金枝の鳥籠ⅩⅤ ~ ルルリアと小鳥の巣
ルルリアは歯を食いしばった。
昔、セフィリアに教わった。
術式にも癖がある。
命令にも欲がある。
作った者の性格は、必ず仕掛けに残る。
この札を作った者は、失敗を嫌う。
空白を嫌う。
不明を許さない。
だから、空白を作るのではない。
霧を作る。
~本文より
ルルリアは札を見下ろす。
「助けを求めた人のための札で、その人たちを測る気ね」
札が、小さく冷たく光った。
「逃げる人に渡すんでしょ。怪我した人に渡すんでしょ。お腹空かせた子供にも渡すんでしょ。それで、誰がどこへ行ったか、誰から誰へ渡ったか、あとから全部見るんでしょ」
ルルリアの手が震えた。
昔の自分なら、これを便利だと思ったかもしれない。
よくできていると思ったかもしれない。
セフィリアに褒められたくて、もっと上手な仕込み方を考えたかもしれない。
でも、今は違う。
ルミナリスが、そっと隣に膝をついた。
「ルルリア」
「壊さないよ」
ルルリアは言った。
「壊したら、知らせる流れがある。だから壊さない」
針を構える。
「でも、名前は渡さない」
ルミナリスが静かに頷いた。
「私は、どこを支えればよいですか」
「札の真ん中。そこに個人の癖を集める場所がある。そこは消しちゃだめ。消すと壊れたって分かる。だから、癖を集めるけど、結ばないようにする」
「結ばない」
「うん。誰かが持ったことは分かる。何人が通ったかも分かる。でも、誰が持ったかは分からない。顔も、名前も、手の温度も、全部ぼやけるようにする」
ルミナリスは札に手をかざした。
「できます」
その声に迷いはなかった。
うんと頷き、ルルリアは針を入れた。
細い術式の道をたどる。
札の中には、いくつもの小さな部屋がある。
温度をしまう部屋。
魔力をしまう部屋。
受け渡しをしまう部屋。
最後に、それらを名前へ結びつける部屋。
その魔力の結び目だけを、ほどく。
切らない。
燃やさない。
潰さない。
ただ、名前へ届く道を迷わせる。
イグニスが息を潜めるように焔を細めた。
「妙なことをするな、小鳥」
「何が」
「火なら焼く。剣なら断つ。おまえは、道を迷わせる」
「悪い?」
「いや」
イグニスは、少しだけ笑ったように揺れた。
「面白いぞ」
ルルリアは返事をしなかった。
余裕がなかった。
札の奥で、術式が抵抗する。
記録するために作られたものは、記録できない状態を嫌う。
名を求める。
顔を求める。
温度を求める。
ルルリアは歯を食いしばった。
昔、セフィリアに教わった。
術式にも癖がある。
命令にも欲がある。
作った者の性格は、必ず仕掛けに残る。
この札を作った者は、失敗を嫌う。
空白を嫌う。
不明を許さない。
だから、空白を作るのではない。
霧を作る。
数は合う。
通った者はいる。
札は使われた。
記録も残った。
だが、その顔だけが分からない。
その名だけが届かない。
「……眠って」
ルルリアは小さく言った。
「あなたは、助けるための札でしょ。だったら、助けた人を売らないで」
針の先で、最後の結び目が緩んだ。
札の冷たい光が、一瞬だけ淡くなった。
そして、何事もなかったように元へ戻る。
見た目は変わらない。
術式も残っている。
記録機構も生きている。
だが、もう名前には届かない。これで使う者たちの何かを探られることはない。
ルルリアは大きく息を吐いた。
「……できた」
その瞬間、膝から力が抜けた。
倒れる前に、ルミナリスが支えた。
「ルルリア」
「だいじょうぶ。ちょっと、疲れただけ」
「大丈夫ではありません」
ルミナリスの声は、いつもより少し強かった。
ルルリアは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
指先が震えている。
目の奥が痛い。
肩が重い。
倉庫の中の目を、眠らせた。
いくつかの名を、守った。
でも、それは思っていたよりずっと重かった。
ルミナリスがイグニスを見る。
「イグニスさん」
「嫌だ」
即答だった。
ルミナリスはまだ何も頼んでいない。
「まだ何も言っていません」
「顔で言った。目で頼んだ。気配で押しつけた」
「ルルリアさんを、少し温めてあげてください」
