第2話 雨が満たす欺瞞
菅井蒼人は誇りに思っていた。
観測者の名家に生まれ、尊敬する祖父の背中を追う日々。そして、自身の人生をすべて観測者として捧げる運命にあることに、1ミリの疑いも持っていなかった。
日々の訓練は、吐き気がするほど辛いものだった。
じいちゃんの厳しい教えに歯を食いしばり、何度も泥にまみれ、身体中に傷を負った。
それでも、楽しかったという記憶の方が多い。日々、自分の成長を肌で感じられることに、確かな幸せを感じていた。
退屈とは程遠い、満たされた日々だった。
初めて、トガビトを討伐した日。
俺は世界のすべてを手にしたかのような、傲慢な全能感で満たされた。武器を握る右手はより一層固く、唱える言葉は力強く変わっていった。
――異変の予兆は、天候から始まった。
あの日、前日に酷い大雨が降った。
夜が明けても町は濡れたまま、世界はしっとりと湿り気を帯び、ところどころ足が取られるような深いぬかるみが残っていた。
そんな中、町の外れに大きな亀裂が現れた。
じいちゃんは「放っておいていい」と言っていた。冷静に今思えば、わざわざ危険な町外れに飛び込む理由はどこにもなかったのだ。
「本当にいいのか?」
脳裏で、誰かにそう言われたような気がした。町の外れとはいえ、放っておけば誰かが襲われるかもしれない。正義感という名の、浅はかな慢心が、俺の耳元でそう囁いたのだろう。
じいちゃんに話せば、絶対に止められることは分かっていた。
だから俺は誰にも告げず、ただ衝動のままに家を飛び出した。
水たまりを跳ね上げ、亀裂が現れた場所へ一直線に駆けていく。
雨上がりの町は静まり返っていて、たった一人で世界を駆け抜ける俺は、まるで物語のヒーローにでもなったような高揚感に包まれていた。
姿を表したトガビトは一体のみ。それはただ、静かに佇んでいた。
「神装展開!」
僕は力強く唱えた。顕現した光の刃を握り、勢いよくトガビトに飛びかかる。
腕、足と、次々に切り落としていく。
終始、俺は戦況を圧倒していた。
「ほら、来て正解じゃないか」
バラバラになったトガビトに、勝利を確信しながら再び刃を突き立てる。
僕の顔は、確かに醜い笑みを浮かべていた。
……あの頃の僕は、ただ己の力を振るうための理由を探していたのだろう。町の人を守るため、なんて言葉は、ただの建前に過ぎなかった。
トガビトの死骸を囲むように、お札で円を描く。
「浄火」
左手を前に出し、唱える。
瞬く間にトガビトは青白い炎に包まれ、灰になって消えていく。
「ははっ。完璧じゃん」
討伐から浄火。完璧に仕事をこなした俺の気分は、有頂天に達していた。
しかし、その熱を無理やり冷ますかのように、ポツポツと冷たい雫が俺の頬を打った。
「雨だ。帰ろ」
俺はもう一人前だ。そんな万能感を胸に、振り返る。
それが、最悪の慢心であり、油断だった。
敵は一体だけだと思い込み、索敵を怠っていた。雨も降り出し、なおさら周囲の警戒を強めなければならなかったというのに。
――ゾクッ、とした刹那。
鋭い攻撃が、僕の頬を深く掠めた。
「っ……!」
咄嗟に俺は後方に飛び退いた。
傷口から滴る熱い血が、容赦なく降り注ぐ雨に流されていく。
急速に強まる雨足はカーテンのように世界の視界を奪い、敵の姿を完全に包み込んでしまった。
不意に受けた、確かな激痛。姿も、居場所も分からない未知の脅威。
それらは、積み上げてきた俺の安い自信を叩き潰すには充分すぎた。
バシャ、バシャ、バシャ――。
地面の泥を踏み抜き、確実にこちらへと近づいてくる足音。
心臓を掴まれたような、溢れ出してくる恐怖。
構える両手は、大袈裟なほど無様に震えていた。
漆黒の影が目の前まで迫り、俺は、自らの死を覚悟した。
……そこからの記憶は、ほとんどない。
ただ、嵐のような雨の音の向こうで、かすかに覚えているのは。
『蒼人、逃げて』
という、引き裂かれるような美宇の声だけ。
次に目を覚ましたのは、見慣れた自分の家のベッドの上だった。
じいちゃんは無傷の僕を前に、罵倒も説教もせず、ただ重い沈黙の中で見つめていた。
「……じいちゃん。美宇は? 美宇の声がしたんだ」
「……」
じいちゃんは何も言わず、僕の隣を指差した。
そこには――右目を失った美宇が、横たわったまま、僕を見て優しく微笑んでいた。
『蒼人……。良かった、無事で』
「っ……」
そう言って笑う彼女を前に、僕の声は形をなさず、ただ喉の奥へと深く沈んでいった。
美宇の右目を包む白い包帯が、痛々しく赤く滲んでいく。
その確かな残酷な事実と、美宇の笑った表情が、僕の目に焼き付いて離れなくなった。
