第10話 きみが見える人
あの日から、二年が過ぎた。
中学を卒業して、高校生になった。
制服が変わった。
通学路が変わった。
教室も、周りにいる人たちも変わった。
それでも、変わらなかったものが一つだけある。
「美香、今日どっか寄ってく?」
「昨日も寄ったでしょ」
「昨日は昨日」
「今日は今日?」
「そういうこと」
「便利だね、その理屈」
放課後。
校門を出ると、玲奈はいつものように私の隣を歩いていた。
二年前のあの病室から、ずっと。
最初の頃は大変だった。
玲奈に返事をしてしまって、周りから変な顔をされたこともある。一人で笑っているように見られたこともあったし、学校ではなるべく玲奈と話さないようにしようと決めた時期もあった。
でも、人間は慣れる。
誰かがいるところでは心の中だけで返事をして、二人になったらまとめて文句を言う。玲奈も玲奈で、授業中にわざと変なことを言って私を笑わせようとするのを覚えた。
たぶん、普通ではない。
そんなことは分かっている。
でも私にとっては、これが普通になった。
「で、どこ行く?」
「帰る」
「即答」
「昨日コンビニ寄ったし」
「今日もコンビニはあるよ」
「なくならないから明日でいい」
「美香って時々すごいこと言うよね」
「何が」
「コンビニの存在を明日に保証した」
「どうでもいい」
玲奈が隣で笑った。
私も少し笑った。
こうして話している時だけは、あの夜のことを考えなくて済む。
事件を起こした男は、その後警察に逮捕された。
ニュースになり、警察が調べ、事件として処理されて、やがて世間から話題が消えていった。
でも、私の中からは消えなかった。
玲奈が隣にいるから忘れられない、というわけではない。
たぶん逆だ。
玲奈が隣にいてくれたから、私はあの夜を抱えたままでも普通に生きてこられた。
「美香?」
「なに」
「また難しい顔してる」
「してない」
「してる」
「玲奈の顔よりは簡単」
「私の顔そんな複雑?」
「うん」
「初めて言われた」
そんな会話をしながら歩いていた時だった。
「あ」
玲奈が足を止めた。
「なに?」
「あの子」
玲奈が道路の向こうを見ている。
つられて視線を向けた。
見覚えがあった。
肩甲骨のあたりまで伸びた黒髪。前髪は眉の上で揃えられていて、どこか古風な印象を受ける顔立ちだった。
あのコンビニの店員だ。
今日は店の中ではない。
制服姿で、道路の反対側を歩いている。
同じ学園の1年生だった。
そして、その少女は。
私に気づいた。
正確には。
私たちに。
「……」
足が止まる。
向こうも止まった。
「やっぱり」
玲奈が呟いた。
「なにが?」
「あの子、この前も私のこと見てたよね」
「……気のせいじゃなかった?」
「美香も気づいてたじゃん」
「気づいてない」
「嘘」
「知らない」
信号が変わった。
黒髪の少女が横断歩道を渡ってくる。
こっちへ。
「え」
「来るね」
「なんで」
「知らない」
「玲奈、なんかした?」
「なんで私」
「じゃあ私?」
「それも知らない」
逃げる理由はない。
なのに、なぜか逃げたくなった。
二年間守ってきた秘密に、誰かが手を伸ばしてくるような気がしたからかもしれない。
少女は私たちの前まで来ると、立ち止まった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
反射的に返す。
「あの」
少女が私を見る。
「この前、コンビニに来てたよね」
「……はい」
「やっぱり」
少し安心したような顔をした。
「私、北浜星蘭」
「え?」
「名前。先に言った方がいいかなと思って」
「あ……永井美香です」
「永井さん」
北浜さんは私の名前を確かめるように繰り返した。
それから。
視線が動く。
私の隣へ。
玲奈がいる場所へ。
心臓が跳ねた。
「……なに?」
思わず聞いた。
北浜さんは答えない。
玲奈も黙って星蘭を見ていた。
「北浜さん?」
「ごめん」
北浜さんは私へ視線を戻した。
「ちょっと確認したいことがあって」
「確認?」
「うん」
嫌な予感がした。
「なにを?」
北浜さんはまた玲奈を見る。
