73 山根崎教授
登山道を駆け下りると、顔を刺すような冷たい風が吹き抜け、雪がちらちらと降り始めました。めぐみとエドウィンは車に乗り込み、20分ほど運転すると、山間の別荘にたどり着きました。
木立の間にひっそりと建つ洋館風の建物。その前に、毛糸の帽子を目深にかぶった年配の男性が肩をすぼめて立っていました。グレーのダウンの下から覗いた鼻の先が真っ赤です。
「ドクター・ヤマネザキ」
とエドウィンが声をかけました。
「おお、エド先生、来てくれましたか。助かったよ」
そこに立っていた人こそが、京都大学の数学者・山根埼教授でした。学問の世界では名の知れた存在ですが、日常のことになると、てんで頼りないという噂は本当だったようです。
家の中に案内されると、玄関から廊下にかけて水の染みた跡が点々と残り、家具が妙な位置にずれていて、さぞてんやわんやの一騒動があったことがわかりました。
「ずいぶん濡れましたね。どこから水が出たんですか?」
「それが、よくわからんのだ。夏に来たときに、水抜きを忘れてしまったらしくてな。息子が元栓は締めたと言っていたが。まあ、この有様で」
教授は頭をかきながら、どこか居心地悪そうに立ち尽くしています。
「しかも、エアコンも動かん。寒くてどうにもならんのだ」
エドウィンがあちこち見て回り、風呂場近くの押し入れの壁から水が噴き出した形跡を見つけました。
「ここだと思いますが、壁を一部壊さないといけません。修理業者を呼ぶしかなさそうです。教授、業者の知り合いはいらっしゃいますか?」
「いや、知らん」
「では、わたしが調べてみます。大晦日なので時間がかかるかもしれませんが」とめぐみがスマホを見せました。
「すまん。よろしく頼む」
「それから電気もつきませんが、ブレーカーの場所はどこですか?」
「ブレーカー?それも知らんのだ」
エドウィンが天井近くの壁を確認すると、ブレーカーのありかを見つけました。スイッチを上げると、「ブーン」と音を立てて部屋の照明が一斉につきました。
「おお、明るくなった。直ったか」
「でも、エアコンはまだ動かないですね。ちょっと点検してみます」
エドウィンが椅子に乗り、エアコンの内部を確認すると、湿気のせいか、内部に露がびっしりついていました。
「やはり、湿気がこもっている。このあたりは湿気が多いから」
「かみさんが煙突の掃除が面倒だというから、ドイツ製の薪ストーブを入れたんだが、それも面倒だと文句を言われて、結局エアコンに替えた。ところが、これだ」
めぐみがスマートフォンを片手に戻ってきました。
「来てくれる業者、見つかりました。少し高くなりますが、二時間後に来られるそうです」
「助かったよ。料金はかまわん」
「ご家族の方は?」
「寒いからみな帰ってしまった。息子夫婦と孫ふたりが一緒にやって来たんだが、ひとりが風邪ぎみでね。かみさんもついて帰ってしまって、わしひとり置き去りになり、どうしたらいいのかわからなくて、きみたちを呼んでしまったんだ」
教授は申し訳なさそうにうつむき、足元の床を小さく蹴りました。靴の裏に張りついた氷がパリッと音を立てました。
エドウィンに頼まれて、めぐみがヘアードライヤー探してきました。
「椅子に乗って、エアコンの中を乾かして。ぼくは外から薪を運んできて、薪ストーブをつけてみるから」
「わたし達、何かと、ついてないわね」
「ここまで来られただけでも、ラッキーじゃないかい」
とエドウィンです。
たしかに、そうかも。1年前は登山など考えてみいなかったのに、竜ヶ岳に登れただけでも、すごい快挙かもしれないと思いました。でも、この状況は、おもしろくはないけれど。
「えっちゃんは、いつでも、前向きな人ね」
「いつでもじゃないよ」
「わたしが知っているかぎり、いつでもポジティブ」
「メグがいる時だけ、ポジティブなんだよ」
「茶化さないで」
「ちゃかすって、何?」
「冗談で逃げること」
何も逃げていないけどな、とエドウィンは思いました。
「富士山の頂上からの日の出が見たかったら、今度は夏にトライしよう」
「そうね」
「日本一の山は、そんなに簡単じゃない」
「富士山とは比べものにならないけど、青ヵ岳もなかなかいいわよ」
「それもいいね。ユリシスが見つかるかもしれないし」
4時半頃、壁はぶち抜かれましたが、新しい水道管の部品が取り付けられ、水が使えるようになりました。薪ストーブで部屋が暖かくなると、エアコンも動き始めました。炎の揺らぎが壁に影を落とし、時計の針の音だけが静かに響きました。めぐみが温かい紅茶をカップに注いで教授の前に置くと、彼は小さく礼を言い、それを手に取りました。
「教授、子どもの頃のこと、もう少し聞かせてくださいませんか」
とめぐみが言いました。
教授は一瞬、視線を遠くに投げ、それから語り始めた。
「わしが育ったのは、山奥の炭焼き小屋のようなところだった。父は早くに亡くなり、母ひとりで4人の子を育ててくれてね。冬になると、囲炉裏の火だけが暖房だった。畳もない床に、新聞紙を敷いて、その上に布団をかぶって寝たよ」
エドウィンがそっと身を乗り出しました。
教授の語り口は静かでしたが、ひとつひとつの言葉が胸にしみこんでくるようでした。
「高校まで通えたのも奇跡のような話だった。勉強をしたくても、家では弟や妹が泣いていて、静かな場所がなくてね。夜になると、納屋に行って石炭ランプの下で教科書を読んだ。寒くて指がかじかんだが、それでもページをめくるのは楽しかった」
「大学に行きたいと言って勉強したいと言った時、周りはみんな反対したよ。数学以外は成績もよくなかったから、贅沢言うなと言われた。でも、母が、許してくれたんだ。自分がもっと働くから、勉強しなさいと」
教授の目元がふっと緩み、炎に照らされた皺がやさしく浮かび上がりました。
「あの時、母だけがわしを信じてくれたから、今のわしがいる」
外では風が枝を揺らし、雪がまだ降り続いていました。
「教授、ありがとう、その話……」
エドウィンが言葉を探しながら言いました。
「いや、ただの昔話さ。こうして火のそばで話したから、思い出しただけだよ」




