第6話 回帰
家へ続く長い階段の前に、僕は立っていた。
トガビトの群れは、先ほどの知略で完全に振り切った。辺りに化け物の気配は無い。
昨日、じいちゃんのいる我が家を無慈悲に破壊した、あのビルほどもある巨大なトガビト。あいつが今どこにいるか全く見当たらないのは不気味な不安だったが、今はただ、家に飛び込むしか選択肢はなかった。僕は意を決して、一気に階段を駆け上がる。
「……ただいま。って、返ってこないか」
無惨に壊れた玄関の枠をくぐり、中に入る。
崩れ落ちた屋根の隙間からは冷たい陽の光が差し込み、壁にぽっかりと空いた大穴からは、容赦なく風が吹き抜けていた。
「……」
あちらこちらに無様に転がる家具。壁に飾られていた、ありふれた家族の写真。割れたガラスの破片が、差し込む光を浴びて眩しく床に散らばっている。
つい昨日までの、温かかった日常の記憶が、目の前の凄惨な景色をかき消すように脳裏に差し込んできた。
「くっそ……」
込み上げてくる、整理のつかない感情。これはじいちゃんを失った怒りなのか、悲しみなのか。それとも、世界が壊れた恐怖や絶望なのか。
混ざりあった、名前の無い泥のような感情に、僕は奥歯が軋むほど歯を食いしばる。
「じいちゃん……。いるんでしょ?」
僕は力の無い声で、静まり返った我が家へ呼びかけた。けれど、その声はただ無機質な空気に吸い込まれ、消えていく。
「やっぱり、あの部屋にいるんだよね……」
僕は吸い込まれるように、奥にあるじいちゃんの部屋の前へと歩いていった。
ボロボロの扉の前に立ち、恐る恐る、ドアノブに手をかける。
扉を開ければ、部屋の中でじいちゃんが平気な顔をして座っていて、『甘えるな、蒼人!』って、そんな風にいつもの頑固な声で言ってくれる姿が、どうしても頭に浮かんでしまうんだ。
――ドアノブを回し、開けようとした、その瞬間。
脳の奥深く、どこからか甲高い、耳を突き刺すような警告音が突如として鳴り響いた。
「なんだ……!?」
思わず耳を塞ぐが、音は止まらない。それどころか、頭痛がその音に呼応するように、ズキズキと酷くなっていく。
「っ……。これって……」
割れそうな頭を片手で押さえながら、僕はじいちゃんが以前、何気なく話していた言葉を唐突に思い出した。
『わしは大切なものに結界を貼る時、音を組み込むことにしておる。解けた時に誰かが気付けるようにな。まぁ、それが解けるのは、わしが死んだ時だろうがな』
いつ聞いたのかは覚えていない。多分昔、小言の一つとして聞き流してしまっていたのだろう。
部屋に入ることを頑なに拒絶するかのように、頭痛と警告音は激しさを増していく。
「……じいちゃんは死んでない。生きてる」
僕は現実から目を背けるようにそう呟き、再びドアノブを強く握りしめた。
そして――思い切って、扉を開いた。
部屋の中は、目を覆いたくなるほど荒れ果てていた。昨日のトガビトの襲撃の衝撃がありありと浮かぶように、そのままの形で凍りついている。
そこに、じいちゃんの姿は無かった。それでも、何か手がかりがあるはずだと、僕は部屋に一歩、足を踏み入れた。
踏み出した右足の裏に、コツンと、何かが当たった。
硬くはなく、けれど柔らかくもない。そんな、奇妙な生々しい感触だった。視線を足元に落とす。
「……は」
そこに転がっていたのは、紛れもない、人間の右腕だった。
数々の戦い傷が刻まれ、べっとりと付いた血はすでに黒く乾いている。そのシワシワの手のひらは、それが誰の腕なのかを、僕に一瞬で理解させた。
――ジジジジジ!!!
