絶対に引かない!
その頃、ニコマートの本社では、重役たちが集まって、会議をしていた。営業担当重役の高木は、プロジェクターを使って、営業成績の現状と今後の展望について説明をしていた。重役たちの顔は一様に暗かった。
「このままでは、我々は早晩、事業継続が難しくなるでしょう。大株主の飯野商事の助けがなければ打開策はありません。」高木は結論を述べた。
「で、飯野商事の方の感触はどうなんだね?」最年長の黒木会長が尋ねた。
「私の感触では、慎重に構えているようです。飯野商事の業績の足を引っ張っているのはうちですから。」社長の榊は答えた。
「社長がそういうのなら、確かでしょう。飯野商事は社長の古巣ですもの。」
「しかし、それには、うちのマイナス要因は極力伏せなくてはならない。マイナスが大きければ飯野商事の介入がうちの不利益になる可能性がある。言うまでもなく、主導権を一切、先方に奪われることは避けなくてはならない。」黒木は厳しい表情で言った。それを聞いて、専務の大熊は新土手1丁目店の花山金太郎のことを考えた。「状況を確認した方がいい。」大熊は会議の後、顧問弁護士の押田に報告をさせようと考えた。
有楽町にある押田弁護士の事務所では、押田と木田がいつものようにそれぞれに机で書類と格闘していた。そこへ、押田の机の電話が鳴った。
「押田先生、ニコマートの大熊専務からお電話です。」事務局の女性からの内線だった。押田は書類仕事を中断し、大熊からの電話に出た。
「もしもし、押田です。」押田は言った。
「押田先生、お世話になっております。ニコマートの大熊です。」
「大熊さん、ご無沙汰してます。どうされましたか?」
「実は、そちらにホットハートコーポレーションといううちのフランチャイジーの社長が相談に伺っているそうですが。」
「ああ、この間、社長の引継ぎの件でご連絡しましたね。その件ですか?」
「そうです。こちらも、あの際、社長に刑事にはさせないように、抑えてくださって助かりました。で、その後は何かありませんか?」
「ええ、実は・・・・。」押田は並子から来たメールのあらましを大熊に伝えた。
「なんですって、本当ですか?」大熊は、予感的中だと思った。
「かなり此花嬢は疲弊しているようです。」
「女性がよく、その要求を蹴りましたね。もし、彼女がのんでいたら、うちは胎内に毒を抱え続けていなければなりませんでした。」
「全くです。しかし、膿はまだ出きっていないようです。早晩、刑事案件に発展する可能性があります。」
「なるほど。先生、うちは、今、刑事事件などのスキャンダルは困るんです。何とか、抑えて下さい。」大熊はそのために並子がどんな目にあうか全く意に介さなかった。彼の頭にあるのはニコマートの経営のことだけだった。押田もニコマートの状況は理解していた。
「分かっています。それでいつまで、抑えていたらいいのですか?」
「・・・・・秋、その頃には飯野商事の結論もでているでしょう。」
「分かりました。お任せください。」押田は答えた。
押田との電話を切ると、大熊は別の番号を押した。
「ニコマートの営業本部です。」
「大熊だが、古井次長に代わってくれ。」大熊は部下の古井に電話をしたのだった。
「お疲れ様です、専務。どうされましたか」直ぐに古井の緊張した声に代わった。
「実は、内密に頼みたいことがあるのだが。」大熊は押田弁護士とのやり取りを話した。
「それは、本当ですか?うちの勝沼の話では、此花親子が花山オーナーを騙して、乗っ取りを企てたということですが。」
「そうか。」大熊は膿がどこまで広がっているのか分からないということを理解した。これは、公になれば大スキャンダルになる。
「いいか、古井君。この話は内密に処理しなくては、うちの屋台骨が揺らぐ。君は密かに勝沼くんらの動きを見張ってくれ。そして、逐一俺に報告してほしい。」
「専務。しかし、それだけで大丈夫なのですか?」古井は良心が咎めていた。
「何もしてはならん。うちは知らなかったことにしなくてはならん。そして、表ざたにならないように、密に処理しなくてはならん。分かるな?」大熊の声は冷たかった。
「・・・・分かりました。そのように致します。」古井は此花親子が決して花山金太郎を騙していないこと、自分の部下が冷酷な仕打ちをしていることを理解した。そして今、それを知りながら黙認することを上司が決めたことを理解した。ニコマートの存続以外の全ては切り捨てなければならない。そうでなければ、自分たちの職を失うことになる。そういうことなのだった。
