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お医者さん、ほんとに認知症の人に責任者をさせて大丈夫なの?

ニコマートの板橋営業所は、池袋の大きな商業施設の一角にある。コンビニの御三家の一つであるニコマートは、本社も池袋にあったが命令系統は、例え同じ町にあったとしても、別である。板橋営業所は東日本ディクストリの本部の下にあり、本社から直轄ではなかった。板橋営業所長の勝沼の野心は本社への異動であった。しかし、それには今より多くの営業実績を挙げなくてはならなかった。店舗数を増やすことは、ロイヤリティーの売上を増やし、新たな在庫を持たすことは、仕入れの売上による利益を増やすことになる。花山オーナーが経営する新土手1丁目店は代表的な黒字店舗であった。しかも、最近まで毎年売上を増やしていっていた。そこと商圏が近接する新土手2丁目店への出店は、新土手1丁目店の売上を食う可能性が高く、本来なら花山オーナーは難色を示したはずだった。だから、どうしても花山オーナーに契約をさせる必要があった。それに、あまりにも大きな黒字を出している新土手1丁目店の利益を2丁目店と分割させ、在庫とロイヤリティーを増やすことは板橋営業所にとって大きな利益を生むことになる。花山オーナーが老齢で、物忘れがひどくなっていることは勝沼たちにとって、好機であった。口頭でなら、どんな美味しいことを言っても後でどうとでも言いくるめられるからだ。そして、とうとう、5か月前に新土手2丁目店の開店をさせることができた。店長は王店長の甥だった。但し、やはり、新土手1丁目店の売上を食うことになった。今まで新土手1丁目店で昼の弁当を買っていた新土手2丁目店の周囲のビジネスマンが新土手2丁目店に行くようになったからだ。しかし、それ以外の時間は集客が極端に低かった。王らは、自分たちの一族のものを正社員雇用にした。通常のコンビニでは、正社員は店長くらいだが、彼らは自分たちの親族の店員を9人とも高い時給で社会保険など正社員と同様の待遇で雇った。それで、仕事はというと、殆ど客のない新土手2丁目店に不要な人員配置を行っていた。それらは、店舗の損益データを見れば一目瞭然にわかることだった。しかし、勝沼も石田も花山オーナーにそれについて何もアドバイスなどしない。なぜなら、それによる経営上の損失は花山金太郎の会社が負うものであり、自分たちには関係のないことだったからだ。

勝沼はロイヤリティーや、仕入れの売上を見ながら、ニコニコしていた。これで、次の異動は期待できる。そんな思いに浸っていると、携帯の呼び出し音が鳴った。石田からだった。

「どうした?」

「花山オーナーが高齢者長寿医療センターの物忘れ外来を受診したそうです。」

「……まずいぞ。2丁目店のこともあるから、診断でもでたら、こまったことになる。」

「医師に診断書を出さないように、話をつけましょう。それさえ、出させなければ、こちらはどのようにでも言い抜けられます。」

「うむ。」

「何か伝手がないか、探ってみます。」

そういうと、石田は電話を切った。勝沼は胃がキリキリといたむような気がした。


次の週、丁度1週間の時間が流れていた。高齢者長寿医療センター、物忘れ外来の初診を担当するのは新田医師だった。新田は30代後半で中肉中背、但し、頭髪はあまり豊ではなかった。新田は、頭髪のことを言われると機嫌が悪くなる。でも、概して患者や家族に対しては柔らかく丁寧な対応を心がけていた。今、新田の前には先日、新患の付き添いできた中国人と見知らぬ日本人の男たちが座っていた。男たちは王店長と石田SVだった。

「どういうご用件なのでしょうか?」新田の声は当惑していた。

「実は、先生が診察された花山金太郎さんのことで事情をご説明したく、参りました。」石田はニコマートの名刺を出しながら話しだした。

「ニコマート?」

「はい。実は花山金太郎さんは、大変に慈愛深い方で、外国人労働者を好条件で雇用されています。しかし、それをよく思わない人がいるのです。」

新田は、王店長を見た。王は悲しげな必死な表情で頷いた。

「オーナーはイイヒトだよ。」

「花山さんの会社は2人株主、役員の法人なのですが、もう一人の役員であり、株主の此花美子さんは外国人雇用には反対されているのです。」

「オーナーがイナクナッタラ、俺たちヤメサセラレルヨ。」

「そうなんです。此花さんが実権を握ったら、王さんたちは辞めさせられ、花山さんもどうされるかわかりません。」

新田は、先日の此花美子の様子を思い出してみた。此花美子はとてもそんな女性には見えなかった。どちらかと言うと、人の好さそうなおっとりとした人柄に見えた。しかし、ニコマートの石田が言うのである。真実は別にあるのかもしれない。

