第4話 水の記憶
池のほとりには、夏の湿った空気が満ちていた。白い花が、水面の周りに静かに咲いている。甘い香りが漂っていた。
星蘭たちは、池のそばに立っていた。
星蘭。朱音。そして――鈴木真白。三人。いや。四人だった。
星蘭はふと足を止めた。
「……」
胸の奥に、奇妙な違和感がある。人数。今、何人いた?
星蘭は振り返る。朱音がいる。真白がいる。そして、もう一人。
その瞬間。星蘭の視界が、揺れた。
水の匂い。泥の匂い。そして。この花の香り。
記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
昔。まだ中等部に入った最初の夏の夜。
星蘭は、ここに来た。誰かと一緒に。
懐中電灯。暗い山道。笑い声。
そして。池。
水面には。灯りが浮かんでいた。灯篭。ゆらゆらと。水面を漂っていた。
星蘭は、その光景を思い出す。あの夜。みんなで来た。三人で。いや。四人?
「……あれ」
星蘭は呟く。
誰がいた?
思い出せない。ただ。覚えていることが一つある。
水面が。突然、揺れた。
そして。白い手が。水の中から。伸びた。
誰かの足首を。掴んだ。
悲鳴。水音。冷たい水。
誰かが。落ちた。
星蘭は息を呑む。
誰が落ちた?
思い出そうとする。だが。思い出せない。
そのときだった。
「星蘭?」
朱音の声。
星蘭は顔を上げる。朱音が、こちらを見ている。
「どうしたの?」
「……いえ」
星蘭はゆっくり首を振る。
「ちょっと……昔のことを思い出した気がして」
真白が静かに言った。
「昔?」
星蘭は池を見る。
「ここに、来たことがある気がするんです」
風が止まっていた。水面は黒く静まり返っている。白い花が揺れていた。その香りが。さっきよりも。濃くなっていた。
真白が、水面を見つめながら言った。
「……思い出さない方がいいかもしれません」
静かな声だった。
星蘭が振り向く。
「どうしてですか?」
真白は微笑む。
「だって」
その笑顔は。どこか。寂しそうだった。
「思い出したら」
「帰れなくなるかもしれないから」
その瞬間。
水面が、ゆらりと揺れた。
風は吹いていない。それなのに、黒い池の水が静かに波紋を広げていく。
白い花の香りが濃くなる。甘い匂い。どこか、むせるような匂いだった。
星蘭の胸の奥が、冷たく震えた。
――いる。何かがいる。
封縁乙女としての感覚が、はっきりと反応していた。
「……朱音」
「なに?」
「この池、よくないです」
星蘭は水面を見つめたまま言った。
「何か……封じられてる」
朱音が息を呑む。
真白は何も言わない。ただ、池を見つめていた。
星蘭はゆっくりと手を前に出す。指先が冷える。見えない糸のようなものが、水面に絡みついているのが分かる。
古い封。誰かが昔、ここに何かを縛りつけた。
「封じます」
星蘭は小さく呟いた。封縁乙女の言葉。静かな祈りのような声。
「《風縁・魔送ノ薫風》――」
だが。その瞬間。水面が大きく揺れた。
星蘭の力が、池の中へと引き込まれる。
「……え」
こんなのは初めてだった。封じるどころか。力が吸い込まれていく。
池の奥から、何かが応えている。
そのときだった。
真白が、ぽつりと言った。
「やっぱり」
星蘭が振り向く。
真白は静かに笑っていた。
「思い出しました?」
「……何を」
真白は池を見たまま答える。
「昔の夏」
白い花が揺れる。
「ここに来ましたよね」
星蘭の頭の奥で、記憶がはじけた。
暗い山道。懐中電灯。笑い声。そして。池。水面に浮かぶ灯篭。
そのとき。水が揺れた。白い手が伸びた。誰かの足首を――掴んだ。
「……誰かが落ちた」
星蘭は呟く。
真白が、ゆっくり頷く。
「そう」
「落ちたんです」
「一人」
星蘭は必死に思い出そうとする。誰だった。あのとき。落ちたのは――
「……真白」
その名前が、口からこぼれた。
だが。真白は首を横に振る。
「違います」
静かな声だった。
「落ちたのは」
真白が、星蘭を見る。
「あなたたちの友達です」
星蘭の背筋が凍った。
「……え」
「私は」
真白は微笑む。
「そのあと、ここに来たんです」
その瞬間。水面が裂けた。
白い手。何本も。何本も。池の中から伸びてくる。
冷たい手が、星蘭の足首を掴んだ。
「っ!」
氷のような冷たさ。引きずり込まれる。
「星蘭!」
朱音が腕を掴む。
だが。水の中から、さらに手が伸びる。白い手。沈んだ人たちの手。
星蘭はその瞬間、理解した。
この池は。封じられていたんじゃない。足りないものを。待っていたんだ。
「一人、足りなかった」
真白の声が、静かに響く。
白い花が揺れる。
「だから」
「ずっと待ってたんです」
水が大きく跳ねた。朱音の悲鳴が夜に響く。
星蘭の視界が回転する。冷たい水。白い花。甘い香り。暗い池。
そして。誰かの手が。誰かを掴んだ。
次の瞬間。すべてが闇に沈んだ。