その瞬間、警告音が先程までとは段違いの質量で、脳内で狂ったように鳴り響いた。
耳をどれだけ強く塞いでも止まらない。その凄まじい音は、外からではなく、僕の頭の中で鳴り響いている。
「あ……あ……ああ……ッ!!」
じいちゃんが毎日、僕のおでこに施してくれていた、あのおまじないの跡が、焼けるように熱くなっていく。
脳内に貼られていた『結界』が、今、完全に崩壊していく。
――溢れ出す、真っ黒な記憶。
それは、真っ暗な激しい雨が降る、あの日の記憶だった。
僕の目の前には、右目からどす黒い鮮血を大量に流し、激しい嵐の中に横たわる美宇の姿。
そして、その美宇を見下ろす、真っ赤な血に染まった僕の両手。
その右手には――観測者の象徴である『槍』ではなく、一振りの、禍々しい刀が握られていた。
ジジジジジ!!
「あ”あ”あ”あ”あ”!!!」
今まで信じていた偽りの記憶がガラスのように崩壊し、本来の凄惨な真実で脳内が塗りつぶされていく。
「……思い出した。やっぱり、僕のせいじゃないか」
あの日、美宇の右目を奪い去った加害者は、トガビトなんかじゃない。僕自身だったんだ。
「いままで……どうして……!」
今日まで自分のせいじゃないと言い聞かせ、悲劇の主人公のような顔をして、のうのうと美宇の隣に立っていた。その無知、無能、無力。真実を知ろうともしなかった己の阿呆さに、激しい吐き気がこみ上げる。
隣にいさせてと願ったあの歪な優しさも、結局は自分の罪悪感を消したいための、醜い自己満足だったんじゃないのか?
忘れるはずもないあの日の罪を、何の疑いもなく忘れていた。そんな哀れな自分自身への嫌悪が、胸の奥からせり上がってくる。
「……神装、展開」
心の最奥に眠る、血塗られた真実を引きずり出すように、僕は腕輪に神力を込めた。
腕輪の式が激しく呼応し、神々しくまばゆい光を放つ。光は徐々に集まり、形を成していく。
そこに顕現したのは――紛れもなく、あの雨の日の記憶にある、一振りのシャープな刀だった。
「はっ……ははは」
嫌味ったらしく、驚くほどよく手に馴染む。これが、僕の本来の神装。それは、あの日の悪夢がまぎれもない事実だと告げる、残酷な証拠そのものだった。
「僕は、どうしたらいいんだろ……」
完全に無意識だった。僕は自然と、その刀の冷たい刃を自分の首に当てていた。突然蘇った真実の重さに、僕の脳は正常な判断など、とうに出来なくなっていたのだ。
その時、ガシャガシャと瓦礫が崩れ、僕の目の前に何かが落ちてきた。
「……じいちゃんの、ノート?」
それは、床に投げ出されていたじいちゃんの観測ノートだった。いや、それは観測記録ではなく、ただの日記のようだった。
僕が幼い頃の泥だらけの訓練の記録。じいちゃんが僕に厳しく教え込んだ、観測者としてのあり方。そんな、愛に溢れた日々の記録。
震える手で流れるようにページをめくっていくと、たどり着いた最後のページに、罪を吐き出すような強い殴り書きの文字があった。
『――蒼人と美宇の記憶に結界を施した。わしの身勝手だ。そんなことはわかっている。二人は弱くないとわかっている。それでも、二人が壊れてしまうのを見てはいられなかった。……いつか結界を解く時が来る。必ず。それまで、わしは二人のそばにいなければならない。これはわしの最後の使命だ』
じいちゃんの最後の文字が、僕の涙で滲んでいく。
じいちゃんは、僕たちを守るために、その身を汚してまで結界を張ってくれていたんだ。
「ごめん……じいちゃん。もう少しだけ、そっちで待っててね」
僕は袖で涙を乱暴に拭い、静かに刀を下ろした。ノートをそっと閉じ、元の机の上に戻しておく。
「……美宇を探さないと。ちゃんと、話を、謝罪をするんだ」
呼吸を整える。今の最優先は、美宇を探し出すことだ。
