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機械少女の涙は蒼穹に還る ~メガリマギアの灯火  作者: しきもとえいき
第19章

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金枝の鳥籠Ⅰ~焔、海を癒す

イグニスが低く唸る。


「汚え縛り方しやがって。怒った龍の血を垂らしすぎだ」


 小さな炎が、ふいに深く深紅に燃えた。

 赤でも、白でもない。

 世界がまだ名を持つ前の、原初の焔。


~本文より

 白い霧は、まだ潮喰みに絡みついていた。


 マギア・ルーメを覆っていた白い冥界は閉じた。

 裂け目は塞がれ、ツァル・ベナインの異界の侵食も切り離されたが、異界の霧はすべて消え去ったわけではない。

 船体の縁に、帆柱の影に、そして潮喰みの奥深くに、まだ冷たい白が残っていた。


 帆が膨らまない。

 潮喰みは海へ戻ろうとしているのに、波の上を滑る力が鈍い。

 船底が何かに引かれるように軋み、主柱の奥にある潮心炉コル・マリスが、苦しげな鼓動を打っていた。


「……まだ痛がってる」


 ゼルグが低く言った。


 大柄な海獣人は、両手で慈癒の宝玉を抱えていた。マギア・ルーメより潮牙商会へ与えられた報酬。その宝玉は、持つ者の内に相手を救いたいという願いがある時だけ、癒しの力を示す。


