言葉を食べるイモムシ
ハッカ蒸しの原から、ある朝突然に「音」以外の意味が完全に消え失せてしまいました。
猫たちがどれほど大きく口を開いても、そこから漏れ出すのは「ニャー」という純粋な獣の鳴き声だけで、互いの意志を正確に伝えるための言葉という道具がどこにも見当たりません。
空にはいつもと変わらず魚の骨の形をした雲が静かに浮かび、ハッカの爽やかな香りは変わらず漂っていますが、森の空気はどこか空虚で、情報の抜けた抜け殻のようでした。
言葉という羅針盤を失った猫たちは、広場で互いの顔を見合わせながら、ただ所在なげに耳をぴくぴくと動かすことしかできないのでした。
モンジロウは特に慌てる様子も見せず、小屋の隅にある引き出しから長年愛用している古びた虫眼鏡を取り出すと、ネルを連れて森の中心にそびえ立つ「知恵の樹」へと向かいました。
そこには、水晶のように透き通った体をした巨大なイモムシが、樹の葉の裏に刻まれた古い詩や、猫たちが日頃交わしていた何気ない挨拶の響きを、むしゃむしゃと音を立てて平らげている姿がありました。
このイモムシは、世界の言葉が複雑に絡み合い重くなりすぎた時にどこからともなく現れ、それらを綺麗に食べて消化する「綴り食い」という名の不思議な生き物でした。
言葉に含まれる過剰な熱量を吸い取って、世界を再び無垢な状態へと戻す役割を担っているのです。
「おい、ネル。あいつを無闇に責めるんじゃないぞ」
モンジロウはそう言うと、レンズ越しに熱心にイモムシを観察し始めました。
「猫たちが日頃から余計な噂話や、誰かを傷つけるようなトゲのある言葉を吐き出しすぎたせいで、森の言葉がすっかり肥満気味になっていたのさ。あいつはただ、森の風通しを良くするために汚れを食べて掃除をしてくれているだけなんだ」
モンジロウは淡々とそう説明しましたが、言葉という繋がりを絶たれた猫たちは深刻な混乱の渦中にありました。
忘れ物預かり所のトトは、看板から文字が消えて白紙になったことに戸惑い、クロは伝えたい感謝の言葉が喉の奥で渋滞してしまい、不安げに細い尻尾を揺らしています。
「ネル、お前の番だ」
モンジロウはネルの背中を軽く叩き、イモムシの方へと促しました。
「言葉を一切使わずに、自分自身の心臓の鼓動と鈴の音だけで、あいつに『もう十分だ』というメッセージを届けてこい。既存の意味に頼るんじゃない。お前という存在の気配をそのままぶつけるんだ」
ネルは師匠の言葉を受けて、ゆっくりと巨大なイモムシの正面に立ちました。
何か言葉をかけようとしても、やはり口から出るのは意味をなさない震える音の塊だけです。
ネルは深く目を閉じ、自分の首元にある真鍮の鈴の、冷たく滑らかな感触に全意識を集中させました。
これまでの旅で出会った鮮やかな風景や、モンジロウが見せる不器用で皮肉な笑み、そしてトトの淹れてくれたハッカのジャムの甘さ。
それら言葉にする前の純粋な感情の震えを、たった一振りの鈴の音に丁寧に込めていきました。
チリン。
その透明な一音は、これまでのどんなに長い演説や複雑な言葉よりも雄弁に、ネルの誠実な心をイモムシの深淵へと伝えました。
イモムシは食べる手をぴたりと止め、宝石のように輝く大きな頭をもたげてネルの瞳をじっと見つめ返しました。
ネルはさらに、言葉ではなく一定のリズムを刻むことで、森の猫たちの「伝えたい」という切実な願いを奏で続けました。
すると、イモムシの体が内側からまばゆい虹色の光を放ち始め、今まで食べた言葉たちが小さな蝶となって一斉に羽ばたき始めました。
無数の光り輝く蝶たちは、導かれるように猫たちの元へ飛んでいき、それぞれの耳元で本来の言葉としての重みを持って溶けていきました。
「……ありがとう、ネル。本当に助かったよ」
クロの口から最初に出てきたのは、飾り気のない、けれど真冬の陽だまりのように温かな感謝の言葉でした。
森に再び言葉の重力が戻り、猫たちの賑やかで活気に満ちた会話が、あちこちの木陰で復活し始めました。
しかし、不思議なことに戻ってきた言葉たちは、以前よりもずっと簡潔で、どこか他者を思いやる優しさを帯びた響きに変わっていました。
モンジロウは満足げに目を細め、愛用のパイプをゆったりとくゆらせて紫煙を吐き出しました。
「言葉っていうのは、大切にしないとすぐに使いすぎて腐ってしまう。たまにはこうして、意味を脱ぎ捨てて音だけに立ち返る時間が必要なんだな」
彼はそう言うと、ネルの頭をくしゃりと撫でました。
「いいか、ネル。本当に大切なことは、言葉にできない沈黙の隙間にこそ隠れているもんなのさ」
ハッカ蒸しの原に、再び意味と情緒の宿った風が穏やかに吹き始めました。
蝶たちが運んできた言葉の欠片が、猫たちの心に一粒ずつ温かく収まっていくのが見えます。
ネルは、戻ってきた自分の言葉を宝物のように大切に噛み締めながら、言葉にする前の、あの鈴の音の震えを忘れないように心に刻むのでした。
空に浮かぶ魚の骨の雲が、まるで言葉の重みから解放されたように、いつもよりずっと軽やかに流れていく夕暮れでした。