23日の昼過ぎ、並子は押田と木田の弁護士事務所に来ていた。石田や竹山らの仕打ちは彼女を疲弊させていた。押田や木田に何か手だてがないか、相談したかったのだ。
予約時間の少し前に着くと、いつもの会議室に通された。程なくして押田と木田が大きな足音と共に部屋に入ってきた。
「私もう無理です。何とかしてください。」並子は石田や竹山、王らの仕打ちを訴えた。押田は少し同情したような表情を浮かべていた。
「秋まで待ちなさい。ちゃんとなるから。黙っていても実績ができるから大丈夫だ。」押田は並子に耐えるように説得した。
「でも。」並子は押田に自分の窮状が理解できていないと思った。しかし、押田は並子がいくら訴えても答えは同じだった。木田は押田を見て、頷いた。並子は押田の言葉を信じるしかないと思った。それは、決してうれしいことではなかった。
並子は、しかし、派遣社員を頼み、店舗の肉体労働は休んだが、無責任に放置することはしなかった。また巧や石田に怒声を浴びるかもしれないと思った。バイトやお客に嘲笑をされるかもしれないと思ったが、勇気を振り絞って、毎日店に顔をだした。手ぶらでは流石に勇気がなかったので、美味しそうな差し入れを持って行った。巧も石田もバイトたちも並子を馬鹿にして見ていた。それが分かっていても、無責任に放置することはできなかった。そして、T警察署に相談に行った翌日、新たな取引銀行を作ろうと考え、大手のM銀行の丸の内支店の前に立っていた。M銀行を選んだのは、学生時代の先輩が勤務していたからだった。その先輩は、親切な先輩で後輩の面倒見もよかった。丸の内支店にしたのは、並子は大手の銀行だったら、どこでもATMで取引ができるだろうと考えて、その日久方ぶりにある以前の同僚達との会合の側の支店にしたのだった。
並子はその日、決して平静な気分ではなかった。連日の石田と巧の対応に疲れ、何よりバイトや客の前でされるそれらの怒声は並子を著しく疲弊させていた。また、取引金融機関である板橋信用金庫T支店の職員の対応も並子を深く傷つけていた。並子には、認知症の花山金太郎とホットハートコーポレーションを守りたいという意志しかなかった。少なくとも、認知症の診断のでている花山金太郎がまともな経営判断や金銭管理ができるとは思えなかった。だから、成年後見人の選任をしてもらい、まともな判断をしてくれる人間に保護してもらいたかったのだ。それが、ダメだという。しかも、もうすでに横領疑惑のある人間たちの言いなりに経営をしろと強要され、それを拒否しようと契約解除を考えたら、莫大な違約金を払わせると脅された。大手のM銀行なら板橋信用金庫のような恣意性の強い対応はされないだろうと並子は考えたのだ。せめて、会社のお金だけは守りたかった。その、必死でズタボロの有様はM銀行の行員には好い印象を与えなかったようだ。行員は並子を胡散臭そうに見た。
並子は銀行口座を作りたいと行員に話した。
「法人の銀行口座はマネーロンダリング防止法の施行から難しくなっています。」行員はそう言うと何枚もの書類を出した。
「そうですか?」並子は書類を受け取ると書き始めた。
「それから、申込いただいても、お断りすることもありますので、ご了承下さい。」
行員は事務的に話した。並子は、泣きたくなった。彼女の板橋信用金庫T支店に対する不信感はもう肉体的な苦痛を伴っていたのだ。
「わかりました。」並子は答えた。そして、申込書類を行員に渡すと、同僚との待ち合わせ場所に向かった。
元の職場の同僚と、並子は三菱1号館美術館に併設されたカフェで待ち合わせていた。このカフェはいつも混んでいた。同僚の本条と酒井は少し早めに来ていて、待合所で並子を迎えた。二人は職場の噂話などをしたようだったが、並子を見るなり、明らかに憐れみの表情を浮かべていた。並子は殆ど着替えもなく、ホテルで寝泊まりしていた。勿論女性だからコインランドリーで定期的に洗濯はしていたが、同じ服を着まわしているので、どう見てもくたびれた様子だった。
「お待たせ。」並子は明るく言った。
「元気だった?」本条も同じ調子で返そうとしたが、表情は硬かった。酒井はなんとか場を取り繕うと話に入ってきた。
そこへ、カフェの店員が三人の席の用意ができたと三人を席に案内した。
「課長ったらひどいのよ。聞いた?」と席に着くなり、酒井はさっきの続きの上司の噂話を始めた。
