第23話 祈りは遠く繕って
――佐伯家所有、北の研究所。
ミクライは血を滴らせながら、しっぽを巻いて無様に逃げ帰っていた。
「うぅ……。痛いよぉ……。もう、やだよぉ……お兄ちゃん……」
貫かれた右肩からの血は、歩く度に床へと零れ落ち、止まらない。激しい痛みがとめどなくミクライを襲う。
しかし、それ以上に、戦闘中に見せた蒼人のあの異質な強さと、底知れない狂気への恐怖で、彼女の戦意は完全に消え去っていた。
涙を浮かべながら管制室の部屋に入るミクライ。
室内では、ヤガミと七恵が何やら静かに話し込んでいるようだった。
「おかえり。ミクライ」
七恵はミクライの惨めな姿を見るなり、いつも通り微笑みながら声をかけた。
任務に失敗し、怒られる、あるいは厳しく詰められると覚悟していたミクライにとって、その緊張感のない部屋の空気は、困惑するしかなかった。
「……ごめんなさい! お兄ちゃ……ヤガミ、七恵様! わたし……わたし、負けて……!」
「大丈夫よ、全部見てたから」
「え……?」
「気づいていなかったの? あなたには出発する前から、小さな監視の虫を這わせておいたのよ」
七恵は、ミクライの背後を指さす。
見れば、そこには小バエほどの機械的な物体が、不気味に宙を浮遊していた。
(ずっと見られていた……。でも、それなら……!)
監視されていた恥ずかしさよりも、蒼人のあの異質で圧倒的な戦闘力を七恵達も確認しているはずだ、という事実が今のミクライには嬉しかった。それなら、自分が敗北したことも許してもらえるはずだと。
「蒼人君も、ずいぶんと立派になったわね。あんなに強くなっているとは。ヤガミ、あなたは問題なく勝てるわよね?」
「そうですね……。奴の成長速度は確かに想定外ですが、私が遅れをとることは万に一つもありません」
「そう。ならいいわ」
そう言って、七恵はミクライへと冷たく視線を移した。
「ミクライは……仕方ないわね」
その言葉に、失敗を許してもらえるのだと、ミクライは僅かに歓喜の表情を浮かべる。
しかし、――その、次の瞬間だった。
ヤガミの放った強固な半透明の結界が、ミクライの周囲を立方体で覆い、完全に閉じ込めた。
「え……?」
ミクライは驚き、その結界の壁を力強く叩いた。しかし、結界はビクともしない。
「七恵様。躊躇う必要はありませんよ」
「そう? あなたが少し、お辛いかなって思ったんだけど」
「フタバと美宇をただ逃し、挙句の果てに菅井蒼人のような子供に惨敗。これ以上手元に置いていても、計画の足を引っ張るばかりで、何一つ利用価値もありません。計画の純化の為に、今ここで切り捨てるべきだ。……私はその為なら、身内であろうと何も感じませんよ」
「別にいいわよ。あなたの好きにして」
「では……」
ヤガミが開いた手のひらを、グッと冷酷に握りつぶす。
連動するように、ミクライを囲んだ結界が、凄まじい圧力で内側へと収縮していく。
「いや……! いやっ!! どうして……!!! お兄ちゃ……!!」
ミクライの絶望に満ちた断末魔と共に、結界は限界まで薄く押しつぶされた。
ヤガミが結界を解くと、肉片すら残さず、大量の血液だけが床へと虚しくこぼれ落ちていく。その凄惨な水たまりの中に、カラカラと乾いた音を立てて、ミクライの『腕輪』が転がった。
ヤガミはゆっくりと歩み寄り、それを拾い上げる。
「七恵様、どうぞ。研究の糧にでも使ってやってください」
「あら、ありがとう。こんなにも強い神装の結晶が、今日は二つも手に入るなんてね。ありがたく使わせてもらうわ」
ガチャリ、と部屋の扉が乱暴に開く音が響き渡る。
「おいおい。なんの騒ぎだぁ? ろくに寝てられねぇよ」
テンラが不機嫌そうに、部屋へとやってきた。
テンラは室内の生臭い空気と、床の血溜まりを見て何かを察したようで、下卑た笑みを浮かべて口を開く。
「ミクライの五月蝿い声がしたと思ったが……。なるほどなぁ。ヤガミ、お前直々に始末されたか。ざまぁねぇな」
「利用価値の無くなった不要物を処理しただけだ。テンラ、私はお前が同じ立場になっても、全く同じように処理するぞ」
「はっ、俺とアイツじゃあ話しが違ぇだろ。本当にお前はイカれてんなぁ」
「そこまでよ、二人とも。死んだ人間へ割く時間はないわ。ほら、テンラはすぐに研究室に戻るわよ。良い素材が手に入ったからね」
「はぁー? もう疲れた。俺を少しは休ませてくれよ」
「再生してあげたその右腕分くらいは、きっちり働いてから言いなさい」
「ちっ。わーったよ」
テンラは繋がったばかりの右腕で頭を掻きむしりながら返事をする。
「……私は、少し外す」
「お前は、また例の場所か? 本当に健気だねぇ、ヤガミは」
「……祈るべき相手が、今日で一人増えてしまったからな」
「はんっ! 自分で殺しといてよく言うぜ」
「それとこれは、別の話だ。……すいません、七恵様。お先に失礼します」
「別にいいわよ。でも、それなら……」
七恵は、ミクライを監視させていたあの機械の虫を、今度はヤガミのそばへと飛ばした。ヤガミはそれに気づいた瞬間、即座に手元に極小の結界を展開し、虫をプチリと押し潰した。
