Ⅶ ~現れしものと守るもの
杖を握る手の奥で、ほんのひと息だけ、懐かしい祈りの気配が重なった。
温かい手が自分の手の上に重なるような、優しい感覚。
誰かがかつてそうしたように、守るために捧げた魔法の記憶。
ルミナリスはしっかりと感じていた。
自分の為に祈りを捧げてくれているあの内なる声の主のことを……。
~本文より
船縁の高さまで寄ってきたその輪郭が、形をとった。
鉤爪も禍々しいおびただしい手が辺りを掴みねじる。
その背後で、ツァル・ベナインの眼が、さらにひとつ、開く。
オルクスは気配を感じ取り、アシュラムの柄を握り、低く告げた。
「アシュラムよ。境を断てっ」
アシュラムが鳴いた。
金属音ではない。
剣の内側で、魂の深みに触れるような低い共鳴が走る。
それに応じるように、海が打った。
轟音ではなかった。
だが白い冥界の静けさそのものを、ひっくり返すような一撃だった。
左舷一帯の水が、巨大な波となって立ち上がる。
ただの波ではない。
銀を帯びた、水の壁。
あるいは、幾つもの魂を抱いたまま立ち上がる海そのもの。
白いものたちが、その波を前に一斉にたじろいだ。
魑魅魍魎の影が、甲板へ届きかけた指を引く。
ルミナリスはその波の中に、姿があるのを認めた。
独りではない。幾つもの人影だ。
波そのものとして還ってきた、王国海兵隊 海獣の顎。
港町ベリスティアの戦いで、ルミナリスやルルリアを助け、命を落とした者たち。
その先頭にいたのは、副隊長ジェルヴィスだった。
濡れた軍装の輪郭。肩にかけた武器の影。
それらはすべて、水と光でできている。
けれど見間違えようがなかった。
「おっちゃん……!」
ルルリアの声が震える。
波の中のジェルヴィスは、こちらを見た。
口元に、生前と変わらぬ苦笑が浮かんでいる。
だが、その眼差しには確かな意志があった。
守る。
ただそれだけが、波の形をとってここへ現れていた。
その隣には、ベリスティアで散った海獣の顎の面々がいた。
誰もが半透明の波と光でできている。
海へ還った者たちが、海の加護をまとって、一時だけ形を得たもの。
巻貝が強く輝いていた。
アルケイラの加護だと、誰もが悟った。
海の神獣が、白い冥界の入口で、死してなお海を守る者たちへ道を与えたのだ。
ジェルヴィスが、波の中から一歩前へ出る。
その動きに合わせて、銀を帯びた大波が甲板の外縁をぐるりと取り巻いた。
白いものたちがそこへ触れるたび、焼かれたように輪郭を失って散っていく。
魑魅魍魎の影は、波へ触れた端から崩れ、冥い水の向こうへ押し戻される。
そしてツァル・ベナインの眼が、ほんのわずかに細まった。
怒りか、興味か。
判別はつかない。
だがその視線ですら、波の守りを前に一瞬だけ遠のく。
オルクスは静かに目礼した。
「死してなお守る誓いに、敬意を」
アシュラムの唸りが変わる。
波の守りと歩調を合わせるような低い共鳴が混じっている。
ルミナリスの花晶もまた、脈の質を変えた。
冥界と狭間を押し返すための光ではない。
正しく還った者たちの輪郭を、一時だけこの場へ留めるための、柔らかな祈りの光へ変わっていく。
杖を握る手の奥で、ほんのひと息だけ、懐かしい祈りの気配が重なった。
温かい手が自分の手の上に重なるような、優しい感覚。
誰かがかつてそうしたように、守るために捧げた魔法の記憶。
ルミナリスはしっかりと感じていた。
自分の為に祈りを捧げてくれているあの内なる声の主のことを……。
ルルリアの巻貝が、胸の前で強く震えた。
海が応じている。
マルッカから託された縁が、いまここで、死した海兵たちとアルケイラの加護を繋いでいるのだ。
ジェルヴィスが、波の中でルルリアを見る。
そして、生前と変わらぬ癖で、ほんの少しだけ顎をしゃくった。
立て。紡げ。
そう言われた気がした。
ルルリアは唇を噛みしめ、巻貝を握り直す。
「レッディムス・ウィータム、マレ・タケアト――命を還し、海よ、鎮まれ」
その声が合図だったように、波がさらに高く立つ。
海獣の顎の死者たちは、波とともに船の周囲を巡り、白いものと魑魅魍魎を押し返していく。
甲板の上へ近づきかけていた異界の気配が、ひとつ、またひとつと遠ざかる。
ツァル・ベナインの眼は、なお海の底でこちらを見ていた。
だが、いまは届かない。
アルケイラの加護を受けた死者たちの波が、潮喰みと“こちら側”の境を、強く、強く抱いていたからだ。
カルサが、初めて膝を折った。
海の民として、神獣と、死してなお守る海の者たちへ頭を垂れたのだ。
「……潮は……まだ俺たちを見捨てちゃいねえ」
掠れた声だった。
ゼルグも、ハグルも、潮牙の面々も、誰ひとり軽口を叩かない。
波の中に立つ死者たちを見て、ただ黙って頭を下げる。
ジェルヴィスの姿が、少しずつ波の中へ薄れていく。
長く留まれるわけではない。
これは召喚ではない。
正しく還った者たちが、アルケイラの加護を得て、一瞬だけ波として立ち現れたにすぎないのだ。
それでも、その一瞬で十分だった。
白いものたちは退いた。
魑魅魍魎は甲板から剥がれ、狭間の奥へ引いた。
海の底でこちらを見ていた無数の眼も、今はただ、遠い深みへ沈み直していくように見えた。
去り際に、ジェルヴィスがもう一度だけこちらを見る。
ルルリアは、今度こそはっきりと頷いた。
波が崩れる。
海獣の顎の面々は、水と光の筋となって銀のうねりへ溶けた。
最後に尾を打つようにひときわ大きな波が船腹を撫で、その波の奥に、一瞬だけ、巨大な鯱の銀色の影が見えた。
アルケイラ。
海の神獣は、何も言わず、ただそこにいた。
次の瞬間には、銀の影もまた白い海の底へ沈んでいた。
あとに残ったのは、深い静けさだけだった。
だがそれは、先ほどまでの不吉な静けさとは違う。
ひとつの守りがのあとの静けさだった。
ルミナリスは花晶へ手を添える。
ルルリアは巻貝を胸へ抱き寄せる。
潮喰みはなおも境を泳いでいる。
けれど今だけは、甲板の上にいた全員が知っていた。
この海には、ただ喰らうものだけがいるのではない。
死を越えてなお、護ることを選ぶものもまた、たしかに在るのだと。
次回、海を渡るルミナリスたちが帝国の痕跡を見つけます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