じいちゃんのノートによれば、美宇にも僕と同じ記憶の結界が貼られていたはず。あの日、本当は何があったのか、今度こそ真実を知らなきゃならない。後は、じいちゃんが言っていた佐伯一幸――あの人が災禍の黒幕の可能性が高い。絶対に、見つけてやる。
「って言っても、情報がなにも無い。美宇に連絡は取れないし、どうしよう……」
ふと、荒れ果てた部屋を見渡した時、真新しい小さなメモのようなものが、壊れた壁際に貼り付けられているのが目に留まった。それは明らかに、家が巨大トガビトに崩壊させられた後に置かれたものだった。
「なんだこれ……」
雑に書き殴られ、雨のせいかところどころ文字が滲んでいる。
『たすけて。追われてる。四角公園』
その文字を見た瞬間、僕はメモをグシャッと力任せに握り潰した。
「……美宇が危ない」
僕はその勢いのまま、壊れた壁の穴から外へ飛び出し、崖を一直線に駆け下りた。
四角公園は、幼い頃に僕らがよく誰にも内緒で訓練をしていた秘密の場所だ。ずっと前に廃れて、今は誰も寄り付かなくなっていた。そんな場所を指定してくるなんて、書いて残したのは、美宇以外にいない。
「……こんなメモをわざわざ残してるんだ。早く行かなきゃ……!」
薄黒い霧の中を、心臓が破れるほどの全速力で駆け抜ける。辺りからは、トガビトの気配がうじゃうじゃと肌に伝わってくる。
けれど、そんな雑魚どもにいちいち反応している暇はない。僕は最短距離で、公園までの道をがむしゃらに走り抜けた。
「はぁ……はぁ……。そこの脇道を抜ければ、すぐだ!」
角を急激に曲がり、細い路地に入る。
しかし運悪く、そこにはトガビトが数体、道を塞ぐように溜まっていた。こいつらを迂回していく時間など無い。正面突破を試みる。
「邪魔すんなよ……!」
僕は腕輪に全ての力を込めた。思い出した、自分の本来の力。罪悪感も、自己嫌悪も、痛みの記憶もすべて飲み込むように――。
「神装展開――『骸月』!!」
式が反応し、眩しい光が刀の形を成していく。手の中に顕現する、あの日の刀。
それを、力強く握りしめた。
――その、瞬間だった。
脳を割るような凄まじい頭痛とともに、あの雨の日の、右目を血に染めた美宇の絶望した顔が、強烈に頭の中にフラッシュバックした。
「ぐぁぁっ……あ、あぁ……!!」
あまりの恐怖と激痛に、僕は思わず、顕現させたばかりの刀を地面に落としてしまった。
右手のひらに残ったのは、あの日、生身の肉を割いた時の生々しい感触のみ。右手は無様に震え、また視界が真っ赤に染まっていく。
「くっそ……! 解除! 解除だ!」
恐怖に負け、僕は叫びながら式を強制解除し、刀を脳裏に仕舞い込んだ。
「なんでだよ……!!」
美宇を助けたいのに、刀を振るうどころか、握ることすら自分の心が拒絶していた。
「ガァァ!」
トガビトは僕のトラウマなんて気にも留めず、絶好の好機とばかりに襲いかかってくる。奴らにとって、今の僕はただの、勝手に自滅した無防備な餌だ。
「神装、展開……!!」
僕は涙目を強引に見開き、もう一度腕輪に叫んだ。今度は、偽りの記憶の象徴である『槍』を顕現させる。
扱い慣れた槍をしっかりと両手で握り、僕は目の前のトガビトを強引に突き崩した。すぐさま引き抜き、もう一度。突く、斬る、なぎ払う――!
我を忘れた猛攻で、何とかトガビトを危なげなく倒しきる。
僕は息を切らしながら、トガビトの死骸の横をすり抜け、細い道を進んでいった。
自分の本来の力である刀を、心が恐怖で拒絶してしまったこと。美宇を早く助けないと、という焦り。
精神をあまりにすり減らした僕は、観測者として絶対にやるべきことすら、その場に忘れてしまっていた。
僕はそのまま、目的地の四角公園に辿り着いた。
けれど、古い遊具が佇むその場所にいたのは、見覚えのない不気味な二つの人影。
――そして、その冷たい足元には、意識を失った美宇が、無残に横たわっていた。




