金枝の鳥籠Ⅺ ~飛び立つ小鳥
セフィリアは微笑んだまま、何も言わない。
「あなたは決めさせる形を作る。選ばせる。逃げ道も残す。でも、最後にはあなたの帳簿に載る道を選ばせる」
ルルリアは、視線を逸らさなかった。
「私はもう、そこには戻らない。戻れないの」
~本文より
セフィリアは続ける。
「名ではなく、現象として。潮牙商会の船に乗り、白い冥界から戻り、原初の焔を伴う者。そういう形でなら、いくつもの帳簿に影が落ちている」
「消して」
「できるものなら」
「あなたなら、できるでしょ」
「一つ消せば、別の帳簿で空白が目立つ。空白は、時に文字より雄弁よ」
セフィリアの声は穏やかだった。
だが、その内容は冷たい。
「だから、隠すなら消すのではなく、意味を散らすの。いくつもの理由を混ぜる。いくつもの経路を重ねる。誰が本命か、何が目的か、すぐには分からないようにする」
「それで、私たちを混ぜたいんだ」
「ええ」
セフィリアは逃げなかった。
「あなたたちを、私の荷に混ぜたい」
ルルリアは笑った。
乾いた笑いだった。
「はっきり言うね」
「あなたに遠回しな嘘は、もう効きにくいでしょう?」
「遠回しな本音は、まだ刺さるけどね」
「それを見込んでいるの」
「最低」
「ええ。つけこまないと商談は有利にはならない」
即答だった。
ルルリアは腹が立った。
この人は本当にずるい。
責められる場所を先に差し出してくる。
こちらが怒ると分かったうえで、怒るための足場まで用意する。
優しい。
怖い。
そして、どうしようもなく先回りされている。
「ルルリア」
セフィリアは、声を少し柔らかくした。
その声は、昔のままだった。
「戻ってきなさい」
部屋の空気が止まった。
ルルリアは、息ができなくなった。
その一言は、予想していた。
予想していたのに、胸の奥へ深く刺さった。
戻ってきなさい。
冷たい雨の日、凍えながら死を覚悟した時に聞こえたあの声。
寒かった夜、暖かい毛布と飲み物を枕元においてくれた優しい影。
失敗して震えていた時、怒る代わりに茶を差し出した美しい指先。
戻れば、守られる。
少なくとも、セフィリアの鳥籠の内側には屋根がある。
餌も、名前も、そして、鎖も、全てがある。
「大きな混乱が起きるわ」
セフィリアは続けた。
「帝国の表に出ない目が動く。そこに、金で動く者も、信念で動く者も、ただ命令で動く者も混ざる。誰が誰の荷を見ているのか、すぐには分からなくなる。あまりにも大き過ぎるうねりよ。あなたが外にいれば、誰かに利用される。捕まる。測られる。今度こそ、私の手が届かない場所へ持っていかれるかもしれない」
「心配してくれてるの?」
「しているわ」
「利用もしたいんでしょ」
「それもあるわ」
「両方言うの、ずるいよ」
「どちらも本当だもの。隠し立てはしないわ」
セフィリアは立ち上がらなかった。
立ち上がれば、抱きしめることもできたはずだ。
抱きしめられたら、ルルリアは抵抗できないかもしれない。
だが、セフィリアはそうしない。
ただ席に座ったまま、扉を開けている。
戻るかどうかを、ルルリアに選ばせる形で。
それが、一番怖かった。
「私のもとにいれば、少なくとも危険な荷から遠ざけることもできる。必要なら、あなたに触れようとする手を買うことも、折ることもできる」
「鳥籠の中なら?」
「鳥籠にも、良いところはあるわ」
セフィリアは静かに言った。
「雨を避けられ、飢えず、敵が近づけない。穏やかに過ごせるわ」
ルルリアの胸が、ずきりと痛んだ。
差し出された蜂蜜入りの茶。
あの時、鳥籠は確かに救いだった。
ルルリアは拳を握った。
指先が震えている。
その時、隣にルミナリスが立った。
何も言わない。
ただ、隣に立つ。
ルルリアの視界の端に、青く輝く銀髪と静かな横顔が入った。
ルミィは、帰ろうとも言わない。
戦えとも言わない。
ただ、そこにいる。
その後ろで、オルクスが静かに立っている。
「お主の思うままじゃ。生き様を決めるのはお主じゃ」
言葉をかけたその姿は、剣には手をかけていない。
いつでも届く位置にいて、見守っている。
セフィリアの鳥籠とは違う。
守られているのに、自ら、選んでいいのだと思える。
ルルリアは、ゆっくり息を吸った。
「セフィリア」
昔の呼び方ではない、名前だけ。
セフィリアの目が、わずかに揺れた。
「私は戻らない」
声は震えていた。
だが、心は折れなかった。
「あなたに拾ってもらった。助けてもらった。生き方も、笑い方も、逃げ方も、嘘のつき方も教えてもらった。蜂蜜入りのお茶の味だって、忘れてない。本当にありがとう。感謝してる」
ルルリアは、自分の胸に手を当てた。
そこにはもう、隠れ鬼はいない。
「でも、戻らない」
セフィリアは黙っている。
「あなたの鳥籠には、屋根がある。餌もある。寒くない。雨にも濡れない。たぶん、外よりずっと安全」
ルルリアは、小さく笑った。
「でも、そこにいると、私は自分の足でどこへ行くか決められなくなる」
「決めさせるわ」
「嘘」
即答だった。
セフィリアは微笑んだまま、何も言わない。
「あなたは決めさせる形を作る。選ばせる。逃げ道も残す。でも、最後にはあなたの帳簿に載る道を選ばせる」
ルルリアは、視線を逸らさなかった。
「私はもう、そこには戻らない。戻れないの」
長い沈黙が落ちた。
セフィリアは、白磁の茶器へ視線を落とした。
「……そう」
声は静かだったが、ほんの少しかすれていた。
「残念だわ」
「うん」
「とても、残念。あなたはお気に入りなのよ」
「知ってる」
「あなたも?」
「うん」
ルルリアは唇を噛みそうになり、こらえた。
「私も、少し残念」
セフィリアの目が、初めてはっきりと揺れた。
それを見て、ルルリアの胸も痛んだ。
嫌いになりきれない。憎めない。
だから、つらい。
でも、だからこそ戻らない。
「商談しよう。セフィリア」
ルルリアは言った。
空気が変わった。
セフィリアがゆっくり顔を上げる。
「商談?」
「うん。私はあなたの小鳥にはならない。でも、客にはなる」
次回、ルルリアの商談を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも面白く読んでもらえたら、嬉しいです。
また是非ご一読ください。




