72 いよいよ登山
車の中で、おしゃべりを続けていたら、竜ヶ岳に着きました。
まだ10時前です。山を登って、下りてきても、4時間はかからないはずです。
竜ヶ岳の駐車場に車を滑り込ませると、キンと研ぎ澄まされたような冷気が、一気に車内へと流れ込んできました。肺の奥まで澄んだ空気が入ってくる感じです。見上げれば、冬の空は吸い込まれるようなコバルトブルーで、太陽の光が、朝の白い山肌に、淡い光の筋を描き始めています。
駐車場には、すでにふたりと同じように登山をしにきた者たちの車が何台も停まっていました。フリースやダウンに身を包んだ登山客たちが、それぞれの車のそばで準備をしています。
竜ヶ岳から見える富士山、きっとすばらしいわ。
ダウンを着て、黄色いニット帽をかぶったえっちゃんの姿を見て、めぐみの顔から、思わず笑いがこぼれました。
めぐみは登山靴の紐をぎゅっと締め上げ、リュックの最終チェックをしました。登山道の入口では、足元に土と落ち葉が広がっていて、踏みしめるたびに「サクッ、サクッ」と乾いた音を立てます。道の両脇に立つ木々は、昨夜の雪を薄くまとい、まるで白い粉砂糖をまぶしたお菓子のようです。風に揺れるたびに、キラキラと細かな氷の粒を降らせています。
楽しい歩きになりそう。
めぐみが先に歩きましたが、エドウィンを振り返ると笑顔でした。彼も、楽しくてたまらないという顔をしていました。
でも、まだ30分も歩いていないのに、電話が鳴り、えっちゃんが答えています。
「またキリタニ先生?」
会話が長いので、めぐみが足を止めました。
「ビッグトラブル」
電話を切ったえっちゃんが言いました。
「何か起きたの?」
「山根埼教授の別荘で、水道管が破裂したそうなんだ。すぐに来てくれって言ってる」
「それって、業者を呼ばないと、直らないんじゃない」
「うん。それに、エアコンが故障して、暖房が入らない」
「水なし、暖房なし、ということね」
「うん。メグには悪いけど、登山は中止にして、教授のところへ行かないとだめだろう」
「そうね。でも、わたし達が行ったとして、何ができるかしら」
「孫が寒がって帰ると言って泣いているそうなんだ。山根埼教授、数学以外のことは、何にもできない人だから」
「行くしかいわね。でも、その教授にしても、キリタニ教授にしても、偉い学者なのに、なんか変わっているね」
「言えてる」
というわけで、ふたりは駐車場に引き返し、きらきら輝く竜ヶ岳を後に、本栖湖の山根埼教授の別荘に向かったのでした。
竜ヶ岳の登山はうまくいくと思ったのに、歩き始めた直後でだめになりました。困っている人は助けなければならないけれど、めぐみだって、えっちゃんとの登山をすごく楽しみにしていたのでした。
ついていないなぁ。
えっちゃんとは、なにか、うまくいかないような気がします。




