第13章 神の花を求めてⅥ ~王樹の枝を標に
「道……」
ルミナリスが繰り返す。
「神の花へ至る道だ」
その言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
神の花——フロス・エテルナリス。
いついかなる時も道を示し、迷いから解き放つという、あまりにも尊い花の名は、口にするだけで現実の厚みを変えるようだった。
~本文より
夕刻の光はすでに薄れ、アルカヌム・カストルムの石壁のあいだには、冷えた影が静かに沈みはじめていた。
どこか遠くで鍛冶の槌音が響いている。
負傷兵のうめきも、獣人たちの低い話し声も、今は厚い石の中へ吸われるように遠かった。
その一室で、オルクスは卓上に置いた布包みを、ゆっくりと開いた。
中から現れたのは、ただの枝だった。
「これは、神の花に至るための鍵、王樹の枝じゃ」
大人の前腕ほどの長さを持つ、細く、しなやかな木枝。葉も花もついてはいない。どこにでも落ちていそうな、変哲もない枝に見える。
それが布から解かれた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
ルルリアが小さく息を吸い込んだ。
「……いい匂い」
それは強い香りではなかった。
雨上がりの森。若葉。古い樹皮の奥に眠る青い樹液。遠い春の朝、まだ誰にも踏まれていない草露の匂い。言葉にしようとするとこぼれ落ちてしまうような、あわくて深く静かな香りだった。
ルミナリスはその枝を見つめる。
百眼の解析視界は、材質を木質と示していた。特異な魔力反応は、表層には見られない。
だが、その分析結果とは別のところで、彼女の内に宿る何かが、微かにざわめいていた。
「それが……鍵なのですね」
ルミナリスの問いに、オルクスは短くうなずいた。
「うむ。これこそが鍵というか、道しるべかの」
そう言って、老いた守護剣聖は枝をそっと持ち上げる。
その手つきには、武器を扱う時とは異なる慎重さがあった。鋼でも宝珠でもなく、もっと古い何かに触れるような、敬意に近い重さ。
「王樹の幹より分かたれた枝片。見た目はただの木の枝だが、ただの枝ではない。これは今なお、王樹の深い根と繋がっておる」
ルルリアが身を乗り出す。
「繋がってるって……これが、まだ生きてるってこと?」
「生きておるとも言えるし、記憶しておるとも言える」
オルクスはそう答え、枝先を灯火にかざした。
乾いているようにしか見えぬその木肌の奥で、ほんの一瞬だけ、金とも緑ともつかぬ淡い色が揺れた気がした。
「王樹はただの巨木ではない。あれらは大地の深層へ根を下ろし、互いに触れ合い、見えぬ道を知っておる。ゆえに、その枝もまた道を知る」
「道……」
ルミナリスが繰り返す。
「神の花へ至る道だ」
その言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
神の花——フロス・エテルナリス。
いついかなる時も道を示し、迷いから解き放つという、あまりにも尊い花の名は、口にするだけで現実の厚みを変えるようだった。
「私はかつて託宣の巫女に、その花を手に入れるような預言を頂きました。簡単に手に入るものではないのでしょう?」
ルミナリスの問いに、オルクスは静かに頷いた。
「咲いておる、と言えば咲いておる。だが、野に分け入れば見つかるようなものではない。あれは“行けば取れるもの”ではなく、“辿り着くべき者にのみ渡されるもの”だ」
そう言って、オルクスは王樹の枝を卓へ戻した。
「その方法を知る者がいる。精霊画家ロッセリオじゃ」
「……ロッセリオ?」
ルルリアが名を出すと、オルクスの目が細まる。
「そうだ。流浪の精霊画家ロッセリオ。王樹の気配を読み、夜に動く絵を描き、枝の道の開く刻を知る者だ。奴に会えれば、神の花を受け取るための作法を教わることができる」
「会えれば、ですか」
ルミナリスが問う。
オルクスは今度は肯定も否定もせず、しばし沈黙した。
その沈黙が、それだけで答えになっていた。
「ロッセリオは定まった居を持たぬ。だが、風の街の巡礼祭のとき――その外れにあるラムス=セテルの辻に、特定の夜だけ姿を見せる」
ルルリアが首をかしげる。
「特定の夜?」
オルクスは窓の外へ目をやった。
まだ宵の色を残す空に、砕けた月の欠片――涙の月の名残りがかすかに浮かんでいる。
