逆さまの虹の麓
ハッカ蒸しの原に、稀に見るほどの穏やかな昼下がりが訪れました。
あまりにも空気が澄み渡り、あまりにも猫たちの心が満たされていたため、空に不思議な現象が起こりました。
雲一つない桃色の空に、普通とは反対に上を向いて弧を描く「逆さまの虹」が現れたのです。
それは、この森の住人たちが心から純粋な幸せを感じた時にだけ、その喜びが天へ溢れ出して架かる、束の間の祝福の橋でした。
「おい、ネル。ぼさっと見上げてる暇はないぞ」
モンジロウは珍しく足早に風車小屋を飛び出し、足元の草を蹴散らしながら言いました。
「逆さまの虹が出るってことは、どこかで『幸せの飽和』が起きてる証拠だ。手遅れになる前に、虹の麓を探しに行くぞ」
逆さまの虹は神々しいほどに美しいものですが、その麓ではあまりの幸福感に時間の感覚が溶け、猫たちが現実の生活に戻れなくなってしまうことがあるのです。
二匹は虹の鋭い端が地面に吸い込まれている、森の最奥にある「陽だまりの窪地」へと急ぎました。
辿り着いたそこでは、数匹の猫たちが夢遊病者のようなうつろな足取りで、空中に浮かぶ虹の欠片を捕まえようと追いかけていました。
彼らの表情には、この世のものとは思えないほど恍惚とした笑みが浮かんでいます。
窪地の中はハッカの香りが甘い蜜のように濃縮され、一歩足を踏み入れるだけで、あらゆる悩みや日々の責任がどうでもよくなってしまうような、恐ろしいほどの多幸感に満ちていました。
あまりにも甘い空気が、肺の奥までとろけさせていくような感覚です。
「ネル、気をしっかり持て! 首元の鈴を握りしめて、自分の『苦労した記憶』を必死に思い出せ。ここにある幸せは、根っこがない浮き草のようなもんだ。うっかり触れれば、自分が誰だか分からなくなるぞ」
モンジロウの切実な警告も、今のネルには遠い場所での囁きのようにしか聞こえませんでした。
目の前の虹の麓からは、温かな黄金色の光が溢れ出し、まるで「ここにおいで、もう頑張らなくていいんだよ」と耳元で優しく誘っているようです。
ネルの足がふらりと虹の渦の中へ吸い込まれそうになったその時、モンジロウが首元の巨大な真鍮の鈴を、耳の奥が痛くなるほどの音量で叩き鳴らしました。
ガラリ、ゴン。
その無骨で、どこか泥臭い生活の匂いがする力強い音が、甘い霧を鋭く切り裂きました。
ネルはハッと我に返り、背中を冷たい冷汗が流れるのを感じて立ち止まりました。
「幸せってのはな、ネル。日常の苦労や退屈という泥臭い土壌があって、初めて咲く花なんだ。土を忘れて花だけを摘もうとすれば、心は根無し草になって消えちまうんだぜ」
モンジロウはネルに調律用の小さな銀の小槌を渡し、虹の根元で脈打っている「光の結び目」を解くように命じました。
ネルは震える手で、溢れ出す幸福の源流に小槌を当てました。
そして、自分が初めてモンジロウに大声で叱られた時の悔しさや、重い雲のスープを煮詰めた時の腕の鈍い痛み。
そんな、決して美しくはないけれど、自分が生きてきた「確かな記憶」を音に乗せて、力一杯打ち込みました。
パリン、と硬質な氷が割れるような音が響き、逆さまの虹は細かな光の粒となって空へ霧散していきました。
窪地に囚われていた猫たちは、深い眠りから覚めたように目を瞬かせ、自分たちの足がしっかりと地面についていることを確かめました。
空にはいつものように魚の骨の形をした雲が戻り、甘すぎたハッカの香りは、鼻を抜けるいつもの爽やかな刺激へと戻りました。
帰り道、虹の消えた夕暮れの空を見上げながら、ネルは少しだけ胸の奥に寂しさを感じていました。
しかし、隣を歩くモンジロウの、欠けた右耳と少しばかり不機嫌そうな横顔を見たとき、何物にも代えがたい安心感がじんわりと胸に広がりました。
「モンジロウさん、僕、さっきの綺麗な虹よりも、今のハチミツ煮が楽しみな気持ちの方が、なんだか好きです」
「……ふん。ようやく調律師らしいことが言えるようになったじゃないか」
モンジロウは照れ隠しに、いつもより強くパイプの煙をくゆらせました。
ハッカ蒸しの原には、また騒がしくも愛おしい、いつもの日常が流れ始めていました。
完璧な幸せなどなくても、この場所には、互いに分かち合える確かな音と香りがあるのです。
ネルの鈴が、風に揺られて「チリン」と、どこまでも現実的な、それでいて心地よい音を奏でていました。