「先生が、どのような診断をされるのかは我々にはどうもできませんが、此花美子に診断書を出すことは拒否していただけないでしょうか?」

「誰か特定の方に拒否するということは、ちょっと……。」新田は少し考えて言葉を付け足した。

「しかし、一般的に家族の方の依頼以外は診断書は書きません。」

石田と王は顔を見合わせて、頷いた。

「それで、結構です。ありがとうございました。」

「センセイ、アリガトウゴザイマシタ。」

「我々が今日、先生とお話ししたことは、内密にお願い致します。」

新田医師は肯いた。


「美子、面倒をかけてごめんなさい。それで、今日はどうしたの?」

電話の声は海の向こうである。時刻は日本時間の深夜、アメリカは早朝だった。

「信子、今、話しても大丈夫?」美子は、慎重に話し始めた方が良いと思った。

「今日は、旦那も子供たちも朝早く出かけたから、今は私一人よ。」

「そうなの。実はお父様のことなんだけど……。」

美子は、花山金太郎が店への通勤途中で度々迷子になり、認知症の疑いがあることを話した。それに、勿論、王らの不審な行動についても相談した。

「とりあえず、区のお年寄りセンターに相談したのよ。そうしたら、介護保険の請求や、施設の入居についての相談やらを身内の人としたいと言われているの。」

「私、今は主人の仕事も子供の学校もあるから、帰れないわ。」

「じゃあ、どなたかあなたの代わりになる人いないかしら?」

電話の向こうで信子の言いにくそうな重い沈黙の時間が流れた。

「こんなことになるなんて、どうしたらいいのか、分からないわ。とにかく、美子、お願い、助けて。」

助けてと言われても、美子も困惑してしまった。王らの不審な行動までとなると、自分の手に余るような気がする。

「とりあえず、お医者様の診断が出たら、また連絡するわ。」

美子は国際電話を切り、長い溜息をついた。並子に相談しよう、それとニコマートにも、きっと大企業のニコマートなら相談に乗ってくれるはずだ。


その日、此花美子は不安な気持ちで高齢者長寿医療センターの入り口に立っていた。王が運転する例の車に送られて花山金太郎と新田医師の診断を聞きに来たのだ。診断が出たら、区のお年寄りセンターの相田に連絡が行き、介護保険の手続も始まることになっていた。金太郎は、あれから処方されたお薬を無理やり飲まされるようになり、薬の効果が出てくると、少し正気に戻ることがあった。今もそのようで、自分が病気だということを理解し、美子や王の指示に大人しく従っていた。

「ねえ、随分と大きな病院だよね。僕、そんなに大変な病気なの?」金太郎は無邪気である。

「ちょっと、大変な病気ですけど、お医者さんがちゃんと直してくれますよ。」美子は金太郎を励まそうと無理に明るく言った。王はよだれがでてると言い、金太郎の口元を手ぬぐいで拭いたり、服装を点検したり、かいがいしく面倒を見ていた。美子は、そのあまりにもべったりな態度に少し不快感を感じていた。彼女から見ると、王は他人である。しかし、自分には家庭もあるし、とても王のように自宅に足しげくは行けない。美子には区に相談することしか思い浮かばなかった。

