氷のヴァイオリン
ハッカ蒸しの原に、深く、そして刃物のように鋭い冬が音もなく訪れました。
地表の割れ目から絶えず立ち上っていた温かな蒸気も、この季節ばかりは冷酷な大気に触れた瞬間に細かな氷の結晶へと姿を変え、森全体が白い粉をまぶした繊細な砂糖菓子のようになります。
空を悠々と流れていた魚の骨の雲は、凍てつく空気に身を縮めるようにして細く鋭利な形に固まり、猫たちは厚手の毛織物を幾重にも纏って、風車小屋の暖炉が放つ橙色の光の周りに身を寄せ合っていました。
そんなある極寒の夜、モンジロウの元へ、一通の凍りついた招待状が届けられました。
封蝋の代わりに小さな雪の結晶が象られたその手紙の差出人は、森の最北端、光さえも凍りついて動かなくなると言われる「銀盤の入り江」に住む、孤独な弦楽器職人の老猫でした。
彼が一生に一度、最高の冬の夜にしか作り上げることができないという伝説の「氷のヴァイオリン」が、ついに完成の時を迎えたのだといいます。
「おい、ネル。いつまでも暖炉の前で鼻水を垂らしてる暇はねえぞ」
モンジロウはぶっきらぼうに言いながら、使い込まれた大きな調律鞄を肩にかけ、ネルに古い羊毛のマフラーを放り投げました。
「今日は、形のない音を閉じ込めた『宝石』の調律だ。命が惜しければしっかり厚着してついてきな」
二匹が固く凍りついた雪を踏みしめ、吐く息を真っ白な道標のように残しながら入り江に到着すると、そこには月光を反射して青白く光り輝く、一挺の透明なヴァイオリンが静かに置かれていました。
それは、入り江の最深部でひっそりと採れる純粋な水と、冬の最初の新月の夜に降りる極限の冷気だけを素材にして作られた、この世で最も脆く、そして最も美しい楽器でした。
職人の老猫は、震える吐息を白くしながら、慈しむような眼差しで楽器を見つめて語りました。
「この楽器は、一度でも演奏を始めれば、奏者のわずかな体温と弦がこすれ合う摩擦の熱によって、たちまち溶けて形を失ってしまう。最初で最後となるその旋律を、この森の永遠の記憶として、正しく空に響かせてほしいのだ」
モンジロウは深く頷くと、ネルに調律の補助として傍らに立つよう命じました。
氷の弦が極限まで張り詰められ、今にも弾け飛びそうな「キリキリ」という凄まじい緊張感を、ネルは真鍮の調律棒を添えて慎重に受け止めます。
少しでも力を込めすぎれば氷のボディは無残に砕け、逆に加減が弱ければ、音は濁った霧のように沈んでしまうのです。
ネルは凍える指先を、自分の心臓の一定な鼓動に合わせるようにして、氷の楽器が心の底から求めている「一番正しい震え」のポイントを、必死に探し当てていきました。
やがて、老職人の節くれ立った手がゆっくりと弓を引き、最初の一音が夜の凍てついた静寂へと解き放たれました。
その音色は、これまでネルが修行の中で聴いてきたどんな音よりも鋭く、それでいて不思議なほどに胸を突く温かさを秘めていたのでした。
春のハッカが土を割って芽吹く時の息吹、夏の夜を切り裂く嵐の予感、秋の陽だまりでまどろむ琥珀色の午睡……
森が巡らせてきた一年という長い時間が、氷が溶け出す瞬間の微かな囁きと共に、空気の中に目に見えるほど鮮やかな結晶となって舞い上がります。
演奏が佳境を迎え、最後の一音が長く尾を引いて消える頃、ヴァイオリンは職人の手の中でゆっくりと、しかし確実にその形を失っていきました。
透明なボディは美しい雫へと変わり、一筋の清らかな水となって地面の凍土に吸い込まれていきました。
後には、誰の手にも触れることのできない、ネルの耳の奥深くに強く刻みつけられた、あまりにも純粋な余韻だけが残されたのでした。
「形があるものは、どんなに大切にしてもいつかは壊れ、消えていくもんだ。だがな、ネル。一度でも完璧に、正しく響いた音は、この森の気配の中にずっと残り続ける」
モンジロウは空を見上げ、煙の出ないパイプをくわえて静かに続けました。
「目に見えなくなったからって、消えたわけじゃねえ。それが俺たち調律師という仕事が、この世界に存在する意味なんだよ」
モンジロウの言葉を受け、ネルは静かに、そして深く頷きました。
この世界にある美しいものは、いつか消えてしまうからこそ、誰かの心の中で永遠に正しく調律され続けなければならないのです。
冬の星々が降るような夜空の下、ネルはたった今消えてしまった氷の楽器の響きをいつまでも胸の中で反芻しながら、雪道を一歩ずつ踏みしめていく、頼もしい師匠の背中を懸命に追って帰路につきました。
足元で鳴る雪の音さえも、今夜はいつもより少しだけ、澄んだ音楽のように聞こえるのでした。




