第8話 二人で帰るはずだったのに
男は動かなかった。
私たちが一段下りても、二段下りても、石段の途中に立ったまま、こちらを見上げている。
顔は暗くてよく見えない。
それなのに、見られていることだけは分かった。
隣を歩く玲奈の手に、少し力が入った。
「……美香」
「うん」
「戻る?」
小さな声だった。
私も一瞬迷った。
神社へ戻れば、まだ誰かいるかもしれない。社務所に人が残っているかもしれないし、祭り帰りの参拝客が来るかもしれない。
でも、男は何もしていない。
ただ立っているだけだった。
知らない人とすれ違うだけで引き返すなんて、考えすぎなんじゃないか。さっき玲奈が話していた「見られている気がする」という話に、私まで引っ張られているだけなんじゃないか。
そう思った。
「大丈夫じゃない?」
「……うん」
玲奈も同じことを考えたのかもしれない。
私たちは、そのまま下りた。
一段。
また一段。
男との距離が近くなる。
十段くらい。
もっと近く。
すれ違えば終わる。
それだけ。
私は玲奈の手を握ったまま、なるべく男を見ないようにした。
その時だった。
「君たち」
声をかけられた。
二人とも足を止めた。
「……はい?」
玲奈が答えた。
男が一段、上がってきた。
「祭りの帰り?」
「そうですけど」
もう一段。
理由は分からない。
ただ、嫌だった。
声なのか。
歩き方なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
頭ではまだ何も起きていないと分かっているのに、身体だけが先に危険だと言っていた。
私は玲奈の手を引いた。
「行こう」
「うん」
男の横を通らないと、下へは行けない。
だったら神社へ戻る。
そう思って振り返った。
直後だった。
「美香!」
玲奈の声がした。
強く腕を引かれた。
何が起きたのか分からなかった。
玲奈の身体がぶつかってきて、私はよろめいた。足が石段の縁を踏み外し、掴んでいたはずの玲奈の手が離れる。
「玲奈……!」
視界が傾いた。
空。
木。
石段。
また空。
身体が何度か硬い場所にぶつかって、息ができなくなる。
止まった時、自分がどちらを向いているのかさえ分からなかった。
音が遠い。
頭の中で何かが鳴っている。
起きなきゃ。
そう思うのに、身体が動かなかった。
「……れい、な……」
声になったのかも分からない。
霞んだ視界の向こうに、誰かがいた。
玲奈だった。
少し上の石段に立っている。
その向こうに男がいる。
何かがおかしい。
逃げて。
玲奈。
逃げて。
そう言いたいのに声が出ない。
玲奈が私を見た。
目が合った。
ほんの一瞬だった。
その時の玲奈がどんな顔をしていたのか、今でもうまく思い出せない。
怖がっていたようにも見えた。
泣きそうだったようにも見えた。
それでも。
私を見ていた。
最後まで。
男の手元で、何かが光った。
「……玲奈」
玲奈の身体が揺れた。
私は手を伸ばした。
届くはずがなかった。
遠すぎた。
立ち上がることもできなかった。
助けることもできなかった。
玲奈が倒れる。
男がそのそばにいる。
やめて。
やめて。
やめて。
頭の中では何度も叫んでいるのに、身体は何一つ言うことを聞いてくれない。
やがて視界の端から、少しずつ暗くなっていった。
玲奈が見えなくなる。
嫌だ。
それだけは嫌だった。
目を閉じたら、本当に玲奈がいなくなってしまう気がした。
「れい……な……」
もう一度、名前を呼んだ。
返事は聞こえなかった。
ただ最後に。
暗くなっていく世界の中で、私には確かに見えた。
玲奈が、私と男の間に立っていた。
まるで。
私を庇うみたいに。
そこで、私の記憶は途切れている。