「涙の月が、その姿を完全に隠す夜だ」
低く落とされた声に、室内の空気がさらに静まった。
「月が……隠れる夜……」
ルミナリスがその条件を反芻する。
単なる天文ではない、と直感した。そこには位相、結界、認識、そういったものが深く関わっている。
オルクスはうなずく。
「涙の月が空にあるうちは、辻はただの袋小路にすぎぬ。だが、あの月が完全に隠れる夜だけ、街の裏相に“枝の道”が開く。王樹の枝を持つ者だけが、その先へ進める」
「ラムス=セテルの辻……」
ルルリアはその名を小さく口の中で転がした。
どこか懐かしく、けれど一度も足を踏み入れたことのない響きだった。
「どんな場所なの?」
「昼は、崩れた壁に行き止まりの小路だ。誰が見ても何もない。だが夜、風向きが変わり、涙の月が完全に隠れれば、石畳の先に別の路が繋がる。木の香りが満ち、影が枝のように揺れ、王樹の枝が温みを帯びる。そこを進めば、ロッセリオが現れる」
「現れる……。待っている、ではないのですね」
ルミナリスが言うと、オルクスはかすかに笑った。
疲れと古傷を含んだ、ひどく薄い笑みだった。
「うむ。奴は待たぬ。迎えもせぬ。人であるのか精霊なのか、単なる事象なのかも分からん。ただ、辿り着いた者の前に、いるべきように現れるだけだ」
ルルリアは枝を見つめた。
ただの木の枝にしか見えないが、妙に遠いものにも思えた。
「……そのロッセリオに会えば、神の花をもらえるの?」
「すぐにはもらえぬ」
オルクスの声ははっきりしていた。
「ロッセリオは神の花そのものを持っておるわけではない。奴は、神の花が渡される“場”へ至るための手順を知っておる。何を携え、どの刻限に立ち、どこで目を閉じ、どの名を口にしてはならぬか――そうしたことをな」
ルミナリスの瞳が、わずかに細まる。
「つまり、神の花は試練の末に受け取るもの、ということですか」
「そうだ。フロス・エテルナリスは、欲しただけの者に渡るものではない。あれは存在を護る花だ。ゆえに、まず問われるのは“何のために在るのか”だろう」
その言葉は、静かに、しかし重く落ちた。
ルミナリスは黙る。
胸の奥で、魔導結晶がひどく小さく震えた気がした。
存在……何のために在るのか。
私は……兵器として生まれ、生き残ったもの。
誰かを護ろうとする者として戦いを続けている。
その問いは、他の誰よりも深く突き刺さる。
オルクスはルミナリスの様子を見ていたが、あえてそれ以上は言葉を重ねなかった。
代わりに、王樹の枝を両手で包み、静かに告げる。
「今宵ではない。だが、遠からぬ次の隠月の夜、我らは風の巡礼祭の街へ向かう。この王樹の枝を持って、ラムス=セテルの辻を越え、ロッセリオに会う」
ルルリアが緊張と高揚の混じった声で問う。
「……危ない場所?」
オルクスは一拍置いた。
「危うい、の方が近い」
「違うの?」
「危ない場所なら、剣でどうにかできる。だが、あの辻はそうではない。あそこでは己の見たいものが道になり、恐れるものが壁になる。ゆえに足を踏み外せば、敵に斬られるより先に、自ら迷う」
ルルリアは思わず口を閉ざした。
ルミナリスが静かに言う。
「それでも、行くのですね」
「行くとも」
オルクスは即答した。
老剣士の声には、わずかな揺らぎもなかった。
「マギア・ルーメへ辿り着くには、神の花が要る。神の花を得るには、ロッセリオに会わねばならぬ。ならば、進むほかあるまい」
そう言って剣を片手に立ち上がる。
かつて、アシュラムを手に入れるために訪れたことのある、苦すぎる想いが溢れた場所。
「覚えておけ」
オルクスは二人を見た。
「涙の月が姿を完全に隠した夜。風の街の巡礼祭で、ラムス=セテルの辻へ行く。この王樹の枝を使って初めて、神の花へ続く最初の門が開く」
沈黙が落ちた。
部屋の隅で灯火が揺れる。
どこか遠くで、また槌音が鳴った。
だがルミナリスには、それがもう今までと同じ音には聞こえなかった。
世界のどこかで、まだ見ぬ道が、静かに自分を待っている。
そんな予感だけが、王樹の枝の残り香のように、胸の奥へ深く沈んでいった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
話は佳境に入ります。
この章は思い入れのある章になります。
少しでも面白く読んでもらえたなら、とても嬉しく思います。




