トトの缶詰が空く日
ハッカ蒸しの原を、かつてない不穏な静寂が包み込みました。
いつもは地表から規則正しく聞こえてくる蒸気の噴き出す音も、どこか怯えるように息を潜め、空を流れる魚の骨の雲もその動きをぴたりと止めています。
ただならぬ異変に気づいたモンジロウが風車小屋の窓を勢いよく開けると、北の方角にある「忘れ物預かり所」のあたりから、不気味なほどに白い銀色の光の柱が天に向かって噴き出しているのが見えました。
それはまるで、地面に突き刺さった光の槍が、夜空を無理やり抉り取ろうとしているかのような光景でした。
「……ちっ、嫌な予感がしやがる。ネル、ぐずぐずするな。行くぞ。トトのジジイが、とんでもねえもんをこぼしやがった」
モンジロウはいつになく険しい表情で、調律鞄をひっつかんで走り出しました。
二匹が息を切らして預かり所に駆けつけると、そこは文字通り、混乱の極みにありました。
洞窟の壁沿いに整然と山積みにされていたはずの「銀色の缶詰」が、たった一つの例外もなく、すべてその重厚な蓋が開いて転がっていたのです。
主である老猫トトは、空になった無数の缶詰に囲まれて呆然と立ち尽くし、その足元からは、本来なら目に見えないはずの「記憶」が、堤防を決壊させた濁流のような勢いで森へと溢れ出していました。
缶詰の中に厳重に封じ込められていたのは、この森の住人たちが、今日を生きるためにやむなく手放した大切な記憶の数々でした。
幼い頃に経験した取り返しのつかない失敗、泥にまみれて失くしてしまった宝物の温かな感触、今はもう遠い空へ旅立ってしまった親愛なる友人の声、そして、あまりに鋭すぎて二度と思い出したくない深い悲しみ。
それらが物理的な形を伴って、半透明の冷たい霧のように森のあちこちに絡みつき、現実の景色を浸食し始めていました。
「モンジロウさん、あれを見てください!」
ネルが恐怖で震える指先で指差す先では、パン屋のジンが、自分が今までどうやってパンを焼いていたのか、その魔法のような指先の感覚を忘れてしまったと泣き崩れていました。
広場で影絵芝居をしていた猫たちは、自分たちが誰の影を演じていたのか分からなくなり、実体のない真っ黒な塊となって、悲鳴を上げながら彷徨っています。
数千、数万もの記憶が持ち主の元へ一斉に帰ろうとした結果、森の「今」と「過去」が激しく衝突し、世界の気配が目に見えるほど歪み始めていたのです。
「ネル、調律棒を構えろ! 溢れ出した記憶を力ずくで缶詰に押し戻そうとするな。そんなことをすれば、記憶そのものが壊れちまう。バラバラになった音を拾い上げて、一つの大きな旋律にまとめ上げるんだ。トト、突っ立ってんじゃねえ! 空の缶詰を全部集めろ! 記憶は一度出ちまえば消えはしねえが、せめて形を整えて収めてやらねえと、この森の猫たちは自分というものを見失っちまうぞ」
モンジロウはそう叫ぶと、風車小屋の巨大な羽を逆回転させるレバーを引き、記憶の霧を広場の中央へと吸い寄せました。
ネルは震える手で首元の真鍮の鈴を鳴らし、溢れ出した無数の、数えきれないほどの声、叫び、むせび泣く笑い声に耳を澄ませました。
それはあまりにも膨大な情報の嵐で、気を抜けば自分自身の意識まで飲み込まれそうになりましたが、ネルは先日耳にした「氷のヴァイオリン」のあの純粋な音色を必死に思い出しました。
その一点の曇りもない響きを道標にして、荒れ狂う記憶の濁流の中に、わずかな調和の糸口である「和音」を見つけ出そうと試みたのです。
ネルが奏でる一定のリズムに合わせて、モンジロウが調律鞄から取り出した巨大な槌で記憶の霧を力強く叩き、荒々しい波を整えていきます。
やがて、激しく荒れ狂っていた記憶たちは、ネルの鈴の音に導かれるようにして穏やかな光の粒子へと変わり、それぞれの持ち主の元へゆっくりと、けれど確実な足取りで吸い込まれていきました。
猫たちの虚ろだった瞳に、再び知性と尊厳の光が戻り、彼らは自分が誰であり、何を大切に守ってきたのかを、少しだけ痛みを伴いながらも思い出したのです。
すべての缶詰が再び硬い音を立てて閉じられたとき、森には深い溜息のような、静かな安らぎが広がりました。
トトは震える手で眼鏡を拭い、静かにネルとモンジロウに頭を下げました。
しかし、大仕事を終えたモンジロウの表情は、依然として晴れないままでした。
「記憶ってのは、他人に預けておけるもんじゃねえな。どんなに辛くても、いつかは自分の肩で背負わなきゃならねえ時が来る。それが生きるってことの重みなんだよ」
ネルは、自分の首元にある鈴をそっと、壊れないように握りしめました。
そこには、今の騒動で一瞬だけ触れてしまった、名もなき猫たちの切ない記憶の一部が、消えない微かな余韻として指先に残っているような気がしました。
ハッカ蒸しの原の夜は、これまでのどんな夜よりも少しだけ重く、けれど逃げ出したくなるような空虚さではなく、確かな生の実感を伴ってしんしんと更けていくのでした。
空の魚の骨の雲が、再びゆっくりと、新しい記憶を紡ぐように流れ始めました。