「そうそう。」本条も彼女の話に乗った。そして、二人は一通り職場の噂話を並子に聞かせた。並子は時折笑顔を交えながら、二人の他愛のない話を聞いた。本条は並子より1年先輩で、酒井は並子より3年後輩だった。
「皆さん、お元気なのね。よかったわ。急に仕事を辞めることになって、引継ぎもちゃんとできなかったから心配していたのよ。」そして、並子は二人の元同僚に今までの経緯を語った。語りながら、いつしか頬が濡れていた。本条と酒井の二人は黙って聞いていた。
「それじゃあ仕方ないわよ。課長たちは本当はすごく怒ってたのよ。辞め方が無責任だって。だから、今日、あなたに会うことも内緒なのよ。」年嵩の本条がポツンと言った。酒井も本条を見て肯いた。
「まさか、契約解除もさせない。認知症の前任者に権限を戻せ、なんて言われるなんて考えていなかったのよ。だって、花山オーナーも知らない不正なお金の流れもあったのよ。普通だったら、権限を取り上げることに問題なんてある話じゃないわ。」並子は経理畑の会話として帳簿上の問題点について話した。二人も同感だった。
「ちょっと、普通じゃないわよ。」本条が言った。酒井も不安そうに頷いた。
「日頃、真面目な此花さんの話じゃなきゃ、私も信じられません。」
「それが普通の反応だと思うわ。でも、みんなにご迷惑をおかけして申し訳ないと思っているわ。今日はだから、お二人に会って、お詫びが言いたかったの。」並子は言った。本条は頷いて言った。
「とにかく、自分の正しいと信じる道を行きなさい。今は、うちのみんなは怒っているかもしれないけど、あなたがやり遂げたら、いつか分かってくれるわよ。」
「ありがとうございます。」並子は本条と酒井に礼を言った。
その後は又、三人は他愛のないよもやま話を始めた。並子は久方ぶりに心おきなく、話に興じた。
26日3時、並子は飯田橋にいた。川合労務管理事務所との契約の為だった。彼女は川合理事長から聞いた住所と説明に従い、川合労務管理事務所の入居するビルを探した。目印は郵便ポストだった。彼女が事務所にたどり着くと、川合理事長と事務員の女性が出迎えてくれた。
「道分かりましただ?」事務員の女性がお茶を出しながら、聞いてくれた。
「何とか。」並子は答えた。
川合理事長は契約書類をだし、内容を説明した。並子は言われるままに印鑑を押した。
「で、オール労務管理事務所はニコマートの紹介の筈ですから、それを解除してもらうようにニコマートに通知しなくてはなりません。昔、私がもらって名刺がありますから、担当者に話しましょう。」川合はそう言うと、ニコマートの担当部署の電話番号を押した。暫くすると、担当が出たようだが、対応は冷たかったようだ。
「此花さん、出てくれますか?」川合は受話器を渡した。並子はニコマートと話しをしたくなかった。
「新土手1丁目店の此花ですが、不信感を持つ対応が続くのでオール労務管理事務所との契約を解除していのです。」
「担当SVに連絡してください。」ニコマートの担当者は不機嫌な声で言った。
石田に電話しろというのだ。並子は石田に電話したくなかった。
「分かりました。」並子は答えて、川合に受話器を渡した。川合は電話を切った。
「実は。」並子は自分が置かれている状況を川合に話し、石田に電話したくないと話した。
「でも、手続上必要なことです。」川合は説得した。並子は石田に電話するが、話は川合にしてほしいと頼んだ。並子が携帯から石田に電話すると、石田は直ぐに出た。
「実は、労務管理事務所を変えたいのですが。石田さんに連絡するように他の部署から言われました。」
「あんた、そんなことやってる場合か?そんなことやってるより早く成年後見人の手続をしろよ!」石田は電話口で並子を怒鳴り付けたのだ。
「でも、オール労務管理事務所は社労士協会で処分を受けているそうですよ。そんなところと安心して契約はできないじゃないですか?」並子はやっとの思いでそう言うと、川合に受話器を渡した。川合に代わっても石田の怒鳴り声が電話口から漏れていた。
「あんたちゃんとやれるんだよな。」石田は最後に怒鳴った。
「勿論です。」川合は言い切った。
「それならどうぞ。」石田は言うと電話を切った。
並子は経営を健全化しようとしているだけだった。しかし、石田は事あるごとに並子を怒鳴り付けるのだった。並子は石田と電話するのが恐怖だった。
