金枝の鳥籠Ⅰ~焔、海を癒す
イグニスが低く唸る。
「汚え縛り方しやがって。怒った龍の血を垂らしすぎだ」
小さな炎が、ふいに深く深紅に燃えた。
赤でも、白でもない。
世界がまだ名を持つ前の、原初の焔。
~本文より
白い霧は、まだ潮喰みに絡みついていた。
マギア・ルーメを覆っていた白い冥界は閉じた。
裂け目は塞がれ、ツァル・ベナインの異界の侵食も切り離されたが、異界の霧はすべて消え去ったわけではない。
船体の縁に、帆柱の影に、そして潮喰みの奥深くに、まだ冷たい白が残っていた。
帆が膨らまない。
潮喰みは海へ戻ろうとしているのに、波の上を滑る力が鈍い。
船底が何かに引かれるように軋み、主柱の奥にある潮心炉コル・マリスが、苦しげな鼓動を打っていた。
「……まだ痛がってる」
ゼルグが低く言った。
大柄な海獣人は、両手で慈癒の宝玉を抱えていた。マギア・ルーメより潮牙商会へ与えられた報酬。その宝玉は、持つ者の内に相手を救いたいという願いがある時だけ、癒しの力を示す。
カルサは船縁に片手を置き、海の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
鋭い歯、冷えた目、潮と血の混じったような気配。だが、その目はいま、荒くれた商人のものではなく、自分の船の苦しみを知る船長のものだった。
「白い冥界は閉じたはずだ。だが、こいつの腹にまだ霧が残ってやがる」
潮心炉が、また低く鳴った。
その瞬間、船の周囲に巨大な影が浮かび上がった。
魚だった。
透明な鱗を持つ、海そのものを泳ぐような巨大な魚の精霊。
その輪郭は美しかったが、ところどころ濁っている。
鰭には黒赤い筋が走り、腹には白い霧の糸が絡みついていた。竜の血で濁らされ、古い呪縛に縛られ、船の心臓として使われてきた魂。
ルミナリスは胸に手を当てた。
神の花フロス・エテルナリスの花晶が、微かに光る。
「まだ、苦しんでいます」
「癒しだけじゃ足りねえぞ。そんなんもわからねえのか?」
ルミナリスの肩近くに浮かぶ小さな炎が、乱暴に言った。
原初たる焔の主精霊、イグニス。
掌ほどの小さな炎に見える。
だが、その炎が揺れるたび、潮風が身を引き、海獣人たちの毛並みがざわりと逆立った。
海の者たちは知っている。
原初たる焔イグニス。
かつて海を沸騰させ、海神の肌を焼いた焔。
嵐よりも古く、海底の闇よりも恐ろしい災いとして、海の子らに語り継がれてきた存在。
若い船乗りが、怯えたように呟いた。
「海を煮た焔……」
「口を閉じろ」
年かさの船員が、その肩を掴んだ。
「御名を軽く呼ぶな」
カルサもイグニスを見ていた。
サメのような目を細め、警戒と畏れを隠そうともしない。
「おい、原初の焔。まさか、この船で海を焼くつもりじゃねえだろうな」
「俺を火事扱いするな、サメ」
イグニスの炎が尖る。
「焼くのは海じゃねえ。こいつを縛ってる腐った理だ」
「海神に火傷させた奴の言葉を、海の上で信じろってか」
「あれは向こうが先に水をかけた」
ルルリアが半目になった。
「えっ、水をかけられたから海神を火傷させたの? 神話級に大人げない」
「黙れ、小娘。俺に水をかける方が悪い」
「本気で神様、焼いたんだ」
「焔は嘘は言わねえ」
イグニスはそう吐き捨てると、ルミナリスの前へふわりと出た。
「ルミナリス。こいつの輪郭を押さえろ。癒すのは、その宝玉と、でかい海獣人の仕事だ。俺は邪魔な鎖だけ焼く」
「はい」
ルミナリスは静かに頷いた。
ゼルグが一歩前へ出る。
その手の中で、慈癒の宝玉が淡く輝き始めた。
「潮喰み」
ゼルグの声は重かった。
「戻れ。縛られた心臓ではなく、共に進む魂として」
