神の花を求めてⅦ ~ 異界の街
通りを抜けていた風がぴたりと止み、次いで、見えぬ森の奥から吹いてきたかのような冷たく青い流れが、三人のあいだをすり抜ける。
路地の奥で、巨大樹の影が揺れた。
ルルリアが思わず息を呑む。
「……ラムス=セテルの辻」
~本文より
風の街へ辿り着いた時、空はすでに夕暮れの色を失いかけていた。
西の果てに残る光は細く、砕けた月の欠片をにじませる薄い藍へ、ゆっくりと呑まれつつある。
岩砂域を越えてきた乾いた風は、街の手前で不意に匂いを変えた。
砂と石の匂いではない。
香草。乾いた花弁。樹脂を焚いたあとの煙。
そして、遠くで踏み鳴らされた幾千の足跡がまだ地面に残している、熱の抜けきらぬ祭りの気配。
「……これが、風の街」
ルルリアが低く呟く。
街は緩やかな坂の上に広がっていた。
白茶けた石と、風に削られた木組みでできた家々。
通りのあちこちには色褪せた布旗が渡され、祭りに使われたらしい風車飾りが、夜を前にして弱々しく回っている。
不意に強い匂いを風が運ぶ。
森の香りに似ていた。あるいは、夏草が重く垂れこめる夕暮れの匂いに。
不快ではない。
だが胸の奥に、理由のない不安だけを残す。
途端に、賑やかだったはずの人の気配がまばらになり、祭りのまっただ中の喧騒が消えた。
何か大きなものが通り過ぎたあとにだけ残る、半端な静けさが街全体に沈んでいた。
「……何、これ」
ルルリアが目を細める。
「慌てるでない」
オルクスが答えた。
「巡礼祭そのものは要らぬ。必要なのは、祭りが街へ残した余韻じゃ。枝は、それに応じて道を開く」
そう言って老剣士は、抱えていた布包みへ視線を落とした。
その中に納められている王樹の枝は、昼のあいだはまったく変化を見せなかった。
だが今は、布越しにでもわかるほど、かすかに熱を帯びていた。
ルミナリスの百眼がそれを捉える。
「魔力波が活性化しています。余波として熱と香りが発生。匂いが位相へ干渉しています」
「始まったわけね」
ルルリアが、冗談めかす余裕もなく、右手の戦闘籠手に、小さな稲妻を灯した。
オルクスは静かに告げた。
「戦うことはない。武器は要らぬ。風に従え。ほれ、風向きが変わり始めたぞ」
街の上を吹いていた風は、先ほどまで岩砂域と同じ乾いた向きで流れていたはずなのに、いまはどこか街の内側へ巻き込むように動いている。
布旗の揺れ方も、風車の回り方も、目で追えば追うほど妙に定まらない。
ルミナリスは立ち止まり、周囲を観測した。
建物の配置に異常はない。
往来の幅、石畳の摩耗、火の灯る位置、人の歩行速度。
どれも現実の街として成立している。
だがその一方で、認識の奥にある何かが微かに軋んでいた。
この街は、まだ人の街でありながら、すでに一部が別の位相へ触れ始めている。
「境界干渉を検知」
ルミナリスが低く告げる。
「強度は低いですが、局所的に位相のずれが発生しています」
ルルリアが嫌そうに眉を寄せた。
「その言い方、だんだん慣れてきた自分が嫌になるわ」
「慣れた方がよい」
オルクスが前を見たまま言う。
「ここから先は、目に見えるものの方が当てにならぬ」
三人は坂を上がり、街へ足を踏み入れた。
石畳は昼の熱をわずかに残していた。
軒先には風避けの骨組みが並び、祭りで使われたらしい薄絹の房飾りが、ところどころ千切れたまま垂れている。
露店の名残もまだ残っていた。
閉じられた木箱。香辛料の匂い。吊るされたまま忘れられた風鈴。
だが、行き交う人々の姿は、どこか輪郭の薄い影のように見え始めていた。
街に暮らす者たちは、夜が深くなる前に世界から引き上げようとしているように見えた。
ルルリアが小声で言う。
「祭りの街なら、もう少し浮かれててもよさそうなのに」
「浮かれる刻限はとうに過ぎておるのじゃろう」
オルクスはそう返したが、その眼は鋭かった。