彼女は27日には、UR賃貸の内覧をし、その翌々日には、契約の為に新宿の法人営業部に出かけて行った。UR賃貸の法人営業部のある新宿営業センターの入っているビルは地下鉄の西新宿駅に直結していた。並子は緊張した気持ちでセンターに入った。また、板橋信用金庫の時のような思いをするのではないだろうか?そういう気持ちが心を過った。センターの担当の女性は並子より少し年上の感じだった。並子は契約の内容の説明を受け、契約書の判を押した。そこで、ふと、花山オーナーのことを思いだした。彼女は契約担当の女性に相談をしてみようと思った。
「実は、うちの社宅のことで困っていることがあります。」そう言うと、並子は花山金太郎が認知症の診断を受け、役職を退任したにも関わらず、一人で社宅に居住していること、親族が介護をすると申し出ているにもかかわらず、施設の選定を渋り、とうとう徘徊して警察に保護される事件があったことを話した。すると、契約担当の女性は、高齢者の問題の相談窓口の女性に彼女を紹介した。
「ご家族が介護をすると言って、放置しているので、全て会社が責任をおう羽目になっているんです。」話しながら、並子は今までの苦しみを思いだし、涙が出てきた。聞いてくれたのは、初老の女性だった。彼女は真剣に並子の話を聞いてくれた。
「お気持ちはお察しします。私達も何かできることがあるはずです。」彼女は言ってくれた。並子は初めて味方にであったような気がした。
「ありがとうございます。聞いていただけただけでも、気持ちが楽になりました。」そう言うと、その女性に礼を言い、彼女は涙をぬぐって、立ち上がった。相談員の女性は何か決意を秘めた視線で並子を見て、頷いた。
翌日、並子は部屋に置く最低限の家具や、ポータブルWI-FIのルーターの契約をする為に、出かけた。事務をするのには、どうしてもPCやプリンターとインターネットの設備が必要だった。並子は花山実の成年後見人の申立てが通れば、千葉の実家に帰る予定だったので、購入も持ち込みも荷物は最低限で、使いまわしができるものにした。また、価格もできるだけ安いものを選んだ。並子の貯金がどんどん減った。IKEAの港北店で買い物をして、二階の喫茶でホットドッグとコーラを飲んでいると、並子の携帯が鳴った。相手はUR賃貸の新宿センターからだった。
「もしもし。」並子はお金も払ったし、鍵も明日には受け取る手はずになっていたのに、どうしたのだろうと思った。電話の主はあの高齢者相談窓口の女性だった。
「こちらは、UR賃貸の高齢者相談窓口です。」女性は話した。
「先日は、色々聞いてくださってありがとうございました。どうかしたんですか?」
「実は、花山金太郎さんのお部屋の法人契約のことなんですが、このままでは花山さんが近隣にご迷惑をかける危険があります。その際は、法人に全責任を取っていただくことになります。」女性は強い口調で言った。並子は、何を言われているのか、最初は理解できず、沈黙した。そして、事の重大さを考えた。
「できるだけ速やかに退去をお願いしたい。」女性は重ねて言った。
「わかりました。相談してみます。」並子は答えた。
それだけ言うと、女性は電話を切った。並子は、すぐに母に電話をかけた。
「お母さん、URから花山オーナーの社宅の契約解除の申入れがきた。」
「えっ?」美子もびっくりして言葉をのんだ。
「どうして?」
「近隣への迷惑をかけるかもしれないからだって。」並子は説明した。
「わかったわ。お年寄りセンターの相田さんに伝えるわ。早く花山のお父さんの施設を探してほしいって。」美子の声はどこかホッとしているようだった。並子も本音はそうだった。花山実は父が社宅に住んでいるのをいいことに中々施設を決めなかった。また、その為に法人の責任者である並子は放置することができなかった。何かあればホットハートコーポレーションの責任になるからだ。実は父親の徘徊などの時も、行政やケアマネからの電話連絡もでない。だから、彼らはちゃんと対応してくれる美子や並子に連絡し、手を煩わせていた。また、実は一切父親の費用の負担を拒否していた。もし、行政が金太郎の金銭管理をしてくれなかったら、その費用は会社や並子、美子の立替にされるところだったのだ。事実、行政が管理するまでは、美子が立替払いしていた。勿論、後日、行政から精算してもらっていた。美子は親友の信子や亡くなった良子のことを考えると、どうしても金太郎を冷たく突き放すことができないのだった。彼女にとって、金太郎は親友とその母の大切な家族なのだった。家族というものは、辛い時に見捨てるものではない。それであれば、家族ではないのだ。でも、もし、彼女が主婦ではなく、キャリアウーマンだったら、違う対応をしていただろう。現にキャリアウーマンの並子は母親とは違う対応を考えていた。彼女は花山金太郎の認知症を病だと考えていた。病の人に仕事や生活の責任を負わすことはできないし、その看護に精通した人たちに任せるのがベストだと考えていた。
