Ⅵ ~波の上に還るもの
「あれは、こちら側の位相にまだいません」
ルルリアの喉がひきつる。
「何よ、それ……」
巻貝を握る指が白くなる。
「手の出しようがないってこと?」
~本文より
近くの波間に、白いものが現れた。
最初は触手のように見えた。
輪郭の定まらぬ、ぼやけた白いひも。
だが、それはただ漂っているのではない。波の崩れと別の拍で揺れながら、確かに潮喰みの方へ寄ってきていた。
「頭っ、やばそうなんが近づいてきます。小さいの、ぶっぱなします!」
「おう。波間すれすれにやれ!」
乗組員のひとりが吠えた次の瞬間、その身が海獅子の姿へ変わる。
肩に抱えた小型砲台の口が、白いものへ向いた。
「放て—— 砲!」
カルサの号令と同時に、火焔矢が撃ち込まれる。
焔の尾を引いた矢は、波間を正確に裂き、白いものを真芯から貫いた。
だが。
燃えない。散らない。
白い輪郭は火を受けた一瞬だけ揺らぎ、次の瞬間には、かえって少しだけ形を濃くした。
ルミナリスの百眼が、そのわずかなずれを捉える。
「火焔矢は効いていません」
低く言った。
「あれは、こちら側の位相にまだいません」
ルルリアの喉がひきつる。
「何よ、それ……」
巻貝を握る指が白くなる。
「手の出しようがないってこと?」
白いものは、焔に炙られたことで、逆に輪郭を引き寄せられたみたいだった。
頭。肩。垂れた腕のような線。
人の姿を真似た何かが、ぼやけた白の中から半ばだけ立ち上がる。
「頭っ、やっぱり向こう側のやつです! 浄火の矢も効きません!」
その声を聞きつけたかのように、白いものの“顔”にあたる部分が、こちらを向いたように見えた。
潮喰みの空気が、わずかに軋む。
まだ、本当に寄ってきてはいない。
皆がそう思った、その次の瞬間だった。
船が沈んだ。
いや、沈んだように感じた。
波へ呑まれたのではない。船腹が砕けたのでもない。
だが世界そのものが、いきなりひとつ下の層へ落ちたみたいに、唐突に重くなる。
ルミナリスの足の裏から、甲板の感触が遠のいた。
板はそこにある。綱もある。
ルルリアも、オルクスも、カルサも、確かに見えている。
しかし、それぞれの輪郭だけが、半歩ずつ、冥い水の奥へ引かれていく。
甲板の上の世界そのものが、ずれていた。
潮喰みは起きている。
潮を喰い、境を泳ぎ、海と海のあいだへ身を滑らせている。
その代償として、船の上はもうただの甲板ではない。
こちら側と、あちら側。
生者の立つ板の上と、死者と狭間がよぎる層。
その距離が、一気に縮まっているのだ。
「腹に力を入れろ! 魔力溜まりを起こせ!」
カルサの怒声が飛ぶ。
「ここはもう、冥界と隣り合わせだ!」
「だめだ! 破魔の灯火も効かねえっ!」
右舷側で、誰かが短く呻いた。
ハグルだった。
その視線の先、波の上にいたはずの白いもののさらに向こう、水面の下でも、霧の上でもない場所に、黒い影が幾つも蠢いている。
顔のないもの。口だけが裂けているもの。
腕の数が足りぬもの。逆に、多すぎるもの。
恐れを姿にした化け物たち。魑魅魍魎。
そうとしか呼びようのない、名を与える前から人の輪郭を嘲るものたちが、甲板の縁へ指をかけるように滲み出していた。
しかも、それだけではなかった。
海の下から—— 深みを失い、底なしの口へ変わりつつある暗がりのさらに奥で、何かがこちらを見た。
眼だった。
ひとつではない。
だが幾つとも数えられない。
夜よりも深く、海よりも古く、ただ見ているというだけで、こちらが“測られている”と分かる眼。
ツァル・ベナイン。
その名を口にせずとも、甲板の上にいる誰もが悟った。
もはや気配ではない。
明確に、こちらへ眼を向けている。
ルルリアが声にならぬ息を漏らす。
「や……」
巻貝を握る指が震えている。
ルミナリスの胸元の花晶が、深く、鋭く、強く脈打つ。
だが、それでも押し返しきれない。
白いものたちは近い。魑魅魍魎の影が甲板の縁へ滲む。
冥界と狭間の気配が、潮喰みの上そのものへ寄ってくる。
オルクスがアシュラムの柄を強く握りしめた。
剣は低く唸る。
守りの意志を高め、境を保とうとする。
だが、老剣聖の顔には、この海へ入ってからもっとも深い険しさが宿っていた。
「……剣の届く理の外じゃ」
その一言で十分だった。
オルクスですら、どうにもできない。
白いものでも、魑魅魍魎でもない。
甲板そのものへ近づいてきた“あちら側”の厚みと、ツァル・ベナインの眼の重さが、剣の届く理を越えているのだ。
カルサが舵を握ったまま怒鳴る。
「形を保て! 崩れるな!」
だが、その声すら少し遠い。
ルミナリスは必死に花晶を掲げる。
光が甲板を定める。
ルルリアも巻貝を胸へ押し当て、海との縁を返そうとする。
それでも一つ及ばない。
白いものの一体が、ついに船縁の高さまで“寄った”。
次回、追い詰められた一行の苦闘を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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