金枝の鳥籠Ⅸ ~甘い思い出
「久しぶりね、ルルリア」
声は、記憶の中と少しも変わっていなかった。
「少し、背が伸びたかしら」
ルルリアは唇を動かした。
最初に出そうになったのは、昔の呼び方だった。
セフィリア様。
~本文より
アステル・リーフの裏路地は、表通りより静かだった。
だが、その静けさの質が違う。
人がいないのではない。
見られているのに、見ている者が見えない。
ルルリアは歩きながら、小さく呟いた。
「……やっぱり。車輪の向こう側……オバリムの歩き方だ」
「分かるのですか」
ルミナリスが尋ねる。
「分かるよ。あれ、道を歩いてるんじゃない。視線と噂の隙間を歩いてる」
「視線と噂の隙間?」
「うん。人に見られてるようで、ちゃんとは見られない場所。聞かれてるようで、肝心なところは聞かれない他人との距離。そういうのを選んで歩いてる」
ルルリアは苦笑した。
車輪の向こう側。
表の荷車が走る道ではなく、その荷車が何を隠して運んでいるかを読む者たち。
ゴルデンオストでは、そういう裏の目をオバリムと呼んでいた。
「私も昔、さんざんやらされた」
その声に、懐かしさなどはなかった。
あるのは、苦い記憶だけだ。
やがて一行は、港から見えた商館の前に着いた。
潮に汚れた町の中で、そこだけが奇妙に清潔だった。
窓枠は磨かれ、扉の真鍮は光り、入口には蜜色の布が掛けられている。
看板には、鳥籠の中に止まる小鳥。
ほんの少し、鼓動が早くなる。
ルルリアは、その前で足を止めた。
ミレーネが振り返る。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何も」
ルルリアは、少しだけ笑った。
「昔さ、ここに似た場所で、初めてセフィリア様に蜂蜜入りのお茶をもらったんだよね」
「覚えておいでなのですね」
「忘れられないよ。あの時は、あんなに甘いものがこの世にあるんだって思った」
ルミナリスはルルリアを見た。
ルルリアは、目の前の扉ではなく、もっと遠い場所を見ているようだった。
「でも今思うと、あれも訓練だったのかもね」
「訓練?」
ルミナリスが問う。
「甘いものをもらった子どもは、次にその人が何を言うか、ちゃんと聞くでしょ」
ルルリアは自嘲気味に笑った。
「私、よく聞いたんだ。すごくよく」
ミレーネは何も言わない。
沈黙そのものが、答えだった。
イグニスがルルリアに低く言った。
「辛気臭く思うなら言え。全部灰にしてやる」
「焼かれると困るから、焼かないで」
「約束はしねえ」
「約束しないと連れていけないよ? 誓いに縛られる精霊でしょ」
イグニスがバチバチと火花を散らした。
「俺は今、ルミナリスに付いてる。こいつの言うことしか聞かない」
ルミナリスが真っすぐにイグニスの小さな目を見つめて告げた。
「はい。では、我々に危険が及ばないかぎり、何も燃やさないでください」
「少しぐらいなら燃やしてもいいよな?」
「いいえ、駄目です。何も燃やさないでください」
「……細かい娘だな」
「はい。必要なことです」
イグニスは不満げに火花を散らしたが、それ以上は言わなかった。
ルルリアはそのやり取りを聞きながら、一度だけ目を閉じた。
あのころとは違う。
自分には仲間がいる。
ルルリアは、腰に下げた翡翠色の巻貝に指を触れた。
潮牙の荒っぽい別れの言葉が、まだ耳に残っている。
取られるな。
今、この扉を開けるかどうかは、自分で決められる。
戻るためではない。
自分の中に何が残っているのか確かめるために、この扉を開けて、あの人に問いただす。
ルルリアは顔を上げた。
「よし。行こっか」
「大丈夫ですか」
ルミナリスが真顔で聞いた。
「大丈夫じゃないって言ったら、ルミィ、連れ帰ってくれる?」
「必要なら」
「言うと思った。だから言わない」
ルルリアは扉に向き直った。
「大丈夫じゃなくても、行く。行かなきゃ……駄目なの」
ミレーネが扉を開く。
中から、冷えた香の匂いが流れてきた。
潮と鉄の町には似合わない、甘く、整った匂い。
商館の中は、外の喧騒から切り離されていた。
床には厚い敷物。
壁には航路図と取引証文。
棚には茶器、宝石箱、封蝋、細い鎖で束ねられた帳簿。
奥には丸い卓があり、その上に白磁の茶器が並べられている。
そして、その卓の向こうに、女が座っていた。
蜂蜜色の髪。
柔らかな金の光を帯びた髪が、肩の上でゆるく波打っている。
肌は白く、目元は穏やかで、唇には控えめな笑みがあった。
年の離れた姉のような美しさ。
誰かが迷った時、そっと手を差し出してくれそうな優しさ。
だが、ルルリアは知っている。
その手は、人を助ける。
そして助けた相手が、次にどこへ歩くかまで測る。
セフィリアは立ち上がらなかった。
ただ、懐かしいものを見るように、ルルリアへ微笑んだ。
「久しぶりね、ルルリア」
声は、記憶の中と少しも変わっていなかった。
「少し、背が伸びたかしら」
ルルリアは唇を動かした。
最初に出そうになったのは、昔の呼び方だった。
セフィリア様。
それは、まだ口の中に残っていた。
だが、ルルリアはそれを噛み砕いて飲み込んだ。
「久しぶり」
短く、そう言った。
セフィリアはわずかに目を細める。
「あら。“様”は置いてきたのね」
「もう部下じゃないから」
「そう」
セフィリアは楽しげに微笑んだ。
「では、お客様として迎えなければいけないわね」
優雅な仕草で、卓の上の茶器へ手を伸ばす。
「蜂蜜は入れる?」
その一言で、ルルリアの胸の奥に、遠い記憶が刺さった。
雨の日。
濡れた髪。
空腹で震えた躰。
差し出された温かい茶。
優しい声が胸の中に木霊する。
もういいのよ。
安心してね。
よくできました、ルルリア。
いい子ね。
ルルリアは拳を握った。
そして、笑った。
「いらない」
声は軽く、はっきりしていた。
「今は、甘すぎるの苦手なんだ」
セフィリアは、一瞬だけ黙った。
それから、ひどく寂しそうに、その後嬉しそうに微笑んだ。
「そう」
白磁の茶器に、琥珀色の茶が注がれる。
「大人になったのね」
ルルリアは席につかなかった。
ルミナリスとオルクスもまた、立ったままだった。
イグニスはルミナリスの肩近くで、静かに燃えている。
商館の外では、潮風が金枝の小鳥の看板を揺らしている。
その音は、ここまでは届かない。
届かないはずなのに、ルルリアには聞こえる気がした。
鳥籠の扉が、静かに閉じる音が。
次回、ルルリアとセフィリアを描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