「花山金太郎さん」受付の看護師が金太郎の名前を呼んだ。

診察室のドアを開けると、新田は診察用のパソコン画面から、患者の方を見た。

金太郎は、医師の前に置かれた椅子に腰かけた。

「先生、僕の病気はどうなんですか?」

新田医師は金太郎に優しい微笑みを浮かべ、答えた。

「やはり、認知症ですね。」

「それは、どういう病気なんですか?」金太郎は無邪気である。

「ちょっと、お薬を飲まなくてはいけませんよ。」新田は優しく諭すように金太郎に語りかけた。

「僕は、毎日、店に行って、仕事をしてます。」金太郎は、嬉しそうに話した。

「それは、いいですね。」新田も笑顔で応えた。

「ニコマートカラ、責任能力ガアルトイウ診断書ヲモラウヨウニトイワレテイマス」王はまず口火を切った。

新田は先日の石田、王との話を思い出した。しかし、そのような診断書を書くことは金太郎の不利益になる。

「できません。」新田はキッパリと言った。

「私は、共同経営者です。私が書いてもらいたいのですが。」

「できません。認知症だからと言って、仕事を取り上げることは人権にかかわります。」これは、王と石田の話からの答えだった。新田にとって、此花美子は冷酷な女なのだ。

「でも、お年寄りセンターの相田さんが介護保険の為の診断書が必要と言われています。」

「それは、こちらから直接相田さんに送ります。お薬を出しますから、ちゃんと服用を続けてください。言っておきますが、花山さんから仕事を取り上げるということは、病状の悪化を招くことになります。」

新田は、それ以上の言葉を許さないというようにカルテ用のパソコンに何やら文字を入力し、プリントアウトした処方箋を美子に渡した。


「なんですって?認知症の花山さんから仕事をとりあげるな、ですって?お医者さんがホントにそんなことを言ったの?どういうこと?」

並子は美子から話を聞いて思わず大声を上げた。

「それに、なんでニコマートが責任能力のある診断書なんて書けっていうのよ?ニコマートはもう知っているということ?」

「とにかく、明日にでもニコマートに電話してみるわ。わけが分からないもの。」美子は青ざめていた。

並子は美子を見つめながら、これはただならぬことが進行しているのかもしれないと思った。もしかしたら、ニコマートの担当者が関与しているかもしれない。

「お母さん、私に委任状を書いて。私が電話してみるわ。だって、お母さんはこういうこと慣れていないでしょう?」

美子は少し躊躇った。娘とはいえ、そこまで信用していいのだろうか?しかし、確かに並子の言う通りだ。

「わかったわ。お願いするわ。」

美子の声はしっかりとしていた。


「はぁ⁈ 責任能力のあるという診断書?なに馬鹿な事をいったんだ!」

新土手1丁目店の事務室では、来店した石田は思わず王を怒鳴りつけた。王はしどろもどろになりながら言い訳を始めた。

「ダッテ、認知症でもソウイウ診断書がアレバ問題ないだろうって、ミンナで相談シテ。ニコマートの指示ダトイエバ、アノお医者さんも書クカモシレナイとオモッテ。」

呂が夫を事務室と調理室を繋ぐ扉の影から心配そうに見ていた。

「・・・・」石田は、無言で頭を巡らした。これは、勝沼に報告しておかなくてはならない。勝沼は花山オーナーの認知症をあくまでも知らなかったことにしたいと言っていた。王がやったことは明らかにまずい。しかし、石田は王の不安そうな表情を見ながら自分の気持ちを押し隠した。

「王さん、分かった。これからは、こちらの指示しないことは勝手にしないでくれよ。」

王は、強く頷いた。王にとってニコマートの店長という立場な異例の出世だった。ニコマートに自分の能力を高く評価してもらいたい、それは密かな願望だった。

「ところで、新土手2丁目店の方は中々伸びないね?勝沼所長も心配していたよ。ランチ以外は全然だよね。」

「巧も頑張ッテイルヨ。金さんモテツダッテルヨ。」巧というのは王の甥の日本名だった。金というのは、呂の兄嫁の名前だ。王は自分の一族の人間を優先的に雇用した。彼らは強い同族意識で結ばれていた。なので、かれらの気に入らない店員は大変居心地が悪い思いをさせられた。一度、花山金太郎の知り合いの女性がバイトに入ったことがあったが、呂と王は彼女を目の敵にした。客の前でありもしないミスをでっち上げ、怒鳴り付け、とうとう彼女は辞めた。呂の気性の荒さも有名だった。呂は入店間もない頃、当時のマネージャーと争い、ボイコットをし、追い出したことがあった。その後、王の前の店長の佐野も金太郎にあることないこと告げ口をし、一族全員で佐野の指示を無視し、佐野はとうとう店を辞めたのだ。

石田は、何度か彼らの喧嘩に遭遇したが、ものすごく怒鳴り合いだった。彼らの激しい国民性は大人しい日本人にはとても敵わないものがあった。しかし、彼らのハングリー精神と親戚の多さは人手がない3Kのコンビニ業界では有難い存在だった。彼らが新土手1丁目店や2丁目店をどのように運営しようとも、店が回っていればそれでよかった。花山金太郎らが損をしようともそんなことは石田らの関知することではない。認知症などになるのが悪いのだ。こんないい立地をやらせてやっているのだ、それだけでもニコマートに感謝してもらいたいものだ。