「断る。俺は原初たる焔だぞ。神々も悪魔も面倒がる火だ。湯たんぽでも、疲れた小鳥を温める炉端の火でもない」
「お願いします」
「聞こえんな」
「イグニスさん」
「……その声をやめろ」
イグニスは不満そうに火の粉を散らした。
「まったく。俺様の火を何だと思っている。癒しだの、温もりだの、軟弱な名をつけるなよ」
そう言いながら、イグニスはルルリアの近くへ降りてきた。
焔が、ふわりと広がる。
熱くはなかった。
燃える火ではない。
冷えた指先に、そっと命の端を思い出させるような火だった。
ルルリアの震えが、少しずつ収まっていく。
目の奥の痛みが和らぐ。
肩に張りついていた重さが、ゆっくりほどける。
「……癒しの焔?」
ルルリアが呟くと、イグニスがすぐに怒った。
「違う。俺様の火だ。癒しなどという軟弱な名前で呼ぶな」
ルミナリスは、静かに微笑んだ。
「私は、癒しの焔だと思います」
「思うな」
「でも、とても優しいです」
「優しくない」
「はい」
「納得するな」
ルルリアは、今度こそ少し笑った。
倉庫の中は、まだ静かだった。
眠らされた仕掛けたちは、何も言わない。
薬箱も、武器箱も、補修具も、通行証の札も、見た目には変わらない。
しかし、いくつかの目は閉じた。いくつかの名は守られた。
セフィリアは、そのすべてを黙って見ていた。
ルルリアの針。
ルミナリスの魔力。
イグニスの焔。
オルクスの沈黙。
白い冥界から戻った者たち。
原初の焔を連れた者たち。
帝国式の記録術式を壊さず眠らせた者たち。
売れば、どれほどの値がつくか。
商人であるセフィリアには、分かってしまう。
今は売らない。少なくとも、今は。
高すぎる商品は、安い買い手に流せば価値が壊れる。
よい商品は、もっとも高くなる時まで、傷をつけずに守るもの。
そして、その商品が、かつて自分の鳥籠にいた小鳥なら。
なおさら、簡単には手放せない。
セフィリアは心の中の帳簿を開いた。
ルルリア。買戻し不可。
観察継続。干渉制限。
ただし、危急時は例外。
そこまで記して、セフィリアは静かに帳簿を閉じる。
ルルリアはまだ、ルミナリスに支えられていた。
疲れ果ててはいたが、その目はもう鳥籠の中で笑う小鳥の目ではない。
「終わったよ」
ルルリアは、セフィリアに言った。
「これで、荷は流せる。数は合う。見た目も変わらない。でも、誰の名前にも届かない」
セフィリアは頷いた。
「見事ね」
「褒めなくていい」
「褒めているのではないわ。評価しているの」
「もっと嫌だよ」
ルルリアは顔をしかめた。
セフィリアは、少しだけ笑った。
「そう。なら、取引は成立ね」
「素材は?」
「すべて、バルカの工房へ運ばせるわ。監視術式なし。保証印なし。商会の刻印なし。火喰い玉石の件も、帳簿には載せない」
「完成品の詳細も」
「残さない」
「ルミィたちの行動も」
「記録しない」
「約束?」
セフィリアは、ほんの少しだけ沈黙した。
「約束は、破ると高くつくものよ」
「そこは普通に約束してよ」
「努力するわ」
「もう」
ルルリアは呆れたように息を吐いた。
セフィリアは商人だ。
優しい。
怖い。
助けてくれる。
値段もつける。
でも、もう戻らない。自分の居場所ではないのだ。
ルルリアは腰の巻貝に触れた。
そして、ただ逃げるだけでもない。
「私は戻らない」
倉庫の静けさの中で、ルルリアは言った。
セフィリアが、静かにこちらを見る。
「でも、必要なら取引はする」
「ええ」
「その時も、私を買おうとしないで」
セフィリアは答えなかった。
その沈黙を、ルルリアはもう怖がらなかった。
怖くないわけではない。
セフィリアは今でも怖い。
優しいから、なおさら怖い。
でも、怖くても立っていられる。
ルミナリスが隣にいる。
オルクスが後ろにいる。
イグニスの焔が、まだ指先を温めている。
ルルリアは、自分の足で立ち直った。
西倉庫の目は、もう眠っている。
外へ出れば、また見られるだろう。
帝国の目も、商会の目も、もっと奥にある名前のない目も。
それでも、今日、少なくともいくつかの名前は、どこにも売られずに済んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。
次回、ルルリアのけじめは監視する者たちの感心をかいます。