美子との電話を切って間もなく、今度は又並子の携帯が鳴った。並子は番号を見て、げっそりとした。
「はい、此花ですが。」
「ニコマートの石田です。此花さん、あんた何やってるんだ。また花山オーナーが無賃乗車で店に来たよ。こんどは隆くんが立替てくれたよ。」石田は並子を怒鳴り付ける勢いだった。並子は歯を食いしばった。店舗運営を全く知らない自分が二コマ―トの石田と対立して、責任だけを負わされるのだ。
「今すぐ来いよ。」石田は並子に命令した。並子は石田と巧たちに逆らうできる余裕などなかった。当然だ。二人は腕力も体格も並子の上をいっていた。怒鳴り声も大きかった。彼女は店舗運営についてわからない。帳簿も書類の説明も押印も花山金太郎にさせるといい、その責任だけを取れと石田は恫喝していた。認知症の花山オーナーがなんの書類に押印したのか、どんな経営状態なのか並子には一切わからないのだ。
石田は、並子への電話を切ると、隣にいる隆と腹を抱えて笑った。
「ハハハハハ・・・・今頃青くなってるぞ。」
「ざまあ見ろだ。」隆も石田と同調した。
二人の様子を若いバイトたちも面白そうに見ていた。バイトたちは、巧と石田、隆の三人が辞めた王店長たちの仕返しをしているのを知っていた。王らが辞めた理由も知っていた。というか、知っていると思っていた。巧も石田も隆も王らが花山オーナーが此花親子に騙されて会社を乗っ取られたのだとバイトたちに説明していた。その仕返しに協力をするようにと言い含められていた。だから、此花並子を馬鹿にし、あざ笑うことは正義の行動だと思っていた。「また、何か差し入れを持ってきますよ。そんなことをしたって、誰も喜んでないのに。馬鹿だよね。」若い女性バイト愛ちゃんが言った。彼女は巧を心から信頼していた。だから、彼の言葉を一切疑っていなかった。
並子は、冷たい視線を感じていた。逃げ帰りたいと考えないと言えばウソになる。しかし、彼女は責任者だった。どんなに逃げても、責任からは逃れられなかった。1時間くらいして、並子は店にやってきた。石田はいなかったが、隆は残っていた。並子は隆に謝って、お金を弁済した。隆は面白そうに笑っていた。傍にいたバイトもだった。勿論彼が立て替えたのではない。店のお金からだった。並子は差し入れも渡した。
「お疲れ様。これいつものよ。みんなで食べてね。」並子は笑顔を作った。隆もバイトの愛ちゃんも馬鹿にしたように並子を見てた。並子はそれでも必死に笑顔を作り続けた。そして、いつものように店を出た。帰り道、涙をこらえた。UR賃貸からの花山金太郎への退去勧告を考えた。もう少しでこんなことも終わるのだ。そう思って、自分を励ました。それにしても、ニコマートは並子と花山金太郎が他人だと知っていた。実の存在も知っていた。しかし、金太郎のやることの責任だけを取れと脅し、恫喝した。此花美子と並子の権利は一切認めなかったのだ。
翌日、並子は新しい部屋の鍵を貰い、部屋に行った。その日、購入した荷物が届く手はずになっていた。並子は荷物を受け取ると荷物を解いて片付けていった。一通り終わると、ホテルに戻った。そして、翌日のチェックアウトの用意をして、睡眠についた。
翌日、並子はホテルをチェックアウトして、スーツケースを抱えて、URT団地の新居にやってきた。昨日いくつか片付けたが、まだ、落ち着くにはやることがあった。そうやって、二時を回った頃、並子の携帯がまた鳴った。
「はい、此花ですが。」
「M銀行の丸の内支店です。先日はご来店、ありがとうございました。決済が下りましたので、口座開設の手続に来てください。」事務的な女性の声が言った。
「ありがとうございます。」並子はホッとした。これで、もう板橋信用金庫T支店の他人のお金を自分のもののように扱う変な対応に苦しむことはなくなる。
用件を言うと、M銀行の電話は切れた。
並子は片付けを続けた。すると、また、並子の携帯が鳴った。先ほどと同じ電話番号だった。
「M銀行の丸の内支店ですが、すみません。名寄せしましたら、お客様の口座が既にあることがわかりました。ですので、もう口座はお作りできません。」
「えっ?どこにあるんですか?」