 カルサは船縁に片手を置き、海の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。

 鋭い歯、冷えた目、潮と血の混じったような気配。だが、その目はいま、荒くれた商人のものではなく、自分の船の苦しみを知る船長のものだった。


「白い冥界は閉じたはずだ。だが、こいつの腹にまだ霧が残ってやがる」


 潮心炉が、また低く鳴った。

 その瞬間、船の周囲に巨大な影が浮かび上がった。


 魚だった。

 透明な鱗を持つ、海そのものを泳ぐような巨大な魚の精霊。


 その輪郭は美しかったが、ところどころ濁っている。

 鰭には黒赤い筋が走り、腹には白い霧の糸が絡みついていた。竜の血で濁らされ、古い呪縛に縛られ、船の心臓として使われてきた魂。


 ルミナリスは胸に手を当てた。


 神の花フロス・エテルナリスの花晶が、微かに光る。


「まだ、苦しんでいます」


「癒しだけじゃ足りねえぞ。そんなんもわからねえのか?」


 ルミナリスの肩近くに浮かぶ小さな炎が、乱暴に言った。


 原初たる焔の主精霊、イグニス。


 掌ほどの小さな炎に見える。

 だが、その炎が揺れるたび、潮風が身を引き、海獣人たちの毛並みがざわりと逆立った。


 海の者たちは知っている。


 原初たる焔イグニス。

 かつて海を沸騰させ、海神の肌を焼いた焔。

 嵐よりも古く、海底の闇よりも恐ろしい災いとして、海の子らに語り継がれてきた存在。


 若い船乗りが、怯えたように呟いた。


「海を煮た焔……」


「口を閉じろ」


 年かさの船員が、その肩を掴んだ。


「御名を軽く呼ぶな」


 カルサもイグニスを見ていた。

 サメのような目を細め、警戒と畏れを隠そうともしない。


「おい、原初の焔。まさか、この船で海を焼くつもりじゃねえだろうな」


「俺を火事扱いするな、サメ」


 イグニスの炎が尖る。


「焼くのは海じゃねえ。こいつを縛ってる腐った理だ」


「海神に火傷させた奴の言葉を、海の上で信じろってか」


「あれは向こうが先に水をかけた」


 ルルリアが半目になった。


「えっ、水をかけられたから海神を火傷させたの? 神話級に大人げない」


「黙れ、小娘。俺に水をかける方が悪い」


「本気で神様、焼いたんだ」


「焔は嘘は言わねえ」


 イグニスはそう吐き捨てると、ルミナリスの前へふわりと出た。


「ルミナリス。こいつの輪郭を押さえろ。癒すのは、その宝玉と、でかい海獣人の仕事だ。俺は邪魔な鎖だけ焼く」


「はい」


 ルミナリスは静かに頷いた。


 ゼルグが一歩前へ出る。

 その手の中で、慈癒の宝玉が淡く輝き始めた。


「潮喰み」


 ゼルグの声は重かった。


「戻れ。縛られた心臓ではなく、共に進む魂として」


 宝玉が強く光る。

 同時に、ルミナリスの胸の花晶が、精霊の輪郭を包むように優しく光った。


「あなたは、船の道具ではありません」


 ルミナリスは、巨大な魚の精霊を見上げた。


「あなたは、海の精霊です。潮喰みと共に進むことを、選べます」


 魚の精霊が震えた。


 その腹に絡みついていた白い霧が、苦しげにうねる。

 黒赤い竜の血の筋が鎖のように浮かび上がり、魂の奥へ食い込んでいた。


 イグニスが低く唸る。


「汚え縛り方しやがって。怒った龍の血を垂らしすぎだ」


 小さな炎が、ふいに深く深紅に燃えた。

 赤でも、白でもない。

 世界がまだ名を持つ前の、原初の焔。


 それは海を焼かず、帆を焦がず、船を炭にもしなかった。


 ただ、精霊に絡みつく白い霧と、龍の血で濁った呪縛だけを焼いた。


 魚の精霊が高い声をあげて、大きく身をよじる。


 潮喰み全体が軋んだ。

 海獣人たちが悲鳴を飲み込み、カルサが鋭く叫ぶ。


「騒ぐな! 船を押さえろ!」


 海の精霊が苦しんでいる。その様子を見て、カルサは強い恐れを感じ、それを飲み込んでいた。


「潮喰み、頼む……。船からいなくなってもいい……。消えないでくれ」


 カルサがまだ子供だった頃、海を跳ねるその美しい精霊の姿に、心奪われたあの一瞬の光景は今も胸に刻まれたままだ。


「暴れるな、魚もどき」


 イグニスが怒鳴る。


「お前を焼くんじゃねえ。お前に噛みついてる腐れ縄を焼いてるんだ」


 焔が走る。


 黒赤い鎖が焼け落ちる。

 白い霧が裂ける。

 むき出しになった魂の傷へ、ゼルグの慈癒の宝玉が光を注いだ。


 ひび割れた鱗が癒され、濁った鰭が透き通る。

 巨大な魚の瞳に、はっきりとした海の青が戻っていく。


 その瞬間、潮喰みの奥で、深い鼓動が鳴り、船が息をした。


 帆が膨らむ。

 止まっていた潮が動き出す。

 船体を覆っていた重い白が、少しずつ剥がれていく。


 だが、前方にはまだ厚い霧があった。


 白い冥界の残滓。

 閉じた異界が最後に残した、海路の傷。

 その向こうへ出なければ、潮喰みは完全には現世の海へ戻れない。


 イグニスが前へ出た。


「邪魔だ」


 小さな炎が、突如巨大な炎の塊となり、縦に伸びた。


 白金色の焔の刃だった。


 海獣人たちが息を呑む。

 古い神話を知る者たちは、海が沸くのではないかと身構えていた。


 だが、波はそのまま波であり、潮は潮の匂いを保っていた。

 イグニスの焔は、白い冥界の霧だけを焼き切った。


 霧が裂け、その向こうに、青黒い現世の海が開いた。

 カルサが、ぽつりと呟いた。


「……海を焼かずに、霧だけを焼いたのか……」


 ゼルグが宝玉を胸に抱いたまま、深く頷く。


「今は、道を開く焔だな」


「勝手に妙な名をつけるな」


 イグニスは不機嫌そうに揺れた。


「俺は原初の焔だ。邪魔なものは焼き払う」


 ルミナリスは静かに微笑んだ。


「ありがとうございます、イグニス」


「礼を言うな。燃やすぞ」


「照れてる」


 ルルリアが小声で言った。


「聞こえてるぞ、小娘。影も残さず消えたくなければ黙れ」


「ひゃい」


 妙な声を出したルルリアに、オルクスがかすかに笑った。


 潮喰みは霧を抜けた。


 船の奥では、癒された海の精霊が静かに息づいている。

 もう禁忌の心臓ではない。竜の血で濁らされた魂でもない。潮喰みと共に進むことを選んだ、海の精霊だった。


潮牙商会と別れて一行は新たな場所を目指します。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

色々とへまが多く、改行、誤字脱字、無くなりません。

気を付けますので、また是非ご一読ください。

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