金枝の鳥籠Ⅹ ~小鳥の行く先
「ルルリア。近いうちに、この町も含めて、少し騒がしくなるわ」
声が、わずかに低く告げている。
ルルリアの背筋に、冷たいものが走る。
セフィリアの目は優しい。
だが、その優しさの下に、計算された帳簿が見え隠れしている。
~本文より
白磁の茶器から立ち上る香りは、昔と少しも変わらないように思えた。
蜂蜜は入っていない。
それなのに、甘い記憶だけが勝手に喉の奥へ広がっていく。
セフィリアは、それを分かっている顔で微笑んでいた。
「立ったままなの?」
「逃げやすいからね」
「逃げるつもりなの?」
「話の内容次第かな」
「昔より、ずいぶん正直になったのね」
「昔は、正直にすると怒られたから」
「あら。私は怒ったことがないでしょう?」
「怒らない人の方が怖いって、あなたから教わったんだよ」
セフィリアは、ほんの少しだけ目を細めた。
懐かしむような、痛むような、それでいてどこか満足げな目だった。
「よく覚えているわ」
「覚えてるよ。嫌になるくらい」
ルルリアは笑った。
笑ったつもりだったが、実際にどう見えているかは分からない。
手のひらは汗ばんでいる。
膝の内側がわずかに強張っている。
逃げ出したい。
そう思う自分がいる。
戻りたい、と思う自分も、ほんの少しだけいる。
セフィリアの近くは怖いが、同時に守られているようにも感じた。
指示に従い、笑い方を選び、言われた通りに動いていれば、少なくとも飢えることはなかった。寒い雨の下で眠ることもなかった。
そして、優しくされることがとても嬉しかった。
鳥籠は、檻であると同時に、飢えることの無い住処でもあったのだ。
だから、厄介だった。
セフィリアは杯を持ち上げ、茶をひと口含んだ。
「ルルリア。近いうちに、この町も含めて、少し騒がしくなるわ」
声が、わずかに低く告げている。
ルルリアの背筋に、冷たいものが走る。
セフィリアの目は優しい。
だが、その優しさの下に、計算された帳簿が見え隠れしている。
「荷が動く。人も動く。獣人たちも、王国の生き残りたちも、帝国も、それぞれ自分の欲しいものへ手を伸ばす。そうなれば、誰が誰を助け、誰が誰を売ったのか、少し分かりにくくなる」
「混乱が起きるってこと?」
「混乱は、起きるものではないわ」
セフィリアは静かに言った。
「起こす者がいるの」
ルルリアは黙った。
その言い方は、警告であり、同時に、誘導でもある。
怖いでしょう。
危ないでしょう。
言葉にされていない声が、ルルリアの耳に届く。
「誰が起こすの?」
「誰かしら」
「セフィリア。教えてよ」
「あなたなら、もう少し読めるでしょう。教えたはずよ、ルルリア」
セフィリアは、優しく微笑んだ。
「荷を読む目。人の歩き方を見る目。逃げ道を探す癖。全部、あなたに教えたもの」
ルルリアは唇を噛みかけ、すぐにやめた。
噛むな。癖を持つな。
弱みを見せる時は、見せる意味を決めてから。
そんな声が、記憶の奥から聞こえる。
セフィリアの声だ。
ルルリアは、内心で苦笑した。
嫌だなあ。
まだ残ってる。
「帝国が絡んでるの?」
ルルリアが尋ねる。
セフィリアはすぐには答えなかった。
白磁の茶器を指先で撫でる。
その仕草は優雅だったが、沈黙そのものが答えだった。
「帝国はいつでもどこでも絡んでいるわ」
「そういう言い方、嫌い」
「便利でしょう?」
「便利すぎて、何も言ってないのと同じ」
「何も言えないこともあるのよ」
セフィリアは静かに言った。
「名前を出せば、それだけで値段が変わる相手がいる。顔を見たと言えば、見た者ごと帳簿から消える相手もいる。商売とは、時に相手の名を知らないふりをすることで成り立つものもある。お客様次第でしょ?」
ルルリアの表情がわずかに硬くなった。
「つまり、名前を出せない相手がいる」
「そうね」
「帝国の表の軍じゃない」
「軍は、旗を立てるものよ」
「じゃあ、旗を立てない相手」
セフィリアは答えなかった。
だが、その沈黙は、肯定よりも重かった。
オルクスの気配が、背後でわずかに鋭くなる。
「表に出ぬ帝国の目、ということか」
「老剣士様は、言葉が鋭いわね」
「答えになっておらぬ」
「答えないことが、答えになる時もありますわ。英雄様」
セフィリアは微笑む。
オルクスは目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
ルミナリスは静かにセフィリアを見ていた。
「その方々は、何を見ているのですか」
「さあ?」
セフィリアは首を傾げる。
「荷かもしれない。商路かもしれない。獣人たちの動きかもしれない。王国の生き残りかもしれない。あるいは、そのすべてかもしれない」
「あたしたち、ルミィもおじちゃんも、イグニス様も、ですか?」
ルルリアが先に聞いた。
セフィリアの目が、わずかに細くなる。
「可能性はあるわ」
「可能性?」
「あなたたちは目立ちすぎるもの。潮牙商会の船で白い霧の向こうから戻り、原初の焔を伴い、星の道具を持っている。普通の商人なら、見なかったことにはできない」
「普通じゃない商人なら?」
「もっとよく見るでしょうね」
イグニスが低く燃えた。
「見すぎる目は、焼けばいい」
「目は沢山ございます。イグニス様。神に近しい御身でも目を焼き尽くすことは難しいかかと」
「敵の首魁をまとめて灰にすりゃあ、苦労ごと消えるだろ?」
「原初の焔らしいご意見ですね」
「茶化すな。燃やすぞ」
「はい。怖いので、気を付けます」
「嘘をつけ」
セフィリアは微笑んだ。
ルルリアは、セフィリアの視線を遮るように半歩動いた。
「ルミィを帳簿に載せないで」
「もう影は落ちているわ。私以外の帳簿にも」
返答は早かった。
ルルリアの顔から、笑みが消えた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回、2人の商談を描きます。
また是非ご一読ください。




