7 くるみママの後悔
その朝、めぐみ先生が教室に行くと、くるみの席が空いていました。
連絡がないけれどどうしたのかしらと思って窓の外に目をやると、校門の前に車が止まりました。中からくるみが下りてきたのですが、くるみママの車はすぐに去っていきました。
くるみは少し、びっこを引いています。おでこの横には、大きなばんそうこうがはってあるようです。
「ぼく、行ってくる」と明夫が走っていきました。
めぐみ先生も、みんなも、その後を追いかけました。
「うちの階段の下のほうでつまずいて、ドアの角におでこをぶっつけちゃっただけ」とくるみが言いました。
「ちょっと見せて」とめぐみ先生がおでこの傷を見て、念のために保健室に連れていきました。
保健室の中田道子先生は傷をみて、「まっ、これは大丈夫でしょう」と言いました。くるみ本人もただの事故だと言っているし、これまでも怪我はなかったから、家庭内暴力があったとは考えられませんとのことです。
めぐみ先生はくるみを先に返して、中田先生がくるみ一家のことを教えてくれました。
くるみは2年生の春に、東京から転校してきたのです。めぐみ先生がここに赴任する1年前のことです。
お父さんは画家で、本当のお母さんはくるみが幼稚園の頃に亡くなり、今のお母さんは二度目のお母さんです。
今の世の中、絵を描くだけで生活するのはなかなか大変なので、お父さんは週に何度か町の絵画教室で教えています。
けれど、お父さんは絵のほかは何もできない人なので、教室の準備や管理などは、すべてお母さんがやっています。それに、4歳になるエリカという娘がいるので手がかかることもあり、お母さんはいつも忙しいのです。
くるみと新しいお母さんの関係はとてもよく、お母さんはくるみの面倒をよく見ているようです。でも、去年の夏、くるみが学校に来なくなったことがありました。担任の先生も心配して、家庭訪問したのですが、その理由はわかりませんでした。
でも、2週間くらいたって夏休みにはいり、新学期になったら、元気に登校してきたので、心配することはないようねと思ったのです。
「今は、注意深く見守りましょう」と中田先生が言いました。
「そうですね」とめぐみ先生が答えました。
めぐみ先生が一度、家庭訪問をしようと考えていると、くるみママから「明日の午後に会いたい」という連絡がきました。
もしかして、くるみママはモンスターペアレンツなのかしら、とぎくりとしました。
くるみちゃんの傷を疑って、中田先生のところに連れていったことに対する抗議かしらと思いました。
あの話にきくモンスターペアレンツが、ついに自分のところにもやってくるのかしら。とにかく、生徒の安全を守ることが第一なので、がんばるのみと腹を決めした。
翌日の午後、くるみママのまり子さんがやってきました。
まり子さんは眉を八の字にして、きびしい顔をしています。
「くるみのけがは、わたしのせいだと思っておられますか」
「心配でしたので、専門の先生にたしかめました。今はそうだとは思ってはいません」とめぐみ先生は正直に答えました。
「あの怪我は本当に、くるみが階段を踏み外した事故です。でも、私は継母なので、こんなことがあれば、いじめているとうたがわれることはわかっています。でも、私はめぐみのことは一生懸命に育てているつもりなんです」
「はい。お子様がふたりいらして、お仕事もなさっていて、大変なことでしょう。よくやっていらっしゃると思います」
めぐみ先生がほめると、くるみママはほろほろと涙を流しました。想像していたまり子さんとは違います。
「私はだめな母親なんです」
まり子さんが沈んだ顔をしました。
「どこがですか」
「私は意識をすれば、よい母親でいられるんです。でも、無意識のところでは、わかりません」
まり子さんが意味不明のことを言いました。
「どういうことでしょうか」
去年の夏のこと、まり子さんの短大の同窓会が東京でありました。長いこと出席していなかったのですが、今年はどうしても友達に会いたくて、絵画教室、ベビーシッター、食事のことなど、前からいろいろと手配をしました。
それで、その日はひとりで東京に行って、友達と楽しい時間を過ごすことができたのです。
「その翌日、天気がとてもよかったので、家族みんなで川に行きました。主人はスケッチブックをもち、私は昨日の留守番の感謝をこめて、お弁当を作りました。久しぶりの家族の時間でした」
まり子さんが川の大きな石の上に乗ってみた時、足がつるりとすべりそうになりました。その時、まり子さんの身体は大丈夫でしたが、ハンドバッグを川の中に落としてしまいました。
「パパ、バッグが」
「どこだ」
めぐみパパが駆けつけて、急いで拾いあげたので、ハンドバックは流されずにすみました。でも、中のものがびしょびしょにぬれてしまいました。
バッグの中には、紙幣はそれほどはいっていなかったのですが、写真が8枚はいっていました。同窓会にいく時に、友達に見せようと、もっていったものでした。
ぬれた写真を大きな石の上にのせてかわかすことにしました。
「その時、川原にいたくるみが、手伝いにきてくれました」
でも、その写真を並べていたくるみの顔色が変わりました。
「どうして、わたしの写真だけがないの?」
8枚のうち7枚エリカの写真で、もう1枚が父親とエリカの写真だったからです。
「くるみちゃんのは、別のところにいれてあるの」とまり子さんは答えましたが、大きな間違いをしたことに気がつきました。
あの写真は出がけに急いで写真をハンドバッグにいれたのですが、なぜくるみの写真をいれなかったのか、自分でもわかりません。
「わたしの写真はどこにあるの?見せて」
くるみがまた聞きました。
「うちにあります」
「ううん。ママはわたしの写真は持っていかなかった。エリカがかわいいから、エリカの写真だけもって行ったのよ」
くるみは大声で泣きました。
まり子さんは何と言ってよいかわからず、気まずい空気が流れました。
「そんなことぐらいで泣くな」とパパが怒鳴ったので、雰囲気がますます悪くなり、最悪な休日になってしまいました。
「それから、くるみは学校へ行かなくなり、夏休みにはいっても、私とはひとことも口をいてくれませんでした。でも、明夫くんがきてくれるようになってから、だんだんと元気をとり戻してくれました」
くるみは明夫には本当の気持ちを話し。明夫が慰めてくれたのでしょう。
めぐみ先生は明夫くんの「次の子供が生まれても、同じように愛するんじゃ」という言葉を思い出していました。
「私は意識をしていないと、こういうことをやってしまうひどい母親なんです。もし川の中で、くるみとエリカがおぼれていたら、私はエリカを助けてしまうかもしれません」
「そういうたとえはよくないですよ」とめぐみ先生が言いました。
「そうなのですか」とまり子が驚いた目をしました。
「そういう考えは、自分を苦しめてしまうと思います。ふたりを同時に助ける方法を考えましょうよ。とにかく、写真のことを忘れるわけにはいきませんか」
「そのこと、忘れていいんですか」
くるみママがちょっと大きめの声で言いました。
「わたしは、忘れてよいと思いますけれど。お母さんはどう思いますか」
「そういう選択もあったのですね。目からウロコです」
「人間は、毎日、人を傷つけたり、傷つけられたりして生きています。傷つけていない人、傷つけられていない人なんかはいないでしょうし、人はそこから強くなるんですよね、きっと。わたしは経験も知恵も少なくてましなことは言えないのですが、つらい思い出は、忘れちゃってよいのではないでしょうか」
めぐみ先生は自分でそう言いながら、前に進むためには、忘れなくてはならないこともあるのだわと思いました。




