第9話 白い部屋の二人
最初に見えたのは、白だった。
天井。
壁。
カーテン。
知らない場所だった。
ぼんやりと眺めているうちに、ここがどこなのか考えようとして、それすら面倒になって目を閉じた。
身体が重い。
頭も痛い。
眠い。
でも、眠るのは少し怖かった。
どうして怖いのかは分からなかった。
何かを忘れている。
忘れているというより、思い出してはいけないものが頭の奥に引っかかっているような、そんな感じがした。
「……美香?」
声がした。
目を開ける。
母だった。
「美香……!」
椅子から立ち上がった母が、慌ててベッドのそばへ来た。
「分かる? お母さん分かる?」
「……うん」
声が掠れていた。
「ここ……」
「病院よ」
「病院……?」
「そう。もう大丈夫だから」
大丈夫。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
何が大丈夫なんだろう。
私はどうして病院にいるんだろう。
「私……」
何をしていた?
学校じゃない。
家でもない。
昨日。
昨日は。
夏祭り。
そうだ。
玲奈と夏祭りへ行った。
浴衣を着た玲奈。
たこ焼きを食べた。
花火を見た。
それから。
「……玲奈は?」
母の顔が止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、分かった。
「玲奈は?」
「美香」
「一緒だったよね」
母は答えなかった。
代わりに私の手を握った。
「今は休みなさい」
「玲奈は?」
「美香」
「どこ?」
声が少し大きくなる。
頭が痛んだ。
母が何か言っている。
でも聞こえなかった。
玲奈。
夏祭り。
神社。
石段。
そこまで思い出して、また何かが途切れた。
「……帰ったの?」
自分でも変な質問だと思った。
「玲奈、家に帰った?」
母は私を見ていた。
泣きそうな顔だった。
その顔が嫌だった。
「ねえ」
「美香……今は」
「電話して」
「え?」
「玲奈に電話して」
母が俯いた。
それ以上、何も聞きたくなくなった。
***
どれくらい眠ったのか分からない。
次に目を覚ました時、部屋の中は少し暗くなっていた。
窓の外が夕方になっている。
母はいなかった。
代わりに廊下から人の声が聞こえていた。
父の声。
母の声。
知らない男の人の声もする。
何を話しているのかまでは分からない。
ただ、ときどき自分の名前が聞こえた。
そして。
玲奈の名前も。
起き上がろうとすると、身体が痛んだ。
諦めて枕へ頭を戻す。
天井を見る。
何があった?
思い出さなきゃいけない。
でも。
思い出したくない。
その二つが頭の中でぶつかっていた。
玲奈と神社へ行った。
たくさん話した。
高校の話。
将来の話。
好きな人の話。
『美香が自分で気付くまで』
玲奈が笑っていた。
二人で石段を下りた。
手を繋いだ。
それから。
人がいた。
「……あ」
息が止まった。
男。
石段。
玲奈の声。
『美香!』
腕を引かれた。
足が滑った。
玲奈の手が離れた。
「やだ……」
思い出したくない。
でも、記憶は止まらなかった。
転がり落ちた。
動けなかった。
玲奈がいた。
男がいた。
何かが光った。
「やだ」
玲奈が私を見た。
「やめて……」
玲奈が。
私を庇って。
「玲奈……」
胸の奥で何かが弾けた。
音がしたわけじゃない。
光が見えたわけでもない。
ただ、自分の中にずっとあった何かが、突然形を持ったような感覚だった。
玲奈。
会いたい。
もう一度。
玲奈。
お願い。
いなくならないで。
一人にしないで。
ずっと一緒にいた。
学校でも。
帰り道でも。
夏休みでも。
くだらないことで笑った。
喧嘩もした。
雨の日に猫を拾った。
購買へ走った。
祭りへ行った。
花火を見た。
高校も一緒に行こうと言った。
大人になっても友達でいると。
予約までした。
なのに。
どうして。
どうして玲奈がいない。
そんなのおかしい。
玲奈はいる。
いるはずだ。
だって。
ずっと。
私の隣に。
「……玲奈……」
名前を呼んだところで、白い天井が歪んだ。
意識が遠ざかっていく。
誰かが病室へ入ってきたような気がした。
母の声がした。
看護師を呼ぶ声がした。
