第5話 薄霧とともに
ビクともしない強固な結界。
「町の外に逃げろ」という、じいちゃんの最後の言葉は、今ここで簡単に頓挫した。
「くっそ……。どうすれば……」
見えない壁に拒絶された右手を握り締め、今の自分にできることを必死に探す。
(外に連絡……? ていうか、母さん!)
あの時、家にはじいちゃん以外いなかった。いつもならリビングにいるはずの母の姿はなく、無事かどうかも分からない。最悪の想像が頭をよぎる。
「携帯は……くっそ、ダメだ。壊れてる」
ポケットから取り出した携帯の画面はバリバリに割れ、いくらボタンを押してもまったく反応しない。先ほど地上へ叩きつけられた時の衝撃だろう。
「いま、僕に何ができる……?」
最優先は生き残ること。それでも、ただここで待っているだけでは、そのうちトガビトの群れに囲まれて死ぬ。
焦燥感に急かされながら、僕は周囲を警戒した。――その時、ふと奇妙な違和感が頭をよぎる。
「なんで来ない……?」
今、僕の近くにトガビトの気配は無い。当然、町の中を見渡せば無数の異形が蠢いているのが見えている。先程まで、あれだけ執拗に戦っていたのに、なぜかこの境界の場所には一体も僕を追ってきていないのだ。
僕は急いで、瓦礫の隙間から町を見下ろした。
「くっ……」
目を逸らしたくなるほどの凄惨な現実。町は完全に崩壊し、無数の影だけが波のように動き回っている。けれど、その光景をじっと凝視するうちに、ひとつの法則が見えてきた。
「見ろ……。観測はずっとやってきただろ」
自分に言い聞かせる。いつもと違うと、はっきりわかる異変。それは、地面を這うように広がっている薄黒い『霧』だった。
普段なら霧は『祈りの丘』の周りにしか存在しない。しかし今は、町をまるまるその薄い霧が覆ってしまっている。そして、僕が立っているこの結界の辺りには、その霧が届いていないのだ。
この霧はちょうど、町を囲むように広がっている。ということは、つまり――。
「トガビトの活動範囲か」
しかし、それだけで今の場所が100%安全だと言い切ることもできない。
見上げれば、飛行型が飛び回る空中には霧がないのだ。奴らは霧の中に出たり入ったりを繰り返しているように見える。おそらくは、一定時間しか、霧の外には居られないのだろう。
「でも、それなら隠れていればいい。今すぐ町に戻っても、多分死ぬ。一旦、身体を休めないと」
僕は散らばる瓦礫を慎重にどかし、身を隠せそうな狭い隙間を作った。最悪、空を飛ぶ奴らからさえ見えていなければそれでいい。
這いつくばるように身をうずめて、そっと目を閉じる。
当然、緊張と不安で眠れる訳もなく、ただ、じいちゃんのこと、母さんのこと、美宇のこと、色んな不安が脳裏をぐるぐると巡るだけだった。
目を覚ました時に、自分が無事でいられる確証もない。
それでも、これが僕が今できる、最善のサバイバルだった。
「じいちゃん……。生きてるよね……」
恐怖や過度の疲労のせいだろうか、脳の奥で酷い頭痛がガンガンと鳴り響いていた。
◇
「ん……」
容赦ない陽の光が、直接僕の顔を照らした。普段、自室のカーテンをきっちり締め切って寝ている僕にとっては、酷く不快な寝起きだ。
辺りはすっかり朝になっていた。そもそも昨夜、眠りについた時間がはっきりしていないため、今の正確な時刻も定かではない。
夢であってくれと、願わずにはいられない昨日の記憶。
固いコンクリートの上に直接寝かせていた重い身体を、ゆっくりと動かす。
「ははっ……」
見上げた空は、皮肉なほどに青く晴れ渡っていた。
そんな平和な青空の下、破壊された町には薄黒い煙のような霧が地面を這うように拡がり、トガビト達が我がもの顔で蠢いている。
その景色は、まさにカオスそのものだった。
「……地獄なら、もっと暗くあってくれよ」
いつも通りの青空に不気味に飛び交う飛行型。崩壊した町をのしのしと歩く無数の歩行型。わずかに顔を出した日常の空が、僕にもう元には戻らないのだと、残酷な現実を叩きつけてくる。
「あー……頭いてぇ……」
昨日から鳴り止まない頭痛を片手で押さえる。それでも、今日やるべきことは、もう決めていた。
「じいちゃんを見つけなきゃ」
この地獄の中で、確実に存在がわかるのは、あの部屋にいたじいちゃんだけだ。
「じいちゃんは……生きてる」
僕は自分の心に強く、呪文のようにそう言い聞かせた。
透き通った青空はまさにサバイバル日和。そんな不謹慎な言葉があるかは知らないが。
いつもなら丁寧に行う道具の準備も、お札の確認もない。
今信じられるのは、この傷だらけの身体と、神装である槍一本のみ。
「あー……行こうか」
僕は意を決して瓦礫の隙間から這い出し、再びあの地獄の町へと踏み込んでいった。
◇
「はぁっ……はぁっ……」
町を駆け抜ける足元に、地を這うどす黒い霧がねっとりとまとわりついてくる。
霧の中に飛び込んだは良いものの、良い事と悪い事が同時に僕を襲った。
まず、良い事は、空に飛行型がいなかったこと。
