侍女は見た!
その日は午後から小雨がぱらついていて、人通りも普段よりわずかに少なかった。通りの石畳はしっとりと濡れ、店先のひさしから細い雫が落ちる。マルタは籠を腕にかけ、あくまで買い物帰りの女として歩いていた。
ちょうど通りの向こうに、見覚えのある外套が見えた。
仕立てのよい濃紺の外套。姿勢のいい立ち姿。歩幅の取り方。顔が見えなくとも、すぐに分かる。
エドガー・バルティエだった。
反射的に足を止めそうになったのを堪え、マルタは視線を逸らしながら通りの端へ寄った。立ち止まって見れば、それだけで不自然になる。だから、店先のリボンを眺めるふりをしながら、ガラス越しに向こう側を窺った。
エドガーは一人ではなかった。
少し遅れて、菓子店のひさしの下から若い娘が姿を現す。淡い灰青色の外套に、白糸で細い花模様の刺繍。よく目に留まる慎ましい装いだった。
ミレイユ・フォルナック。
夜会で一度見たきりだったが、マルタには分かった。顔立ちそのものよりも、立ち方と身のこなしが記憶に残っていたのだ。
エドガーは自然な動きでその娘の手元へ視線を落とし、次いで馬車の方へ軽く手を差し出した。
あまりにも慣れた仕草だった。
初めての密会におけるぎこちなさはない。そこにあったのは、すでに何度も繰り返されてきたやり取りのそれだったのだ。
そして、そのときだった。
通りの端、石壁の脇に、地面へ腰を下ろした男の姿が目に入ったのは。
薄汚れた外套を羽織り、膝の上へ板を置き、その上に紙を広げている。手には短い鉛筆。足元には紙束と小さな木箱。通りの似顔絵描きか、あるいは記事屋の下請けでもしていそうな風体だった。
しかも男は、ちらちらと顔を上げては、今まさに馬車のそばに立つ男女へ目を戻している。
何かを描いている。
そう気づいた瞬間、マルタはほとんど反射的に動いていた。
もちろん、二人へ近づくわけにはいかない。だが、あの男なら使えるかもしれない。見たままを紙に残しているのだとしたら、それは証言以上の材料になる。
マルタは店先の影を伝うようにして位置を変え、男に近づいた。
目の前まで来ると、マルタは籠を抱え直し、通りすがりの女が何気なく声をかけるふうを装った。
「何を描いているの」
男は一瞬だけ顔を上げた。
「あれですよ」
鉛筆の先で、ほんのわずかに前方を示す。
「いい絵になるもので」
マルタは男の紙へ視線を落とした。
そこには、すでに男と女の輪郭が走り始めていた。細身の外套を纏った青年。その少し後ろに立つ若い娘。差し出された手。馬車の扉。最低限の線しかないのに、場の空気を妙にはっきりと捉えられている。
「知り合いですか」
男が何でもないふうに尋ねる。
マルタはすぐには答えなかった。
「……少し、見覚えがあるだけです」
そう返すと、男は鼻で笑うでもなく、ただ「ふうん」とだけ言った。
「身分の高い人たちってのは、こういうのが絵になるんです。身なりがいいし、隠してるつもりの感じもある。通りの景色まで込みで、それらしく見える」
「それで描いていたの」
「ええ。記事屋に持っていけば、使い道くらいあるかもしれないでしょう」
その言い方で、マルタは確信した。
この男は噂話を売り物にする類の人間だ。だが同時に、紙へ写し取る腕は確かだ。しかも今この場を見ている。あとから証言を寄せ集めるより、よほど早くて正確かもしれない。
男は再び顔を上げ、馬車の方を見た。
ちょうどエドガーが娘へ何かを囁き、その娘が顔を伏せて小さく笑うところだった。男の鉛筆がその動きを追うように走る。
「ほら、ああいうのですよ」
男は少し楽しげに言った。
「身分のある若いのが、人目を気にしてるくせに気にしきれてない感じ。いかにも何かありそうでしょう」
マルタは胸の内に生じた不快を押し込めた。
この男にとっては面白い題材でしかないのだろう。だが今は、それでいい。感情ではなく、利用価値で考えるべき場面だった。
「その紙、あとで見せてもらえるかしら」
男の手が、一瞬だけ止まった。
「ただでってわけにはいきませんよ」
「もちろん、1枚につき、記事屋の相場の倍は出しましょう。
男はようやくまともにマルタを見た。控えめな身なりではあるが、物腰までは隠せない。街の女にしては言葉が整いすぎていると、たぶん気づいただろう。
だが、男はそこを深く追及しなかった。
金になると見たのか、それとも面倒を避けたのか。
「……いいでしょう」
そう言って、また紙へ目を戻す。
「ただし、あんたも今は近づかない方がいい。向こうに気づかれたら台無しだ」