今度ははっきりと。
玲奈の顔を。
目を。
そこに誰かがいると知っている人の見方だった。
「……あなた」
玲奈が呟いた。
北浜さんの目が、わずかに動いた。
玲奈の声に反応した。
間違いない。
私は息を呑んだ。
「見えるの?」
口から出ていた。
北浜さんが私を見る。
「うん」
あっさりした答えだった。
たった一言。
それだけなのに、頭の中が真っ白になった。
「……玲奈が?」
「玲奈っていうんだ」
北浜さんが、玲奈を見る。
「水城玲奈」
私が答えた。
なぜか玲奈自身に答えさせたくなかった。
「私の親友」
「そっか」
「二年前に……」
そこまで言って、言葉が止まった。
北浜さんは急かさなかった。
「死んだ」
ようやく言えた。
「二年前に死んだ。でも、ずっと私と一緒にいる」
「美香」
「いいよ」
玲奈を見る。
「この人、玲奈が見えてるんでしょ」
「……うん」
玲奈も少し戸惑っていた。
二年間。
本当に誰にも見えなかった。
私が話しかければ一人言になった。
玲奈が誰かへ手を振っても、誰も振り返さなかった。
そこにいるのに、世界にはいない。
それが当たり前だった。
なのに今。
玲奈を見ている人がいる。
「あなた……」
玲奈が星蘭へ少し近づいた。
「ほんとに私が見える?」
「見える」
「声も?」
「聞こえる」
「すご」
玲奈が私を見る。
「美香、仲間いた」
「仲間ってなに」
「私が見える仲間」
「勝手に仲間にしないで」
「いいじゃん」
いつもの調子で玲奈が笑う。
でも私は笑えなかった。
北浜さんが笑っていなかったからだ。
玲奈を見つめるその顔には、驚きとも恐怖とも違うものが浮かんでいた。
何かを考えている。
いや。
何かが分からなくて、考えている。
そんな顔だった。
「北浜さん?」
「……ごめん」
「玲奈が何か?」
「まだ分からない」
「何が?」
北浜さんは少し迷って、玲奈へ一歩近づいた。
じっと見る。
「あなた、本当に死んでる?」
「え?」
玲奈の笑顔が消えた。
「どういう意味?」
「そのまま」
「だって……」
玲奈が私を見る。
私も答えられない。
「玲奈は死んだ」
代わりに私が言った。
「二年前に」
「うん。永井さんが嘘を言ってるとは思ってないよ」
「じゃあ」
「でも」
北浜さんは玲奈を見たままだった。
「普通の死者と違う」
胸の奥が冷たくなった。
「……何が違うの?」
「うまく説明できない」
「さっきからそればっかり」
「分からないものは分からないから」
北浜さんは少し困ったように眉を寄せた。
そして私を見る。
「ただ、この子を見てると変な感じがする」
「変な感じ?」
「うん」
北浜さんの視線が、私と玲奈の間を行き来する。
「普通はね、死んだ人がそこにいるなら、その人がそこにいるって分かるの」
「玲奈も、ここにいるじゃん」
「いる。でも……」
言葉を探しているようだった。
「この子だけを見てる感じがしない」
「どういうこと?」
「永井さんも一緒に見えてくる」
「私?」
「うん」
北浜さんは首を傾げた。
「二人で一つみたいな……いや、違うかな」
「なにそれ」
玲奈が笑おうとした。
でも声が少し硬かった。
「私と美香、そんなに仲良しに見える?」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話?」
北浜さんはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「ごめん。今はこれ以上分からない」
「……」
「でも一つだけ」
北浜さんが私を見る。
「その子、普通の幽霊じゃないよ」
風が吹いた。
玲奈の黒髪が揺れる。
私には、それがいつもと何も変わらないように見えた。
「……だったら何なの?」
北浜さんは答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
玲奈を見る。
玲奈も私を見る。
いつもの顔。
何百回、何千回と見てきた顔。
病院で目を覚ましたあの日から、ずっと私の隣にいた玲奈。
その玲奈が。
初めて。
私にも分からないものに見えた。