霧は今、完全に地を這うように低く溜まっている。昨日は確かに空にも霧があったはずだ。時間帯の関係なのか、それとも別に霧が動くギミックがあるのか。それはわからないが、上空に敵がいないことはこれ以上のないチャンスだった。
しかし、それとは別に悪い事は当然起きる。良い事があれば、それに見合うだけの悪い事も着いてくるものなのだろう。
「……多いだろっ!」
僕は今、大量の歩行型トガビトに追い回されている。
確かに怪しいとは思ったのだ。霧に入る直前、すぐ目の前でトガビトと視認出来る距離だったのに、奴らは僕にまったく反応を示していなかった。
不思議に思いつつも霧に足を踏み入れたその瞬間に、トガビトたちは一斉に牙を剥き、僕の方に飛びかかってきたのだ。
何とか攻撃を躱して必死に逃げているものの、崩壊した瓦礫のせいで上手く足が前に進まない。
追いつかれそうになる度に振り返って数体倒し、また逃げる。これを繰り返してはいるが、なんだか走れば走るほど、後ろの数が増えているような気がしている。
一体一体はそこまで強くないのに、束になられるとこうも恐ろしいものか。
「どうすっかな……」
息が上がり、足もかなり疲れてきている。なにか決定的な策を考えなければ、ジリ貧だ。
「脇からそれて……って、うわぁ!」
一瞬、目を脇の路地に逸らした瞬間に、僕の目の前にトガビトが降ってきた。どうやら、瓦礫の山をつたって先回りをされたらしい。
「おら!」
咄嗟に槍を振り抜き、その首を鮮やかに切り取る。死骸はせめて後続の壁になってくれと願いながら、僕はそれを勢いよく後ろの群れへと放り投げた。
一瞬だけ立ち止まってしまったため、すぐに後ろとの距離を確認する。
「……ん?」
そこで、なんだか様子が変なことに気づいた。トガビトの群れは、なぜか前後が激しく入れ替わるような不自然な動きをしていたのだ。そのため、僕が一瞬立ち止まったにもかかわらず、奴らとの距離が縮まっていない。
「なんでだ? ……でも、これを使えば逃げ切れるかもしれないな」
さっきの状況を頭の中で瞬時にイメージし、ロジックを組み立てる。
(トガビトの死骸を群れに投げ入れた時、前列のヤツらがそれに過剰に反応した。それを避けるように後列が横から飛び出した。そんな感じか。……でも、こいつらが仲間の死骸なんかに、わざわざ反応するか?)
「ものは試しだな」
僕は走りながら急に振り向き、少し群れから飛び出している先頭のトガビトの首を槍で刎ねた。そしてその首を、群れの少しだけ離れた場所に思い切り蹴り飛ばす。
ゴロゴロと、コンクリートの上を転がる醜悪な首。
その瞬間、トガビトの群れの一部が明確に反応を示した。まるで磁石に引き寄せられるように、飛ばした首に向かって一斉に集まっていく。
「おー。やっぱり、動くものに反応するのかな?」
活路が見いだせた。しかし、それよりもさらに衝撃的な光景が、僕の目の前で起こっていた。
群れの一部が首の方に流れた結果、少し数が減って見やすくなったその後方。残されたトガビトの胴体に、奴らは群がっていた。
そして――その死骸を、猛烈に喰らっていたのだ。
「いっ……。共食い……?」
ボリボリ、バキバキと、骨と肉を強引に噛み砕く、おぞましい咀嚼音が静かな町に響き渡る。
単に動くものに反応しているだけ、そう思ったが違った。奴らは明確に、
「吸収でもしてんのか……? そんなの、今までトガビトが現れていた理由も前提から変わってくるぞ」
死骸をあらかた喰い終わったトガビトが、再び血走った目で僕の方へ走り出す。
「なんなんだよ……。ただのモンスターじゃないのかよ」
けれど、今はその生態を深く考察している余裕はない。そういう特性の化け物なら、今は利用するだけだ。
「一体……二体倒せば充分か」
僕は再び前方を向き直り、迫る一体の首を鮮やかに刎ねる。
「まず一体。そして……」
前列のトガビトが、一瞬その死骸に気を取られた隙を見逃さず、横から飛び出してきたもう一体の胸へ槍を深く突き刺した。そいつを神装の怪力で、勢いよく目の前の地面に引き寄せる。
(身体だけじゃなく、さっきは首にも反応があった。なら、死骸の大小は関係ないはずだ)
「ふっ!」
呼吸を整え、僕は槍を高速で振るった。
首、右腕、左腕、右足、左足、胴体。トガビトの肉体を、ある程度の形を保てる大きさにバラバラに、細かく刻んでいく。
「ほら。餌だぜ」
刻んだ肉片を、迫りくるトガビトの群れに向かって一散に撒き散らした。
効果は劇的だった。降ってきた無数の肉の塊に向かって、トガビトたちは我先にと集まっていく。肉片を奪い合うように、互いに激しくぶつかり合っている。
群れはいくつかの醜い塊になり、僕を追う勢いは完全に止まった。
僕はその隙を見逃さず、一気にその場を走り去る。
背中から聞こえる、肉を奪い合う不快な咀嚼音が、だんだんと遠ざかっていく。
耳を塞ぎたくなる音を聴きながら、僕の目はただ、前方に見えるあの崩壊した我が家を真っ直ぐに見つめていた。
「じいちゃん……。今行くから」