宝玉が強く光る。
同時に、ルミナリスの胸の花晶が、精霊の輪郭を包むように優しく光った。
「あなたは、船の道具ではありません」
ルミナリスは、巨大な魚の精霊を見上げた。
「あなたは、海の精霊です。潮喰みと共に進むことを、選べます」
魚の精霊が震えた。
その腹に絡みついていた白い霧が、苦しげにうねる。
黒赤い竜の血の筋が鎖のように浮かび上がり、魂の奥へ食い込んでいた。
イグニスが低く唸る。
「汚え縛り方しやがって。怒った龍の血を垂らしすぎだ」
小さな炎が、ふいに深く深紅に燃えた。
赤でも、白でもない。
世界がまだ名を持つ前の、原初の焔。
それは海を焼かず、帆を焦がず、船を炭にもしなかった。
ただ、精霊に絡みつく白い霧と、龍の血で濁った呪縛だけを焼いた。
魚の精霊が高い声をあげて、大きく身をよじる。
潮喰み全体が軋んだ。
海獣人たちが悲鳴を飲み込み、カルサが鋭く叫ぶ。
「騒ぐな! 船を押さえろ!」
海の精霊が苦しんでいる。その様子を見て、カルサは強い恐れを感じ、それを飲み込んでいた。
「潮喰み、頼む……。船からいなくなってもいい……。消えないでくれ」
カルサがまだ子供だった頃、海を跳ねるその美しい精霊の姿に、心奪われたあの一瞬の光景は今も胸に刻まれたままだ。
「暴れるな、魚もどき」
イグニスが怒鳴る。
「お前を焼くんじゃねえ。お前に噛みついてる腐れ縄を焼いてるんだ」
焔が走る。
黒赤い鎖が焼け落ちる。
白い霧が裂ける。
むき出しになった魂の傷へ、ゼルグの慈癒の宝玉が光を注いだ。
ひび割れた鱗が癒され、濁った鰭が透き通る。
巨大な魚の瞳に、はっきりとした海の青が戻っていく。
その瞬間、潮喰みの奥で、深い鼓動が鳴り、船が息をした。
帆が膨らむ。
止まっていた潮が動き出す。
船体を覆っていた重い白が、少しずつ剥がれていく。
だが、前方にはまだ厚い霧があった。
白い冥界の残滓。
閉じた異界が最後に残した、海路の傷。
その向こうへ出なければ、潮喰みは完全には現世の海へ戻れない。
イグニスが前へ出た。
「邪魔だ」
小さな炎が、突如巨大な炎の塊となり、縦に伸びた。
白金色の焔の刃だった。
海獣人たちが息を呑む。
古い神話を知る者たちは、海が沸くのではないかと身構えていた。
だが、波はそのまま波であり、潮は潮の匂いを保っていた。
イグニスの焔は、白い冥界の霧だけを焼き切った。
霧が裂け、その向こうに、青黒い現世の海が開いた。
カルサが、ぽつりと呟いた。
「……海を焼かずに、霧だけを焼いたのか……」
ゼルグが宝玉を胸に抱いたまま、深く頷く。
「今は、道を開く焔だな」
「勝手に妙な名をつけるな」
イグニスは不機嫌そうに揺れた。
「俺は原初の焔だ。邪魔なものは焼き払う」
ルミナリスは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます、イグニス」
「礼を言うな。燃やすぞ」
「照れてる」
ルルリアが小声で言った。
「聞こえてるぞ、小娘。影も残さず消えたくなければ黙れ」
「ひゃい」
妙な声を出したルルリアに、オルクスがかすかに笑った。
潮喰みは霧を抜けた。
船の奥では、癒された海の精霊が静かに息づいている。
もう禁忌の心臓ではない。竜の血で濁らされた魂でもない。潮喰みと共に進むことを選んだ、海の精霊だった。
潮牙商会と別れて一行は新たな場所を目指します。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
色々とへまが多く、改行、誤字脱字、無くなりません。
気を付けますので、また是非ご一読ください。