「ご存じないのですか?東京営業部です。」
「口座番号は?」
「本当にご存じないのですか?お調べください。」電話口の女性は明らかに不審そうだった。並子は会社の帳簿を調べなくてはならないと思った。M銀行の女性はそういうと電話を切った。
並子は、千葉から会社の帳簿類を新居に送っていた。それが、昨日の受取荷物の中にあった。彼女の目的は花山実の成年後見人の選任が終わるまでに帳簿を調査し、正しく修正することだったのだ。当然、その為の資料は新居に集めていた。箱を開けて、調べてみると、M銀行の資金移動明細書があった。
「そうか。これは売上の送金用振替の口座だわ。」並子は独り言を言った。そして、携帯でM銀行の東京営業部の番号を調べると、M銀行の東京営業部に電話をした。
「M銀行東京営業部大下です。」男性の声で電話は直ぐにつながった。
「実は、そちらに弊社の口座があるそうです。」並子は丸の内支店で口座を作ろうとしたこと、すると名寄せで東京営業部に既に口座があることがわかり、作れなかったことを話した。
「多分、代表者が変わったのに、変更されていないことが問題だと思うので、変更の届出をしたいのですが。それと、口座を作れないでしょうか?」
「一度、ご来店いただけないでしょうか?」大下は言った。
「明日、書類を持って伺います。」並子は答えた。
並子の電話を切ると、M銀行の大下は直ぐに丸の内支店に電話をした。
「ホットハートコーポレーションの口座の件だが。」
「ああ、大下係長。そうなんです。名寄せすると代表者が違っているんですよ。どうも胡散臭いので確認してください。」丸の内支店の行員は並子の疲れ切った様子を伝えた。
「これは、ニコマートの依頼で作ったリーフ口座なんだよ。分かった、ちょっとニコマートに確認してみるよ。」そう言うと大下は法人口座を作成するときの窓口だったニコマートの担当者に電話した。
「石田さん、お世話になっております、M銀行の大下でございます。」
「大下さん。こちらこそ色々その節はお世話になりました。どうされましたか?」ニコマートの石田は答えた。このリーフ口座は新土手2丁目店の開店の時に石田が窓口となって開設した口座だったのだ。
「実は、ホットハートコーポレーションの代表者が代表者変更の手続に来ると言っています。どういうことなのでしょうか?」
「・・・」石田は一瞬虚を突かれて、沈黙した。それは、石田の予想していないことだった。並子が代表者になってことを上層部は認めていると勝沼から聞いていた。そして、M銀行がその手続をするということは、それを是認したことになる。自分たちの目論見が外れてしまうことになる。「まずい」と石田は必死に考えた。
「実は、その此花という女性なんですが、弊社が認めていないのに、勝手に代表者と言っているんです。それも、前代表者を騙してですよ。うちの勝沼は断固、阻止しようとしています。申し訳ないですが、それは拒否してください。」
「なるほど。」大下はそんなちっぽけは会社の為にニコマートの意向に逆らうことは得策ではないと考えた。
「本来は、それはできないことですが、ほかならぬニコマートさんの言葉なら何とかしましょう。」大下は答えた。
翌日、午前10時頃、並子は全部事項証明などの書類を持参して、M銀行の東京営業部にやってきた。店内に入ると、女性の行員が並子に要件を尋ねた。
「法人の代表者変更の手続に来ました。」並子が答えると、女性行員は受付番号を渡した。店内には並子以外誰も居なかった。並子はソファーに座ると、呼ばれるのを待った。順番は直ぐにきた。並子がカウンターに座ると、大下が並子の前に座った。大下は並子の渡した書類を確認し、コピーを取った。暫くすると、笑いをかみ殺したような表情になり、並子に書類を返した。
「それで、うちに口座を作りたいとか?」
「はい。丸の内支店でこちらに口座があるので、新たに作れないと言われました。新たに作れないのなら、この口座を使えませんか?」
「検討しますので、書類をお預かりします。」
「法人の代表者変更は?」
「それも検討させていただきます。」大下の声は木でくくったような事務的な声だった。
並子は不思議に思った。なぜ法的書類を持参して法人の代表者変更をしたいということが検討しなくてはならないのだろうか?並子は既に押田弁護士を通じて、ニコマートの了解も取っていた。なぜ、検討しなくてはならないのだろう?唖然として、並子はM銀行を後にした。何か変だ、並子は不安になった。