「分かっているわ」
マルタは通りの反対側へ視線をやった。
エドガーはすでにミレイユを馬車へ乗せるところだった。
そして地面に座った絵描きの男は、その一瞬一瞬を、淡々と紙へ落とし込んでいく。
思いがけない幸運だった。
いや、幸運と呼ぶべきかどうか、マルタには分からなかった。ただ、少なくともこれで、自分ひとりの目撃で終わらずに済む。
男と女が馬車へ収まり、やがて車輪が石畳を軋ませながら通りの先へ消えていくまで、マルタは何事もない顔でその場に留まり続けた。
絵描きの男は、最後に馬車の後ろ姿を二、三本の線で付け足してから、ようやく手を止めた。
男は紙を持ち上げ、少し離して眺めた。自分の仕事ぶりを確かめるような仕草だった。満足したのか、鼻先で小さく息を鳴らすと、ようやくマルタへ向き直る。
「悪くないでしょう」
男が言う。
「顔を細かく描き込まなくても、立ち方と手つきでだいたい分かるものです」
「ええ。よく捉えているわ」
素直にそう答えると、男は少しだけ口元を歪めた。褒められること自体には慣れていないのかもしれない。
「今の場面だけでなく、過去に似た二人を見かけたことは?」
「ありますよ」
予想以上にあっさり返ってきた答えに、マルタは内心で息を詰めた。
「北通りで二、三度。あとは湖畔の方でも一回。いかにもそれらしい二人だったんで、何となく覚えてる」
「それを描ける?」
「見た通りってほど正確じゃありませんよ。
「雰囲気で十分よ。場所と立ち位置が分かればいい」
男は膝の上の板を指先で叩いた。
「じゃあ、証言絵みたいなもんだ」
「そう思ってもらって構わないわ」
マルタは籠を持ち直しながら言った。
「ただし、今見たものと、思い出して描くものはきちんと別々に書いて頂戴。混ざると困るの」
「へえ」
男はそこで初めて、少し感心したような顔をした。
「あんた、分かってるんだな」
「分かっていなければ、こんな頼み方はしないわ」
その応酬のあと、男は小さく笑った。
「いいでしょう。今のを清書して一枚、引きの構図で一枚、思い出しで二枚。そんなところでどうです」
「四枚ね。出来るだけ早くしてもらえるかしら?」
「急ぎなら、今夜のうちに下書きはできます」
想像以上に仕事が早い。記事屋の下請けと言っていたのは伊達ではないのだろう。目立つ出来事を見つけたら、その日のうちに描きあげる。。そういう世界にいる人間の手際だった。
「受け渡しは?」
「表通りじゃ目立つな」
男は少し考え、通りの角を顎で示した。
「二本先の路地に、小さな酒場があります。昼は閉まってるが、裏の軒先なら人も少ない。夕方にどうです」
「分かったわ」
そこで話はいったん終わった。長引かせれば不自然になる。マルタはそれ以上深入りせず、通りすがりの買い物客のような顔に戻して一歩下がった。
「夕方に」
「ええ、夕方に」
短く確認し合ってから、マルタは踵を返す。
通りの向こうでは、すでに馬車の姿は消えていた。エドガーもミレイユも、何事もなかったようにこの場を去ったのだろう。
マルタはそのまま北通りを離れた。
◇
その日の夕方、約束した路地裏で受け取った四枚の紙を見たとき、マルタは自分の判断が間違っていなかったと知った。
今見たばかりの場面を写した二枚はもちろん、思い出しで描かせた北通りと湖畔の構図も、十分に使える出来だった。
これをセシリア様に見せよう。
そう思った瞬間、マルタはすぐにその浅はかな考えをやめた。
まだ早い。絵はたしかに使える。思っていた以上に、よく出来ていた。知る者が見れば誰のことか分かるし、知らぬ者が見ても、ただならぬ関係であることだけは伝わるだろう。
だが、それでもなお、これは絵にすぎない。
目撃をもとにした図としては十分でも、これだけをセシリアへ差し出せば、かえってお嬢様に判断を委ねすぎることになる。疑いを決定的なものとして突きつけるには、まだ一段足りなかった。
必要なのは、この証拠を支える証言だ。
場所、時刻、目撃者。
そして、同じ話が別の口からも出てくるという事実。
そこまで揃って初めて、記録として差し出せる。
マルタは紙束を揃え、濡れないよう布へ包み直した。
屋敷へ戻る道すがら、彼女の頭の中にはすでに次の手順が並んでいた。
まず、北通りの古物商の妻に話を聞く。
次に、帽子店の娘に外套の刺繍を確認する。
できれば、あの時間帯に客待ちをしていた辻馬車の御者も当たりたい。
ひとつひとつは小さい。だが、小さいものも積み上げれば確証に至るのだ。




