10 松葉杖の人
ハルジオンの人はめぐみと同じ駅から電車に乗ります。
でも、めぐみのほうが早くおりるので、その彼がどこで、何をしている人なのかは知りません。
めぐみは好きになったら、その心が伝わって、相手もわかってくれるものだと思っていましたが、それはなかったです。何かすてきな偶然が起こるはずだと期待していたのですが、そういうこともありませんでした。
相手のことを何も知らないまま、口もきかないまま、2ヵ月が過ぎました。
めぐみは自分でもおかしいと思うのですが、朝がきて、今朝もハルジオンに会えるかもと思うとわくわくして、さっと起きられます。そして、その後ろ姿を見つけると、ついにこにこしてしまいます。
それほど楽しみにしていた朝なのに、ある日から、いつもの駅への道に、ハルジオンの姿がありませんでした。駅のホームにもいません。
次の日も、その人の姿がありません。
1週間がたち、1ヶ月がたち、2ヵ月がたち、夏休みになりました。
たぶん彼はサラリーマンで、出張でどこかに行っているのかもしれません。もしかしたら、遠い外国へ行ったのかもしれません。
そのうちに、帰ってくるのかしら。転勤しちゃったのかなぁ。
でも、もしかしたら、ハルジオンは本当は意地悪な人なのかもしれないし、キモイ人かもしれないから、これでよかったんだと思ってみました。
でも、やっぱり好きだなと思いました。
このまま一生、会えないのでしょうか。
そうもしかしたら、結婚しちゃって引っ越ししたのかもしれません。友達にはなれなかくてもいい。あの後ろ姿をみるだけでいいから会いたいなと思いました。こういうのって失恋なんでしょうか。中身のない失恋でした。
夏休みが終わり、また大学に通う日々が始まりました。その頃にはハルジオンのことはほぼ諦めていて、後ろ姿を探すこともしていなかったのですが、ある日、目の前に、あの見たことのある後ろ姿がありました。
ハルジオン、いました。
ところが、その彼ときたら、松葉杖をついているではないですか。
「どうしちゃったんですか、その足」
めぐみは駆けていって質問しました。
恥ずかしいことも忘れ、「おはようございます」の挨拶もスキップです。
彼がすごく驚いていたのを見て、それは急に声をかけられたら驚くだろうなと思いました。
「すみません」
めぐみは正気に戻って、穴があったらはいりたいというのはこういう気持ちなのだろうと思いました。
「ずっとお見かけしていなかったので、どうなさったのかと心配していたのです」
「すみません。足を骨折しちゃって」
「ああ。あのスケボーですか」
兄の洋がスケートボードで骨折した松葉づえをついていたことがあるからです。
えっ、と彼が驚きました。
ばかなことを言ってしまったとめぐみは後悔しました。再会できたというのに、失敗の連続です。
「いやぁ、木に登ろうとして、はしごから落ちました、はでに」
「木からですか」
「はい。エノキの木です」
「なぜ」
「チョウが好きな木なので」
「ああ」
やっぱりハルジオンはチョウチョが好きな人でした。その会話がきっかけで、一緒に駅まで行き、電車に乗る日が続き、だんだんと知り合うようになりました。
ハルジオンは中川樹という昆虫学者で、本も書いている人でした。
いつきさんは昆虫の中でも、チョウチョが大好きで、いろんなことを教えてくれました。だから、めぐみもチョウチョについては少し知っているのです。
「わたし、童話作家になりたいんです。でも、無理ですけど」と言うと、「無理じゃない。応援するよ」と言ってくれました。
こういう楽しい日々がこれからずうっと続くと思っていたのに、その冬に、いつきさんは青ケ岳で遭難して、死んでしまいました。クリスマスイブをいっしょに過ごそうと約束していたのに。
めぐみは大学を卒業した後、ニューヨークの父親のところに行きました。
母もいつきさんもいなくなった日本が、さみしすぎたからです。アメリカに行っても、さみしさは変わりません。時には働こうかと思ったりはするのですが、心がやる気を出してくれません。
2年くらいはぼんやりと、ただずるずると生きていたのですが、ある時、徒然、もっとがんばろうと思いました。
めぐみは日本に帰って、小学校の先生になろうと決めました。決心してから2年後、めぐみは教師試験に合格して、大つた村の下藤小学校にやってきたのです。