通りの角で、果実を片付けていた老婆がちらりとこちらを見た。
その視線は、何を持って来たのかを見定める目だった。
次の瞬間、老婆の視線はオルクスの布包みに落ちた。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
老婆は何も言わず、ただ目を伏せ、枯れ枝のような腕で指さした。
影が揺れてはっきりとしない路地の方向へ。
ルミナリスがはっきりと告げた。
「敵意は感じませんが……王樹の枝を認識しているようです」
「あれは、案内看板じゃ。捨て置け」
オルクスは低くつぶやいた。
「えっ、どういうこと?」
ルルリアが振り返ると、そこにはもう老婆はいなかった。
果実も、店先も、風にさらされた一枚の絵のように、平たく夜へ貼りついているだけだった。
「嘘……って本当か」
「ルルリアさん。幻惑魔法に取り込まれると正常な判断ができなくなります。あまり気に掛けず、そのまま進みましょう」
ルミナリスの声に、ルルリアは深く頷いた。
それ以上は何も言わず、黙って街の奥へ進む。
やがて、賑わいの名残は目に見えて薄くなっていく。
広い通りは狭まり、建物の壁は近づき、石畳にはひび割れが増えていく。
代わりに、風の通り方だけが妙に濃くなる。
曲がり角をひとつ越えたところで、ルルリアが足を止めた。
「……香りが変わった」
ルミナリスも同時に立ち止まる。
たしかに変わっていた。
祭りの香草や樹脂の匂いではない。
もっと深い、湿り気を含んだ青い匂い。
アルカヌム・カストルムの一室で、王樹の枝が布から解かれた瞬間に流れたものと、どこか同じ系統の香りだった。
オルクスが布包みに触れる。
「熱を増しておる」
その声音に、わずかな緊張が混じる。
「近いの?」
ルルリアが尋ね、オルクスは周囲を見回しながら答えた。
「街がこちらを向き始めておる。しばしの間立ち止まれ」
その言葉は意味が分かるようで分からない。
だが否応なく肌は理解する。
何かがこちらを選り分け始めている。
前方には、崩れた壁に挟まれた細い路地が見えていた。
行き止まりにしか見えない。
石積みは崩れ、先には木箱と割れた壺が無造作に積まれているだけだ。
だが、ルミナリスの百眼はそこに微かな揺らぎを捉えていた。
空間の厚みが、わずかに違う。
路地の奥だけ、夜の沈み方が遅い。
「……位相の歪みを確認しました」
ルミナリスが言うと、オルクスは布を解いて王樹の枝をそっと取り出す。
ただの木枝にしか見えないそれは、いまやはっきりと温みを帯びていた。
木肌の奥で、金とも緑ともつかぬ色がかすかに揺れている。
その瞬間、風が変わった。
通りを抜けていた風がぴたりと止み、次いで、見えぬ森の奥から吹いてきたかのような冷たく青い流れが、三人のあいだをすり抜ける。
路地の奥で、巨大樹の影が揺れた。
ルルリアが思わず息を呑む。
「……ラムス=セテルの辻」
オルクスが低く告げた。
「やっと、入口じゃの」
王樹の枝が、かすかに脈を打つ。
街の灯りは背後で上下左右に揺れている。
人の声も、祭りの名残も、まだ完全には消えていない。
それなのに、この細い路地の前だけが、もう別の夜へ足を踏み入れているようだった。
ルミナリスはその暗がりを見つめた。
解析視界は、行き止まりと示している。
だがそれとは別のところで、内側にある何かが知っていた。
(安心シテ……フィリア。貴女は、私が守るカラ。この先へ)
目に見える先には何もない。
だが、あるはずのない道が、いままさに開こうとしている。
次回、さらなる異界へ足を踏み入れる3人を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
楽しんでもらえたなら、書き手としてとても嬉しく思います。
またお目にかかれるようしっかりと描いていきます。