でも、もう何も分からなかった。
最後に頭の中に残っていたのは、ただ一つだった。
玲奈に会いたい。
***
「……美香」
声がする。
「美香」
知っている声だった。
「起きて」
うるさい。
「ねえ」
「……うるさい」
「起きた」
「起こしたんでしょ……」
「だって寝てるから」
「病院なんだから寝るでしょ」
「それもそうか」
目を開けた。
白い天井。
少し薄暗い病室。
窓の外には夜が来ていた。
そして。
ベッドの横に玲奈がいた。
「おはよ」
いつもの顔だった。
いつもの声だった。
あまりにも普通だったから、私も普通に返した。
「……おはよ」
「夜だけどね」
「じゃあ言わないで」
「細かい」
「玲奈が言ったんじゃん」
玲奈が笑った。
私も笑おうとした。
でも。
できなかった。
「……玲奈」
「ん?」
「玲奈」
「なに?」
「玲奈……」
何度も名前を呼んだ。
「いるよ」
玲奈は不思議そうに答えた。
それを聞いた瞬間、涙が出た。
「ちょ、美香?」
「玲奈……!」
「いるって。どうしたの?」
手を伸ばす。
玲奈も手を伸ばした。
触れた。
温かいのか冷たいのか、それさえ分からなかった。
でも、そこにいる。
玲奈がいる。
「よかった……」
「美香?」
「よかった……玲奈……」
「うん」
「生きてた……」
玲奈は何も言わなかった。
ただ、私の手を握っていた。
その時、病室の扉が開いた。
「美香?」
母だった。
私は慌てて顔を拭った。
「お母さん」
「起きてたの? 気分はどう?」
「大丈夫」
「先生呼んでくるから。待っててね」
「うん」
母は玲奈のすぐ横を通った。
何も言わなかった。
私は一瞬、意味が分からなかった。
「……お母さん」
「なに?」
呼び止める。
玲奈を見る。
玲奈も私を見ていた。
「……なんでもない」
母は少し心配そうな顔をしてから病室を出ていった。
扉が閉まる。
静かになる。
「玲奈」
「うん」
「お母さんに挨拶した?」
「してない」
「なんで?」
玲奈は答えなかった。
その顔を見た瞬間、嫌な予感がした。
少しして医師と看護師が来た。
母も戻ってきた。
いくつか質問された。
名前。
今日の日付。
痛いところ。
気持ち悪くないか。
私は答えた。
その間も玲奈はずっとそこにいた。
ベッドの横。
母のすぐそば。
看護師のすぐそば。
なのに。
誰も見ない。
誰も話しかけない。
誰も玲奈がそこにいることを気にしない。
診察が終わった。
医師たちが出ていく。
母も少しだけ席を外した。
また二人になった。
「……玲奈」
「なに?」
「みんな」
声が震えた。
「玲奈のこと、見えてないの?」
玲奈はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「みたいだね」
胸が苦しくなった。
「どうして」
「分かんない」
「だって玲奈、ここにいるじゃん」
「うん」
「喋ってるじゃん」
「うん」
「私、触れるよ」
「うん」
「じゃあなんで……」
そこまで言って、やめた。
聞いてはいけない。
そう思った。
玲奈が何なのか。
どうしてここにいるのか。
あの夜、何があったのか。
全部。
知らなくていい。
玲奈はいる。
それだけでいい。
「……美香?」
「玲奈」
「ん?」
「ずっといる?」
玲奈が目を丸くした。
「どこに?」
「私の隣」
少しだけ間があった。
玲奈は笑った。
「いるよ」
「ずっと?」
「うん」
「高校行っても?」
「行く」
「大人になっても?」
「予約したでしょ」
また涙が出た。
「……そうだった」
「忘れないでよ」
「忘れてない」
「ならいい」
玲奈が笑う。
いつもの玲奈だった。
だから私は決めた。
玲奈がここにいることは、誰にも言わない。
私にだけ玲奈が見えることも。
玲奈と話せることも。
誰かに話せば、玲奈を連れていかれるような気がした。そんなことが本当に起こるのかなんて分からない。それでも、もう一度玲奈を失うかもしれないという可能性だけで十分だった。
だから隠す。
玲奈は死んだ。
みんなにとっては、それでいい。
でも私にとっては違う。
白い病室。
白いベッド。
白いカーテン。
その中に、私たちは二人でいた。
あの日から。
玲奈はずっと、私の隣にいる。