並子は本当はM銀行の帰り道を、寄り道をしようと思っていた。でも、大下の対応は並子のそういう気分を吹っ飛ばした。並子は真っすぐにT団地の社宅に戻った。帰って暫くして、並子はM銀行東京営業部の番号を携帯で見た。大下からの電話だった。
「M銀行東京営業部大下でございます。ホットハートコーポレーションの此花様でしょうか?」
「はい。何か?」
「お宅のような小さな会社の口座は当銀行では作れません。」
「はい?でも、ニコマートが既に口座を作っているではありませんか?」並子は又、びっくりした。
「ニコマートだから作れるんだ。」大下はもう行員の態度ではなかった。そういうと、乱暴に電話を切った。並子はもう何が何だか分からない恐怖を感じた。なぜ、このような態度を大下に取られるのだろうか?並子は別に融資をしてくれと頼んだわけじゃない。ただ、普通口座を作りたいと思っただけだ。断るにしてもM銀行のこの対応はなかった。並子はM銀行東京営業部に電話した。今度は女性の声だった。
「あの、今、口座を作れないと言われたのですが、いくらなんでもあの態度はないじゃないですか?」並子は怒りに任せて大声で言った。
「お客さまが態々来られて、書類を持参されているのに、手続をしないなんてことはあってはならないことです。」女性はあの時並子を案内してくれた行員のようだった。並子が何もいわないのに、大下の行為をおかしいと言っているのだった。
「いったいどうして?」並子はどうしたらいいのか分からなくなった。他の行員から見て変な行動を大下は横柄に当たり前のように行っているのだ。板橋信用金庫T支店は花山オーナーの認知症に付け込んで不要な融資を申し込ませたり、王らと共謀してオートローンを組ませたりしていた。だから、このようなことをするのだろうと理解した。しかし、M
銀行は大手だ。その行員にこんなことをされるなんて、まるで、一つの場所で別の世界が
共存しているような、まともなことが通用しないような恐怖を感じた。なぜ、認知症の花山金太郎とホットハートコーポレーションを守りたいだけで、こんな扱いを受けるのだろうか?
その頃、石田の携帯が鳴った。石田は新土手1丁目店で巧と談笑していた。
「M銀行東京営業部の大下でございます。」電話はM銀行の大下だった。彼は、並子への電話を切ると、席を外して、休憩室に行ったのだった。
「大下さん。お世話になってます。ホットハートコーポレーションの件ですか?」
「はい。今日来ましたよ。全く身の程知らずの女ですよね。ニコマートの意向に逆らうなんて。」
「ハハハハハ。」石田は笑った。
「身の程を思い知らせてやりましたよ。勿論、法人の代表者変更手続も拒否致しました。」
「ありがとうございました。うちの勝沼にも伝えておきます。」
「今後ともよろしくお願いいたします。」大下はそう言うと電話を切った
「石田さん、あの女社長の件?」
「めちゃくちゃ言われたらしいぞ、M銀行で。」石田は愉快そうに笑った。巧も笑った。
「いい気味だよ。さて、今日は何を土産に持ってくるかな?」巧は並子の必死の努力を馬鹿にしていた。彼と隆、末井の3人は、タイムカードを帰宅しても、席を外しても切らなかった。石田はそれを励行している。むしろ、面白がっていた。石田の狙いは店舗運営をめちゃくちゃにすることだった。「なぜか?」それは巧や隆、末井たちにも秘密にしていたが、彼の頭にはホットハートコーポレーションを使っての新たな金儲けの計画があったのだ。
並子は板橋信用金庫に続いて、M銀行にこのような扱いをされ、自分がそれまで信じていた法とか道理というものが信じられなくなってしまった。それは、それまでの人生では感じたことにない恐怖だった。電話の後暫く、並子は何も手につかなくなり、組立たばかりのベッドに倒れこんでしまった。「どうしよう?」この言葉が頭をグルグル回った。彼女は融資を申し込んだのではなかった。ただ、口座を開設しようとしただけだった。確かにマネーロンダリングの問題で口座開設が難しくなったとは思うが、大下の態度はそれとは別個の事だった。それに、なぜ、押田弁護士がニコマートは就任を認めると言っている並子の法人代表者を拒否するのだろう?自分は勝手にやっているわけではない。行員でさえあり得ないことだと言ってることを大下は堂々とやっているのだ。並子はとにかく、M銀行のお客さま相談室や銀行協会に苦情をいうことにした。何もしてくれないかもしれないが、うやむやにしておく気にはなれなかった。
