼く。その前に灰にはしないでくれ」
「俺様に指図する気か、土くれの鍛冶師」
「炉の前では、俺は絶対だ。火も鉄も俺の言うことを聞かせる」
工房の空気が、ぴんと張った。
ルミナリスが少し慌てる。
「あの、喧嘩は」
「喧嘩ではない」
「喧嘩じゃねえ」
バルカとイグニスが同時に言った。
ルルリアは半眼になる。
「息合ってるじゃん」
「合っていない」
「一緒にするな」
また同時だった。
オルクスが小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。
バルカは火喰い玉石を炉の前に置き、次にルルリアを見た。
「立て」
「立ってるけど」
「違う。そこじゃねえ。炉の前に立て」
ルルリアは言われたとおり、炉の前へ立った。
熱が顔を撫でる。
西倉庫の冷たい空気が、まだ体の奥に残っている。
炉の熱は、その冷えをゆっくり押し返してきた。
バルカはルルリアの足元を見る。
「逃げる足じゃねえ」
ルルリアは黙った。
「逃げる癖はある。後ろへ抜ける癖もある。人の視線の外へ落ちる癖もある。だが、足そのものは逃げるためだけにできちゃいねえ」
「何それ」
「何とか間に合わせたい。そのための足運びだな」
炉の火が鳴った。
バルカは銀青鋼を持ち上げる。
「だったら、翼にしてやる」
ルルリアの喉が、小さく鳴った。
「翼……」
「重い鎧はいらん。前に立つ盾もいらん。おまえに要るのは、あと一歩で届くための機甲だ」
バルカは火喰い玉石を炉の縁に置いた。
「先に名前を付けてある。機甲名は、潮翼機甲メル・アラ」
その名を聞いた瞬間、ルルリアは腰の巻貝に触れた。
潮と翼。
逃げるためではなく、間に合うための装具。
鳥籠の小鳥ではない。
海を越えて、白い冥界を越えて、今ここに立っている自分のための翼。
バルカの槌が、炉の横で重く鳴った。
「始めるぞ」
イグニスの焔が、赤く笑うように揺れた。
「よかろう。土くれの鍛冶師。俺様の火を一瞬だけ貸してやる」
「貸すんじゃねえ。噛ませるんだ」
「言葉に気をつけろ。噛み砕くぞ」
「石だけにしろ」
ルミナリスが不安そうに二人を見比べる。
ルルリアは、なぜか少しだけ安心した。
セフィリアの鳥籠を出た先に、こんな騒がしい炉がある。
怖いものはまだ多い。
帝国の影も、きっと近づいている。
それでも、今は炉の前に立っている。
逃げるためではなく、間に合うための翼を得るために。
バルカの槌が、最初の一打を落とした。
銀青鋼が、澄んだ音で鳴った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回は、ルルリアの新しい翼を描きます。
また是非ご一読ください。