「ところで、王さん。2丁目店の給料だけど、7月、8月、9月分売上から引けれてない件だけど。」

王の目がキラッと光って、呂をちらっと見た。

「巧ト吉田先生ト相談シマス」

「了解。いつ処理するか教えて」石田は言った。


大都市池袋、ここにニコマートの東京本社が入居するビルがある。その重役室では、専務の大熊が部下からの報告に頭を痛めていた。

「花山さんのボケがそこまできたか。」

「はい、専務は確か新人時代に花山オーナーの店舗を担当されたそうですね?」

「そうだ。あの頃は俺も若かった。コンビニという新たな事業を成功させようと必死だった。」

「花山オーナーはもともと高齢で法人契約でなければ、うちとのフランチャイズ契約はできませんでした。あの状態で何か重大な問題が起こらなければいいのですが。」

「花山さんは、離婚されていた。前の奥さんとの間に息子さんがいるよ。彼はうちと法人契約している会社の雇われ店長をしている。先日、彼に言ったんだよ。『親父の店を早く自分のものにしろ』ってね。」

「じゃあ、その方が後継者ですね。」

「いやあ、彼は言ってたよ。『親父とは関係ありません。』ってな。立派な息子だ。なんとか花山さんの店は血のつながった肉親に受け継がせてやりたいよな。」

大熊専務の言葉に部下は肯いた。


此花家のマンションは都心から電車で1時間ほどの都市計画機構によって開発された住宅都市にあった。その日、有給をとった此花並子は母と二人で家の電話機の前に座っていた。

「お母さん、かけるわよ。」

娘の言葉に美子は肯いた。

「もしもし、ニコマートですか?」

「はい、こちらはニコマートの新規オーナー募集の窓口です。」女性の声の応答があった。

「実は、そちらと既に契約している法人の関係者なんですが、担当のSVに連絡したいことがあります。どのようにしたらよろしいですか?」

「どのようなご用件でしょうか?」

「担当者にしかお伝えできません。板橋区新土手1丁目店のことです。」

「少々お待ちください。担当者につなぎます。」

暫く、待っていると今度は男性の声がした。

「営業本部の古井と申します。内容が分からないと担当に繋げません。」

「私は此花並子と申します。母の代理人としてご連絡をしています。母がそちらと契約している法人の役員をしているのですが、直接は担当の方と連絡したことがありません。お伝えしなくてはならないことがあり、電話をしています。」

「内容を話しなさい。でないと、担当には繋ぎません。」

そして、数分の沈黙が流れた。

「担当者でない方に連絡をしても、よいのでしょうか?企業によっては、それを嫌がる所もあると聞いています。」

「大丈夫です。話して下さい。」

「実は、代表者の花山金太郎さんに認知症の診断がでました。このことをお伝えしないことはそちらへの信義則違反になると思いまして、ご連絡しました。」

「わかりました。担当者に連絡をさせます。連絡先を教えてください。」

並子は自分の連絡先を伝えた。

「もしかしたら、既にご存じかもしれません。そちらの依頼でうちの店長が診断書が欲しいと医師に言ってましたから。しかし、母としては、そちらへの誠実に対応したいと考えてご連絡しました。よろしくお願い致します。」

「わかりました。こちらからの連絡をお待ちください。」

電話は切られた。

並子は、ニコマートの担当者に対して疑惑を感じていた。というのも、母の言葉が正しいのなら担当者は花山金太郎の責任能力があることの診断書を出せと王に命じた。それは、常識的に考えられないことだったからだ。認知症の診断が出る前ならば、まだ分かるが、出た人間にそのような診断書を出させるということは、金太郎に対して大変に不利なことになる。そのようなことを本当にニコマートの本社も知ったうえでやっているのだろうか?だから、敢えて本社を経由するルートを取ろうと思ったのだ。


