Ⅴ ~迫りくる何か
年かさの海獣人の女が、桶を握る手を止めた。
「……やめろ」
掠れた声だった。
「ダメだっ。やめろぉおー」
狂乱しはじめた女をハグルが力づくで甲板に押さえつけた。
「騒ぐなっ」
女はばたばた暴れていたが、そのまま静かになった。
そして、
「ああ、畜生っ、ツァル・ベナインに見つかった。嫌だあぁ嫌だあぁあああぁ!!」
~本文より
巨獣の狂奔は、しばらく続いた。
左舷を棘だらけの背が掠める。
後方で尾が海を打つ。
前方では別の巨影が浮き上がり、泡と飛沫を巻き上げながら深みから押し出されていく。
巨大な海の主たちが轟音と共に発する、荒波と魔力の暴風。
だが潮喰みは、それらのただ中を真正面から裂いて進んではいなかった。
深みの主たちが踏み荒らすその外縁を、世界の境目をなぞりながら滑っていく。
帆が鳴る。綱が軋む。
木と縄の悲鳴ではない。
透明な巨大魚の腹の内側で、骨でも内臓でもない何かが、薄く、低く共鳴しているような音だった。
ルミナリスは息を潜めたまま、結界を維持していた。
足の裏にある甲板は確かにそこにある。
だが、それを確かめ続けなければ、次の瞬間には海のどの層にいるのか分からなくなりそうだった。
胸元の花晶が、規則正しい脈ではなく、ときおり深く、思い出したように脈打つ。
海に合わせているのではない。
海の中で、まだ人の側に属している自分の輪郭を、何度も縫い止め直しているのだ。
やがて、海王類の影が減っていった。
一頭、また一頭と、深みから押し出されてきた巨獣たちは、より沖へ、より遠くへと逃げていく。
水柱はまばらになり、狂乱の飛沫も、次第に潮喰みの周囲から遠ざかっていった。
抜けたのだ、とルルリアは思った。
少なくとも、あの魔獣たちの逃走のただ中は。
だがその安堵は、形になる前に消えた。
海が、急に静まり、鳴りを潜めた。
何かを前にして、海そのものが声を引っ込めている静けさだった。
波はまだある。うねりもある。
潮喰みを支える水の重みも消えてはいない。
しかし、そのすべての奥にあったはずのざわめきが、ひとつひとつ退いていく。
止まるはずのない波の音と風の音が—— 止んだ。
年かさの海獣人の女が、桶を握る手を止めた。
「……やめろ」
掠れた声だった。
「ダメだっ。やめろぉおー」
狂乱しはじめた女をハグルが力づくで甲板に押さえつけた。
「騒ぐなっ」
女はばたばた暴れていたが、そのまま静かになった。
そして、
「ああ、畜生っ、ツァル・ベナインに見つかった。嫌だあぁ嫌だあぁあああぁ!!」
女は海を見ずに叫ぶと、口から目から白い霧を垂れ流し始め、遂には全てを切りと変えて、その存在を溶かし消えた。
ゼグルはあまりの出来事に信じられず、口をあんぐりと開けて己の手を見ていた。
他の乗組員たちも手が止まっている。
「ち、くそが。野郎どもっ、揺れを凌げ」
カルサは大声で怒鳴らなかった。
怒鳴る必要がないのだろう。
皆その一言で我に返り、動き始める
舵を握ったまま、ほんのわずかに重心を落とし、前を見ている。
海の男が何かを待つ姿ではない。
来るものへ逆らわぬため、先に自分の形を小さくしている姿だった。
ゼルグが唇の端を引きつらせる。
「頭……」
「ああ……分かっている」
カルサの声は低かった。
「そのまま保て。切るな、張るな、泳がせろ」
潮喰みはなおも透明な巨大魚の霊に包まれたまま、静まり返った海の上を滑っていく。
その時、ルミナリスの百眼に、海の深みが変わったように感じた。
ただ、深さとしてとらえられなくなっていく。
底があるはずの場所に、底へ届かぬ暗がりが口を開く。
そこへ、海そのものが薄く沈み込んでいる。
「……下が、ない。海の底が抜けたような……」
思わず零れた声に、ルルリアが振り向く。
「何?」
ルミナリスは目を逸らせないまま言った。
「深さの意味が、少しずつ外れていっています」
オルクスの表情が険しくなる。
「何か察知したのか?」
「はい」
ルミナリスはかろうじて頷く。
「海の理で測れないものが、位相の口が開いています」
カルサはそこで初めて、息をひとつ深く吐いた。
「……騒動の主が来やがった」
誰も何だとは問わない。
問えば、その名が形を持ってしまうと知っているからだ。
だが名前を避けたところで、気配まで消えるわけではなかった。
胸元の花晶が、どくり、と深く脈打つ。
今度の反応は、強く重い。
存在の重さそのものをなくさないように重さを加えているようだった。
ルルリアもまた、巻貝を握りしめていた。
「洒落にならない……やばいなこれ」
「何がだ」
カルサが短く問う。
ルルリアの声は震えていた。
「沈む感じがする。これ持ってる手だけ、ずっと下に引かれてるみたい」
オルクスの手の中で、アシュラムが低く鳴る。
抜かれてはいない。
だが、剣の内側に眠る意志が、先ほどの白いものたちに向けた時よりも、さらに深く目を覚ましていた。
こちら側の輪郭が呑まれぬよう、剣そのものが主へ寄り添っているのだと分かる鳴りだった。
潮喰みの周囲の水が、ふいに白み色彩の全てを喪った。
海の表へ、細い白の筋がいくつも浮かんでいた。
見えぬ何かが通った跡だけが、白く焼きついたように、一本、また一本と増えていく。
深さを失いつつある海そのものが、どこか遠い狭間へ擦れ、軋み、その摩擦の残響だけがこちらへ滲んでくる。
ルルリアの顔色が変わる。
「何か名前のように聞こえる……」
言いかけて、すぐに口をつぐむ。
カルサは振り向かないまま言った。
「口にするな。聞き入れるな」
低い声だった。
「だが、考えるなとも言わねえ。どうせ、気配のほうが先に来る」
その瞬間、前方の海面が、何の前触れもなくわずかに沈んだ。
沈んだ、というのはおかしい。
実際には沈んでいないのかもしれない。
ただ、そこだけが“深さを飲み込まれた”ように見えたのだ。
波が低くなるのではない。
海面そのものが、一瞬だけ、底なしの口の縁になる。
誰も動けなかった。
動いたところで意味がないと、本能が先に悟ったからだ。
その沈みは、すぐに戻る。
何事もなかったように、ただの鉛色のうねりへ戻ってしまう。
だが、そのあとに残った沈黙は、先ほどまでと別物だった。
もう海が静かなのではない。
海が、何かひとつ大きなものの呼吸へ合わせ始めている。
カルサの頬を、汗が一筋伝った。
「全員、そのままだ」
命令というより、自分へ言い聞かせるような声だった。
「騒ぐな。逆らうな。見つかっても、知らんふりをしろ」
次回、さらなる恐怖を迎える船の上を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも楽しめて貰えたなら、幸いです。
まだ是非、ご一読ください。




