第12話 はじまりは蒼い虚しさと
「あー……腹減ったなぁ」
膝の高さまで積み上げた、悍ましいトガビトの骸の上。
雲の隙間から覗く冷たい月を見上げながら、僕はぽつりと、乾いた声を零した。
……ただの、醜い八つ当たりだった。
ヤガミ達が美宇を連れ去って消えた後、胸の奥から湧き上がるドス黒い怒りと悔しさを、僕は周囲をうろついていたトガビト共を無慈悲に蹂躙することで、強引に発散させていたのだ。
その証拠に、僕の右手には本来の神装である刀――『骸月』が、当たり前のような顔をして馴染み、握られている。
先ほどテンラと極限の死線を潜り抜けたことで、僕の心が力を拒絶する反応は、いつの間にか完全に消え去っていた。
「これから……か」
ふと、赤黒い血に濡れた『骸月』の刃を見つめる。
けれど、トガビトの濁った体液のせいで刃は酷く曇り、僕の情けない顔を映し出すことはなかった。
「……ギィィ」
不意に、僕が踏みつけている足元のトガビトの肉塊が、微かに蠢いた。
「……ん」
「……ギィィ、ギィィ……」
上半身だけになった化け物が、首を不気味に曲げて僕の顔を見つめている。
不思議なことに、いつもなら狂暴に襲いかかってくるはずの奴が、なぜか恐怖にガタガタと酷く怯えているように見えた。今の僕は、化け物から見ても、それ以上に恐ろしい異形に映っているのだろうか。
「……なんだよ。トガビトのくせに、変な反応してんなよ」
僕は冷酷に『骸月』を勢いよく振りかざし、その脳天へと真っ直ぐに突き刺した。
神装は恐ろしいほど簡単に、大した抵抗もなくトガビトの硬い肉を真っ二つに裂く。まやかしの槍とは完全に違う、これが本来の僕の、菅井家の力。
けれど、失ったものの大きさを前に、今の僕にはそれを喜ぶ精神的な余裕なんて、1ミリも残されてはいなかった。
「……とりあえず。家に帰ろう」
これから先、佐伯の組織を相手に孤独な戦いを続けるなら、当然、身体を休める拠点がいる。
……あんな風に完全に破壊されてしまったけれど、やっぱり、住み慣れたあの場所が良い。
僕は積み上げた骸の山から、無造作に地面へと飛び降りた。
「……いてぇ」
着地の瞬間、全身の筋肉に重い鈍痛が走る。
……お札の強化式の効果のおかげで、肉体の傷自体はとうに塞がっているはずなのに。肉体の内側にだけ、テンラの掌底や銃撃の衝撃による凄まじい痛みと、精神的な疲労だけがべっとりと残っていた。
僕は振り返り、自分が築き上げた凄惨な骸の山を見上げる。
「お札は……もう、一枚も無いもんな」
テンラにバッグごと撃ち抜かれたため、手元にはストックが全く無い。
僕は『骸月』の切っ先を、死骸の山の中心へと深く突き立てた。
「――『浄火』」
そう唱え、脳内で直接、炎の術式プログラムを描き出す。
新しく書き換えた脳内の式が、神経をつたって瞬時に刃の先へと伝わり、積み上がった死骸の山を青白い爆炎で包み込んだ。
ゴオオオ、と肉を焼く音が響き、山は瞬く間に、ただの真っ黒な灰の山へとその姿を変えていく。
夜風が強く吹き付け、遮るもののない屋上から灰がサラサラと虚空へと舞いあがっていく。
いつしか世界に溶けて消えるその灰が、どうやって消えるのか、どこに向かって旅立つのか。
今の空っぽになった僕の心には、何の感情も抱くことは出来なかった。
かつて初めてトガビトを討伐したあの頃の、傲慢な全能感はもう影も形もない。
今の僕の胸の奥にあるのは、ただ無力で、儚く、哀れな、剥き出しの殺意だけが、冷たく鳴り響いているだけだった。
◇
半壊し、瓦礫の山となった自宅の前まで戻ってきた。