その頃、ニコマート本社、営業本部では、古井が板橋営業所長勝沼へ電話をしていた。古井は約束をキチンと守ったのだ。

「勝沼くんか?古井だが。」

受話器の向こうでは勝沼の背筋が伸びる音が聞こえるようだった。

「古井次長、お疲れ様です。どうされましたか?」

「今、君のところの新土手1丁目店の件で此花並子という女性から連絡が入った。新土手1丁目店の花山オーナーが認知症の診断を受けたそうだ。」

「えっつ⁈それは本当ですか?」勝沼は初めて知ったような風を装った。

古井は、並子が既にニコマートが知っていると言ったことを忘れてはいなかった。

「君はもう既に知っていたのじゃないのか?」

「いえ、全然、知りませんでした。」勝沼はしらを切った。

「そうか。此花さんはうちから医師へ診断書の請求があったと言っていたぞ。」

「デマですよ。もしくは、何か思い違いをされたのじゃありませんか?」

「なるほど。花山オーナーは大熊専務と親しくされていたそうだ。専務のご意向は血縁への引き継ぎだそうだ。」

「しかし、花山オーナーのお嬢さんは、確か結婚されて、海外とお聞きしてますが。」

「大熊専務のお話では、前の奥さんとの間の息子さんがうちのフランチャイジーの雇われ店長をされているそうだ。」

「なるほど。」

「それと、君の本部への異動も決まったよ。この件は新しい板橋営業所長に引き継ぐように。」

「わかりました。ありがとうございます。」

勝沼は心の中で歓声を上げた。


翌日、吉田税理士が話があるということで、此花美子は花山金太郎の家に呼ばれた。

美子は、並子に同席を頼んだ。

「一体何のお話ですか?」並子は母に代わって強い口調で口火を切った。

吉田は少し約束の時間より遅刻してやってきた。

「実は、美子さんの株式を買い取りたいと言っている方がいます。」

美子と並子は顔を見合わせた。

「どなたですか?」

「王さんです。王さんは、花山オーナーが一人なので、自分が面倒を見ると話されてます。その代わり、王さんはお金がないので安く売ってあげてください。」

「はあ?」

美子は口をポカンと開けて、吉田を見た。並子は吉田を睨みつけた。

「それはできません。」

「王はだめだ。」金太郎は一瞬正気に戻ったように強く言った。

吉田は簡単には引かない様子だった。

「此花さん、あなたにはご家庭もあるし、花山さんや会社のことまでは手が回らないでしょう?王さんならそれができます。」

「お断りします。」

今度は並子が言った。

「お母さん、この話に乗っちゃだめよ。信子おばさんに対して義理が立たないわよ。」

並子は会社の経理で少し会社法の知識があった。それによると、譲渡制限付き非公開株式の譲渡は株主の同意が必要だった。株主は母と花山オーナーだけで、もし、母が王に譲渡した場合、花山オーナーが自分の持分を取り上げられても誰もそれを防衛することができなくなる。王もこの吉田税理士も並子から見ると信頼できる人間には見えなかった。

美子は肯いた。

「お断りします。王さんにはそうお伝えください。」

吉田は、三人からの凄い剣幕にすごすごと退散せざるを得なかった。

「気持ちが変わったらいつでも言ってください。」

玄関は大きな音を発して閉まった。

並子はこれは帳簿監査を急がなくてはならないと感じた。税理士が王の代理人のようにふるまうのだ。これは、何かあるかもしれない。

「お母さん、来週から会社にお休みをもらうわ。私に会社の帳簿を調べる権限をちょうだい。」

「わかったわ。ここにあるものは、今から見てちょうだい。花山のお父さん、いいですね?お店にあるものは、明日、王さんたちに連絡しておくわ。」

「帳簿を調べるの?」

「並子は良子お母さんと同じ仕事をしてるんですよ。」

どの程度わかっているのか、分からないが、金太郎は楽しそうに笑った。

「良子と?へえそう?」

並子は、持ってきた袋に帳票らしきものを片端から入れていった。

「箱詰めにして、宅急便で送った方がいいかもしれないわ。」

「そこらにある箱に入れて、うちに送りましょう」

親子は協力して帳簿類を集めた。しかし、金太郎宅にある書類はバラバラに置かれていた。置かれる場所がバラバラなだけでなく、帳票そのものがバラバラのものもあった。

時々、邪魔に入る金太郎を宥めすかし、それでも夜には箱詰めが全て終えることができた。

玄関の呼び鈴がなる。夕方のヘルパーさんが来たのだ。

美子と並子は、ヘルパーさんに挨拶をすると、自宅へと向かった。



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