……あの日から、僕は頑張ることをやめた。
◇
「神装展開――『雨櫻』」
脳裏にこびりついた雨の記憶を払うように、凛と唱える声が細い路地に響き渡った。
放たれた矢が三体の飛行型トガビトを貫き、一掃する。
大きく、美しい光の弓を携えた少女が、軽やかに僕の前に降りてくる。
彼女の名前は佐伯美宇。観測者の名家である佐伯家に生まれた少女だ。
僕との関係性としては、幼なじみ、腐れ縁、……そして、被害者と加害者の関係性。その程度だ。
「なにしてんのよ」
「なにって、見回りだよ」
何事もなかったかのように槍を消した僕に、美宇はなおも鋭い視線を向ける。
「そうじゃない。なんで、このレベルに手こずってるのって聞いてんの」
「いやー。……槍しかなくて」
「はぁ!? 馬鹿なの? 神装は二つ以上が基本でしょ?」
「そうだけどさ。大丈夫だと思ったんだよね」
「はー……アホね」
「そんな言うことないじゃん」
「準備不足。散々おじいさんに言われてるでしょうに」
「で、でも。無理だと思ったら逃げればいいんだよ。トガビトは時間が経てば消えるし」
「その油断一つで命を落とすのよ。わかってる?」
「わかってるよ……」
いつだって美宇の正論は、僕の胸の傷を正確に突いてくる。
「はぁ……。もういいわ。後でおじいさんに報告するから。とりあえず、トガビトの処理をしましょ」
「むぅ……」
気まずさを誤魔化すように僕が唸ると、美宇は三体のトガビトの残骸を円で囲むように流麗に式を刻んでいった。
「浄火」
美宇が唱える。式が鮮やかに発動し、トガビトが青い炎に包まれる。
「そういえば。ちゃんと浄火してる? 昔みたいにお札に書いて横着してないよね?」
「え。……し、してないよ」
「ふーん。そう」
危ない、と心の中で胸をなでおろす。
美宇はとことん規則に厳しい。教わった通りにしっかりとやる真面目な性格だ。
僕のお札だって、していることは同じだ。事前に式を唱えておいて、その炎でトガビトを浄火する。やり方が少し違ったところで問題はないはず。
それでも、バレると長々とお説教されてめんどくさいので、絶対に言わない。
「じゃあ、僕帰るね」
じいちゃんにも小言を言われて、美宇にまでこれ以上怒られるのは嫌なので、さっさと帰ることにする。
「それなら私も行くわ。蒼人のおじいさんともお話したいし」
「え」
「なに? 悪い?」
「いやいや……。そんなことないよ」
最悪だ、と内心で頭を抱えた。帰ると言った手前、もう逃げられない。一緒に行くしかなくなってしまった。
(じいちゃんに怒られる……)
「ちなみに今日のこともちゃんと話すからね。怒られても知らないから」
「……へーい」
諦めて歩き出しながら、僕は無意識に、美宇の右側に立って歩いていた。彼女の失われた「右の視界」を埋めるように。
「……まだ、そのクセ抜けないのね。もう大丈夫だって言ったじゃない」
言われて、ハッと気づいた。本当に無意識だったのだ。
「いや、つい」
「いつまで引きずってるの? らしくないわね」
「……」
気まずさに、僕は美宇から一歩離れた。
彼女の歩幅、冷たい眼帯、そして縮まらない距離。
……いや。
「やっぱ隣、歩かせてよ」
悩んだけど、僕はやっぱり距離を詰め、美宇の隣に立った。
今度は、自分の意思で。
「そう。……別に、好きにすれば」
美宇は前を向いたまま、そっけなくそう言った。
眼帯のせいで、その表情の半分はよく見えなかった。
◇
「ただいま」
あの後は何事もなく、見慣れた我が家に帰ってきた。
玄関に入ると、パタパタと小気味よい足音が廊下から向かってくる。
「おかえり、蒼人。あら、美宇ちゃんじゃない! 久しぶりね」
「お久しぶりです」
母さんの明るい声に、美宇の表情が少し柔らかくなる。
「どうしたの? あ! 蒼人と遊びに来たの? ケーキあるよ! 食べる?」
「いいんですか!」
「母さん! ……じいちゃんに会いに来たんだよ。かまわないでよ。美宇、行くよ」
美宇の嬉しそうな声に割り込むように、僕は母さんを急かした。
「まぁ、照れちゃって」
「そんなんじゃないって!」
僕はからかう母さんを振り切って、廊下の奥へと進む。
「反抗期? ダサいねー。おばさん、ケーキは後でいただきますね!」
「ええ。もちろん」
背後で二人がクスクスと笑い合っている。
「どうしたんですか? なんだか、嬉しそうですね」
「え? そう? 二人が小さい頃みたいに一緒にいるからかしらね」
「えー?」
「美宇! 早く行くよ!」
「わかったって。騒がなくても、行くわよ!」
「ふふふ」
母さんの楽しそうな笑い声が、静かな廊下にいつまでも心地よく響いていた。




