隠しているつもりの男
エドガーが帰ったあとも、部屋の中には紅茶の香りがかすかに残っていた。
それが妙に癪に障って、セシリアは窓際まで歩いてからようやく息を吐いた。ほんの少し前まで、この部屋で、あの男は何事もない顔をして笑っていたのだ。
侯爵家の令嬢として長く社交の場に立ってきたセシリアには、人の視線の意味くらい分かる。
相手を見る目つきというものは、案外ごまかせないものだ。
先月の夜会でエドガーが向けていたあの視線は、婚約者へ向けるものではなかった。
もっと気安く、もっと遠慮がなく、そして何より――自分の立場を忘れたそれだった。
あのとき彼の視線の先にいた娘の名を、セシリアはもう知っている。
ミレイユ・フォルナック。
フォルナック男爵家の娘で、ここ最近になって社交界へ姿を見せるようになった令嬢だ。華やかに人目を引く美貌というほどではない。けれど、ふとした拍子に印象へ残る顔立ちをしていた。伏せがちな睫毛、唇、誰かの後ろにそっと身を置くような立ち居振る舞い。自己主張はないはずなのに、かえってその慎ましさが目を引く。
守ってやりたくなるような娘――とでも言えばいいのだろうか。
なるほど、と思った。
確かにあの男が好みそうな娘だった。
自分が優位に立てる相手。頼られ、導いてやれるつもりになれる相手。少し優しくしてやれば、すぐに感謝の眼差しを向けてくれるような相手。
少なくとも自分自身には無いものを全て兼ね備えていた。
エドガーは昔から、相手に何かを与える側に立ちたがる男だった。助言をし、手を貸し、導いてやる。そうして感謝されることで、自分が優れた人間であると確かめたがる。
もちろん、それ自体は悪いことではない。誰かに親切にすることは、美徳と呼ばれるべきものだろう。だが彼の場合、その親切はいつもどこか薄っぺらい。相手のためというより、自分がそう振る舞っている姿に満足しているようなところがあった。
そして、セシリアはその手の“優しさ”を、最初からさほど必要としていなかった。
困れば自分で考える。分からなければ学ぶ。そうやって生きてきた。侯爵家の娘として育てられる中で、そうあることを求められてきたし、セシリア自身もそれを当然のこととして受け入れてきた。
だからエドガーの差し出す親切は、時にありがたくはあっても、絶対に必要なものではなかった。
彼はそこが不満だったのかもしれない。
自分が手を差し伸べれば、もっと分かりやすく縋ってくる女の方が愛らしい。自分を頼りにし、自分の言葉一つで表情を明るくするような娘の方が、男としての矜持を満たしやすい。
そう考えれば、ミレイユはあまりにも分かりやすかった。
控えめで、か弱げで、少しばかり危なっかしい。守ってやりたくなるように見えて、相手に“自分が必要とされている”と思わせる術を、無意識か意識的かはともかく、よく知っている娘だった。
もっとも、それはミレイユが悪辣だという意味ではない。
あの娘がどこまで分かっていて振る舞っているのか、セシリアにはまだ判断がつかなかった。ただ、少なくともエドガーのような男が惹かれる要素を持っていることだけは確かだった。
◇
自室へ戻ると、侍女のマルタが待っていた。
年齢はセシリアよりいくつか上で、幼い頃から侯爵家に仕えている。侍女としての能力はもちろん、人としても非の打ち所がない人だった。
セシリアが今の状況で最も頼りにしているのは、実のところ父でも母でもなく、このマルタかもしれない。
「お嬢様、例の件ですが」
そう言ってマルタが差し出したのは、書きつけられた報告書だけではなかった。
その下からさらに、数枚の紙が音もなく重ねて置かれる。どれも小ぶりで、急いで束ねられたらしい簡素なものだったが、そこに走る線は驚くほど生き生きとしていた。
セシリアは一枚を手に取り、目を細める。
「これは……絵?」
「ええ。簡易なものですが、目撃した者の証言をもとに描かせたものです」
紙面には、見覚えのある横顔があった。
細身の外套を羽織った男が、馬車の脇で女に手を差し伸べている。顔立ちそのものは細密ではない。だが、誰を描いたものかは一目で分かった。
エドガーだ。
しかも、向かい合う娘の仕草まで妙にそれらしい。少し首を傾げ、相手を見上げるように立つ姿は、たしかにミレイユを思わせた。
「よく似ていますわね」
「特徴だけを拾わせたそうです。細部を描き込まずとも、癖や姿勢で意外と分かるものだとか」
セシリアはもう一枚を手に取った。今度は北通りの菓子店らしき建物の脇から、二人が連れ立って出てくる場面だった。店の看板、ひさしの形、石畳の曲がり具合まで。
「誰に描かせたの」
「市井で流しの絵描きをしている男です。もともとは記事屋の下請けをすることが多いそうで」
「記事屋……?」
「ええ。最近よくございますでしょう。芝居小屋の評判ですとか、市場の騒ぎですとか、妙な色恋沙汰ですとか。ああいった噂話を載せる木版刷りの小冊子に、添え物として簡単な挿絵をつける者です」