向かう途中の道すがら、半分壊されたスーパーの無人の店内に立ち寄り、残されていた惣菜パンや、おにぎりを抱えられるだけ、無断でいただいてきた。生きるためには、形振り構っていられない。
普段なら帰るのが億劫になるほどの、我が家へ続くあの長い階段も、今はただ、虚しい歩数を感じるだけの静かな道のりだった。
「……ただいま」
壊れた玄関の前で、絞り出した僕の声。
けれど、いつもの母さんののんびりとした声が返ってくることはなく、言葉はただ、風の抜ける静まり返った部屋の奥へと通り抜けていくだけだった。
ガラス片や家具が無残に転がった床。僕は靴を脱ぐという日常の倫理を捨て、そのまま足を踏み入れる。
「……もう、家じゃないね」
靴の裏で、ガラスの破片をジャリッと踏み抜く無機質な音が、静かな家の中に不気味に響き渡る。
その壊れる音を耳にしながら、僕は迷うことなく、一直線に奥にあるじいちゃんの部屋へ向かって歩いて行った。
「……他の、温かい日常の思い出が残る部屋にいると、色々と思い出しちゃうなぁ。だったら、最初からずっと、じいちゃんが死んだこの地獄の部屋のままの方が、まだマシだ」
部屋の扉は衝撃で外れ、開いたままになっていた。散らかった室内の様子がよく見える。
入ってすぐの床に、先ほど置いていってしまっていた、じいちゃんのあの傷だらけの右腕が目に入った。
「ごめんね、じいちゃん……。待たせて」
僕はその冷たくなった腕を、両手でそっと優しく抱きかかえた。そして、再び頭の中に直接、丁寧に式を描いていく。
「――『浄火』」
静かに発動した青い炎に包まれ、じいちゃんの腕は、僕の手の中で熱を失い、静かに綺麗な灰へと変わっていった。
灰は僕の指の隙間からサラサラとこぼれ落ち、床のコンクリートの亀裂を通って、世界のどこかへと消えて行ってしまった。
……泣くこともできず、今はただ、その魂が安らかな眠りにつくことだけを、静かに祈る。
ふと見上げれば、崩壊した壁の大穴から、冷たい月がこちらをじっと顔を覗かせていた。
青白い月明かりは、じいちゃんの灰が消えて、完全に空っぽになってしまった僕の掌を、意地悪く照らし出していた。
「ははっ……」
お前はもう、この世界で完全に独りぼっちになったんだと、月が冷酷に告げているような気がした。
灰のこぼれた床の床に、耐えかねて両膝がガクリと崩れ落ちる。
急激に押し寄せる孤独の恐怖と絶望で、胸の奥がキュッと締め付けられて苦しくなる。
目頭が熱くなり、溢れそうになる涙を、僕は奥歯を噛み締めて必死に堪えた。泣いたら、そこで心が折れてしまう気がしたから。
「テンラ……ヤガミ……ミクライ……佐伯、一幸……。全員……、一人残らず僕がこの手で殺してやる」
涙の代わりに、胸の奥から湧き上がる哀れな殺意で、自分の心を無理やり塗りつぶしていく。
「はぁっ……。よし……」
僕は感情を強引にリセットするように、右手を振りかざし、勢いよく床のコンクリートをバンッと叩いた。
そのまま、周囲の床に散らかった家具の破片や本を、邪魔だとばかりに横へ乱暴に振り払う。
少しだけスペースの空いた床の上に、無造作にあぐらをかいて座り込んだ。
「あいつらを殺すんだろ……? じゃあ、泣いてる暇なんてない。ちゃんと、次の戦いの準備をしなきゃだろ」
奪ってきた惣菜パンの袋を、プラスチックの音を立てて無造作に引きちぎる。
そのまま、味もしない塊を、一口大きく噛み砕いた。
「この地獄も全部……、僕が……この身体で喰らってやる」
壁の穴から見える、あの冷たい月も。
世界の中心で燦然と不気味に輝く、あの祈りの丘も。
僕の目に映る理不尽な世界の全てを、今度は僕が壊してやる。
その強烈な、黒い思いだけが、空っぽになった僕の心をみるみるうちに塗りつぶしていった。




