31 エドウィンからの電話
ルツ子さんが帰った後、めぐみは台所を片付けて、お風呂にはいりました。髪をかわかしながら時計を見ると、もう時刻は11時を過ぎています。
ニューヨークだと朝の9時頃。
あちらは1日遅れなので、今日がサンクスギビング、休日の朝です。
父親、兄の洋、友達に、「ハッピー・サンクスギビング」のメッセージを送りました。
すると、すぐに電話が鳴りました。
誰かと思ったらエドウィンでした。
「メグき、まだ寝ていなかったの?」
「えっちゃんはもう起きていたの?そっちはホリデーでしょ」
「うん。昨日は大学に泊まったから、これから帰るところなんだ」
えっちゃんはペーパーを書いていて気がついたら夜中になっていたので、大学にいることにしたのです。
「統計によると、アメリカでは1日に1件はどこかで襲撃事件が起きている。1日に、44人が撃たれて死んでいるそうだ」
「そういうところ、アメリカはこわいね。えっちゃんは大丈夫?」
「気をつけているよ。正直、治安が悪い」
「研究室、寒くなかった?」
「ちょっと寒かった」
「わたし、寒いの苦手」
「知ってる。カリフォルニアの大学から来ないかって、誘いがきた。あそこは、あったかいよ」
「いいね、カリフォルニア好き。行くの?」
「考えているところ」
「えっちゃんがカリフォルニアに行ったら、遊びに行くね」
「うん」
「サンクスギビングはどうするの?」
「これから部屋に帰って、シャワーを浴びて、それから、同僚の家に行こうかと思っている」
「メーシーズのパレートは?」
「行かない」
「あんなに好きだったじゃない?」
「ひとりで行っても、つまらない。あれはおもしろい人と行かないとね」
「そういうもん?」
めぐみはちょっと考えて、「わたしって、おもしろい?」とききました。
「うん。どうして」
「今日言われたのよ、おもしろいって」
「だれに」
「クラスの生徒たちに」
「どうして」
「今日ね、生徒に感謝するものは何かってきいたら、先生だっていう答えが返ってきたの。このメグ先生だって」
「すごいじゃないか」
「だから、どうしてって聞いてみたら、おもしろいからだって」
「生徒たちはいいところ、見ているじゃないか」
「喜んでいいのかしらね」
「うん。そっちに行ったら、メグの生徒たちに会いたいな」
「冬休みは24日から1月5日まで。えっちゃんに時間は、あるの?」
「うん。メグが教室で教えているところも見たいし」
「どうして。それはノーです。やめてください」
「ところで、メグはターキー食べたの?」
「日本には、感謝祭もターキーもないよ」
「テレビで、あるって言ってたよ」
「それ、東京の若者のことでしょ。ここは田舎だから、そういうものはないの。でも、友達が来て、お好み焼きを食べたわ」
「だれ」
「すぐだれっていうの、悪いくせだよ。来たのはレデイのポリス」
「最近、ポリスの知り合いが多いね。悪いことやって、目をつけられてる?」
「つけられてないわよ。その人は富士山に登ったことがあるんですって。山小屋のふとんがすごくくさいとか、ものすごい人で、大渋滞で、頂上のカップ麺が高いとか、いろいろ教えてくれた」
「明るい情報はないのかい」
「日の出は感動的で、忘れられないって」
「楽しみだね」
「うん。がんばります。ところで、ソフィアはどうしてるの?」
ソフィアはえっちゃんのフランス人のガールフレンドです。たぶん。めぐみのカンです。
フランスでは大砲の飛距離の計算から数学が盛んになったと言われていますが、その歴史は長く、レベルも高く、エドウィンも時々、パリに出かけるのです。そう、えっちゃんはフランス語もできます。
「ああ、元気だよ」
「トレビアン。ところで、えっちゃんが感謝したいものは何?」
「うーん、宇宙」
「いつも難しい答え。普通の頭では、ついていけない」
「人間をあげるとね、モロゾフ先生」
モロゾフ教授はМ大学数学科の部長で、エドウィンがハーバードに来るチャンスを作ってくれた人です。でも、エドウィンがМ大学の学生だったわけではないのですが。
「メグ、今、あくびしただろ。もう寝なよ」
「そうだね。また遅刻するとまずいから」
「したの?」
「うん、やっちゃった。すごいスピードで走ったから、ころんで、足にけがをした」
「ひどいの」
「かなりね。傷ものだわ」
「何針?」
「そういうのはない」
「そっか、よかった。気をつけな」
「わかった。じゃ」とめぐみが電話を切りました。
エドウィンはスマホをにぎりしめながら、ある寂しさを感じていました。でも、長い間こうやって暮らしているので、こういう経験は何度もあります。
これからも、こういう孤独の中で生きていかなければならないことは知っています。孤独という部屋の中で、数学の花は芽を出すのですから、ひとりはきらいではありません。




