第13章 神の花を求めてⅤ ~見えぬ境界
それでも、昨日までとは違うものが、一つだけあった。
城塞の中央、崩れかけた訓練場の端に、ロアンはひとり、黙って立っていた。
簡素な上衣の上から、それでもなお銀月の爪は首元に掛けられている。
朝の淡い光を受けて、その爪はほのかに青白く輝いていた。
~本文より
夜のざわめきが去ったあとのアルカヌム・カストルムは、奇妙なほど静かであった。
高き岩山に囲まれた秘密の城塞を、朝の薄い光が斜めに照らしている。
今では知る者さえいない、伝説の大魔導の秘儀の数々で守られている堅牢な巨大城塞。
そこに満ちるのは生き延びたことの安堵ではない。
失った者を数えきれぬまま、それでも今日をあきらめずに抗う者だけが持つ、重く乾いた静けさであった。
兵たちは既に動いていた。
負傷兵に包帯を巻く者。槍の穂先を研ぎ直す者。火にかけた鍋を見張る者。
眠れぬまま、空を睨んでいる者も。
昨日と今日の境など、本当はどこにもない。
夜の果てに、ただ朝が来ただけだ。
それを何度も繰り返す。
静けさのその中を、ルミナリスは音もなく歩いていた。
その姿に視線が集まる。
皆、手を振ったり、笑顔を浮べたり、兵も避難民も皆一様に真っすぐな視線を、ルミナリスへと向けた。
ルミナリスの事を知らない者たちですら、昨夜の一件以来、ただの旅人ではなくなっていた。
百眼に映るのは、城塞に残る疲労の色と、未だ消えぬ緊張の残滓。
王国兵と獣人兵は同じ空間にいながら、まだ完全には交わらない。
帝国獣人兵と手を結ぶということに関しての強い反発も、燻り火のように沈んだまま残っている。
それでも、昨日までとは違うものが、一つだけあった。
城塞の中央、崩れかけた訓練場の端に、ロアンはひとり、黙って立っていた。
簡素な上衣の上から、それでもなお銀月の爪は首元に掛けられている。
朝の淡い光を受けて、その爪はほのかに青白く輝いていた。
背筋は伸びている。
堂々としている、とはまだ言い難い。
だが少なくとも、昨夜のように押し潰されそうなまま立ち尽くしてはいない。
その姿を石段の上から見下ろしていたオルクスが、ふっと鼻を鳴らした。
「まだ、板についてはおらぬな」
声だけ聞けば、いつものような渋い軽口である。
ルルリアが肩をすくめる。
「一晩で板についたら、それはそれで怖いわよ」
「違いない」
オルクスは腕を組んだまま、訓練場の端に立つロアンを見つめる。
「じゃが、立っておる。あやつはもう逃げぬじゃろう」
ルミナリスもまた、ロアンを見た。
首元の銀月の爪。
微かな魔力波の安定。
完全な同調には遠いが、昨夜より明らかに揺らぎが減っている。
「適応が進んでいます」
淡々と告げると、ルルリアが小さく息を吐いた。
「その言い方、安心していいのか分からないのよね」
「安定は事実です」
「でしょうね」
ルルリアは苦笑し、王狼となったロアンの話から、元の話題へと戻した。
「さて、おじいちゃん。やっぱり、元の森で赤ちゃんを取り戻せないのよね?」
「エライデンじゃ。マクシュハエル王国の由緒ある王の名を継がせたのじゃ。いい加減に覚えよ」
「うん、そのエライデン。どうしても元の森じゃ駄目なの?」
オルクスは魔剣アシュラムを正面に抱えると、
「あの森は、帝国の魂を弄ぶ機械兵器に踏み荒らされた。何もかもぼろぼろじゃ。精霊は生命を守り慈しむもの。ゆえに、あの地からはとうに去った。門もまた、もう無い。何せ、精霊そのものがおらん」
ルミナリスが地図を拡げた。
「では、やはり精霊王の庭までたどり着くしか方法は無いということですね」
「ああ、そうじゃ。だが、場所が分からん。エルフ族の精霊の導き手か、アルゲントルム人の司祭でもおれば話は早かったんじゃが……ルミナ嬢のその様子じゃと、駄目だったんじゃな」
「共に、どなたも知る方はいませんでした」
ルミナリスの答えに、オルクスはゆっくり頷いた。
「向かうしかないじゃろうな。エルフの書庫 マギア・ルーメに」
ルルリアが眉をしかめた。
「どうせ簡単にいけないところなんでしょ? 書庫って言っているけどさ」
その名に、ルルリアが眉をひそめた。
「書庫、って言い方で片付けていい場所なの?」
「よくはないな」
オルクスは苦い顔で答えた。
「古きエルフどもが、精霊との盟約、神代の記録、そして人に見せてはならぬ知を溜め込んだ場所じゃ。書庫というより、知の墓所よ」
「墓所……ね」
ルルリアは小さく息を吐いた。
「嫌な響き」
「実際、嫌な場所じゃよ」
オルクスは魔剣アシュラムの柄に手を置きながら続ける。
「マギア・ルーメには、精霊王の庭へ繋がる古記録が眠っておるはずじゃ。アルゲントルム人が異界へ逃れた折、その道を記した写本が持ち込まれたという話もある」
「つまり、場所を知る鍵があるかもしれない」
ルミナリスが確認するように言うと、オルクスは頷いた。
「そういうことじゃ。迷いの霧を越えて無事辿り着ければ、の話じゃがな」
「たどり着けない可能性もあるの?」
ルルリアの問いに、オルクスはしばし黙した。
「千年単位で守られてきた場所じゃ。形ある本は残っておるやもしれん。じゃが、そこに書かれた意味まで、今も人に読めるとは限らぬ」
石段の上に、短い沈黙が落ちる。
エルフの禁断の書庫、マギア・ルーメ。
神授の花。
精霊王の庭。
言葉だけを並べれば神秘に満ちている。
だがその実、どれも人の世界の外側にあるものだった。
ルミナリスは広げられた地図へ視線を落とす。
岩山の裂け目。枯れた水脈。忘れられた石碑。
その先にあるのは単なる距離ではない。
人の理が届かぬ場所へ踏み込むための、見えぬ境界だ
次回、神の花をめぐるルミナリスたちの旅立ちを描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
またお目に是非かかれるよう、しっかりと描いていきます。