「七恵様……。さすがの私も覗かれるのは極めて不快だ。二度とやめて頂きたい」
「……それもそうね、悪かったわ。あなたの実力は信頼しているから、問題ないわね」
「あなたのことは……って、おい、ボスの七恵様よぉ。俺のことは本気で信頼してねぇのかよ?」
残されたテンラが不満を漏らす。
「私は研究者よ? 計算の合わない不確定要素を信頼するわけないじゃない。あなたは力を利用しているだけよ、テンラ」
「ひっでぇ。俺の方があんたとの付き合い、ヤガミよりなげぇのに」
「……うるさいわね。信頼されたいなら、それなりの態度と結果を示しなさいよ」
「へーい」
テンラは軽く返事をして、部屋を後にする。
「……それじゃあ、ヤガミ。また後でね。……信頼しているわよ」
「……はい、もちろんです」
繋がりなど淡く脆く、表面上だけ。
奴らの歪みは、確かに破滅へ向けて捻れ始めていた。
◇
ヤガミは、自身が厳重に張り巡らせた三重結界の中へと静かに足を踏み入れた。
辺りに怪しい気配はない。七恵の監視の眼も、ここには届かない。
ここは、彼らが育った寂れた孤児院『未来の家』の跡地。
ヤガミの育ったこの場所は、自身の過去と真の目的を忘れないための、楔。
「ただいま」
ただ、自分の家に帰るように静かに声をかけ、埃っぽい扉を開く。
だだっ広い室内は塵一つなく綺麗に掃除され、外観の廃墟からは想像もつかないほど、昔の温かい姿のまま維持されていた。
部屋の中央には、木で作った不格好な十字架が、四つ静かに並べて立てられている。
「……」
ヤガミは十字架の前に佇み、静かに手を合わせ、目を閉じた。
祈りが終わった直後、部屋の影から、どこか聞き覚えのある咽び泣く声が微かに聞こえてきた。
「……少し、乱暴な見せ方をしたな。悪かったな、ミクライ……いや。――『サン』」
ヤガミが空間の繋ぎ目を解くと、そこからゆっくりと、無傷のミクライが姿を現した。
「……お兄ちゃん」
「右肩の傷は痛むか? ほら、治療の結界を施してやる。こっちに来い」
ヤガミは優しく手招きし、妹を自分の胸へと引き寄せ、優しく抱きしめた。小さな治療の結界が妹の身体を包み、傷を癒していく。
「お兄ちゃん……! 私、もう嫌だよ……。こんなの、もうやめよう……」
「大丈夫だ。……もう二度と、私の大切な家族を、佐伯にも菅井にも奪わせはしない。見て見ぬ振りをした菅井も、私たち兄妹を利用するだけ利用する佐伯も……すべて私がこの手で壊す。そして……お前たちが、また笑っていられるような平和な世界を、私が創る」
「嫌だよ! お兄ちゃんまで死んじゃうよ……。もう、二人で遠くへ逃げようよ……」
「……これからお前に危害が加わることはない。佐伯七恵も、お前が死んだと完全に勘違いしているはずだ。だからお前は……また笑えるその日まで、ここで静かに休んでいろ。私が、祈りの丘へ辿り着く。その時まで――」
ヤガミは、妹にこれ以上の反論を言わせないように、強く、強く、ただその身体を抱きしめ続けた。
その双眸は、誰とも交わらない、寂しい淡い未来を冷徹に見据えていた。
◇
――同時刻、佐伯家研究所、七恵の自室。
作業机の上には、これまでの観測者たちから剥ぎ取った、無数の『神装の腕輪』がバラバラと並べられていた。
それを愛おしそうにまじまじと見つめながら、七恵は狂気的な笑みを浮かべる。
「……集めた素材は、これで充分ね。そろそろ、本来の形で作りましょうか」
「そんなゴミみたいな神装のガラクタをたくさん集めてよぉ。一体何を作るんだ、ボス?」
テンラがベッドの上にだらしなく寝そべりながら、退屈そうに尋ねてきた。
「――『鍵』……みたいなものね。祈りの丘へと至るための鍵よ」
「そんなのいるのか? 力で霧をブチ抜いて、ただ真っ直ぐに行けばいいんじゃねぇの?」
「それなら、とっくに誰かが辿り着いているわよ。祈りの丘を囲むあの霧は、普通の人間じゃ絶対に突破できないの。霧それ自体が、世界を隔離する大きな宝箱の『錠前』になっているのよ。あの霧をどうにかしない限り、辿り着くことは不可能。……これは、そのための鍵よ」
「ははっ! ボスよぉ。今までで一番楽しそうな、狂った顔してるぜぇ?」
「ふふっ! 当然よ。……もうすぐ、大好きなあの子に、ようやく会えるんだから」
◇
――ジンさんの隠れ家から、少し離れた砂地。
「佐伯、七恵。……その女が、本当の黒幕なんだね」
「ええ。この恐ろしい災禍を引き起こし、一幸様をも殺した元凶。……美宇様のことすら、必要ないと冷酷に殺そうとしていたわ」
「美宇の、本当の母親なんだろ……。でも、もう僕にはそんなの関係ない。……それじゃあ、佐伯七恵を殺せば、すべてが終わるんだね」
蒼人はその漆黒の鞘から引き抜いた不完全な刃を、冷たく、静かに強く握りしめた。
――僕が。
――私が。
――私たちが。
――それぞれが捻れた愛を胸に宿し、あの不気味に輝く『祈りの丘』へと、至るために。