M銀行も板橋信用金庫もニコマートとは別組織だった。それぞれにそれなりの社会的信用がある、誰もが間違いのないことをする組織だとなっている。それが、悉く当たり前の並子の行動を妨害するのだ。並子は、隣に立っている人と自分が違う世界にいるような錯覚を感じていた。怖いと思った。自分のすることに自信が持てなくなってきた。それが、石田達の思惑だなんて並子は知らなかった。並子を心身共に壊して、思い通りにコントロールし、全てを奪おうとたくらんでいるなんて並子は全く想像できなかったのだ。
その頃、新土手1丁目店も2丁目店も板橋区の花火大会の準備でごった返していた。毎年、花火大会には多数の見物客が新土手に訪れる。新土手1丁目店にとって書き入れ時のイベントだった。巧は、初めて自分が裁量をふるうこのイベントに大いに張り切っていた。ニコマートの板橋営業所からも社員がヘルプにやってくる。それに係る費用は店持ちになるので、オーナーとニコマートが入念に打ち合わせるのが通例だった。しかし、石田は一切並子に相談をしなかった。巧とのみ相談を繰り返し、二人は勝手に無断で店の出費を決めていた。
「石田さん、ちょっと。」巧は他の社員が営業所に戻ったのを見計らって、石田に声をかけた。
「なに?」石田も巧と事務所に向かった。レジには隆が入っていた。石田が事務所の折り畳み椅子に座ると、巧は事務机から、封筒を二つ取り出した。
「今月の分です。一つは石田さんで、もう一つは花山さんの分です。」
石田は中身を素早く確認すると、内ポケットにしまった。
「サンキュウ」彼は全く悪びれもせずに受け取って言った。
「花山さんの息子さんから、やいのやいのとせっつかれてたんだよ。」
「此花社長が店に来なくなって、やりやすくなりました。それまでは、見とがめられたらと、レジから抜くのが中々できなくって。」巧は言った。
「王さん達の分は?」
「大丈夫です。俺たちの架空残業代とレジから架空の人間の日払い給料として引いて、貯めてます。石田さんのくれた損益と吉田先生の指示で利益分を抜いています。」
「この店は、王さん達の職場放棄で緊急事態だから、人件費が嵩むのは仕方ない。本部も俺が黙っていたら、気づかないよ。」
「心配なのは、あの社長です。石田さん、会計資料は渡さないようにしないとまずいですよ。」巧は不安そうに言った。
「大丈夫だよ。あれだけ、痛めつけたんだ。普通の人間なら、二度と店の経営に関わらないよ。今頃、家で青くなって震えてるさ。何しろ、天下のM銀行に役員変更を蹴られたんだ。俺だって、ビビるよ。」石田は愉快そうに笑った。
「でも、あの人、まだ差し入れを毎日届けてるんですよ。こっちは馬鹿にして笑っているのに。」巧は毎日、並子の持ってくる差し入れで美味しいものは家に持ち帰って、妻子に食べさしていた。
「いつまでもつかね。」隆がレジから事務所を覗いて言った。
「とにかく、花火大会の日、もしあの人がやってきたら、「要らない」と言って追い返せ。できるだけ、周囲の目があるところでやるんだ。それだけ、屈辱を与えたら、普通の人間は耐えれない。徹底的にやれよ。」石田は命じた。巧は強く頷いて、聞いた。
「それで、死んじゃったら?」
「構わない。」石田は冷たく笑った。
ニコマート本社の大熊専務の部屋には部下の古井次長が報告に来ていた。
「専務、勝沼に特段の動きはありません。」
「そうか。押田弁護士から、M銀行東京営業部がホットハートコーポレーションの役員変更の手続を拒否したという話が入った。」
「どういうことですか?」古井は驚いた。
「どうも、うちの誰かがやらしたらしい。」大熊はため息をついた。
「勝沼の後任の竹山がさせたとは思えません。公になった時のリスクが大きすぎます。それにそこまでのメリットもありません。と、すると・・・・・担当の石田か。」
「もしかしたら、これは、もっと大きな膿が出てくるかもしれないぞ。板橋営業所を見張れ。膿が出きったところで、全て秘密裡に処理をしなくてはならない。」
「わかりました。」古井は厳しい顔つきで応えた。近く大規模なリストラをすることになると想像した。その時に、関連する社員は理由をつけて切るつもりだ。
「頼んだぞ、古井君。」大熊は古井の目を見て言った。
それから数日平穏な日が続いた。美子はお年寄りセンターの相田にUR賃貸からの退去勧告を伝えている。もう、そろそろ息子の実による成年後見人の申立ての選任も決まるだろう。もうすぐ、こんなことは終わるのだ。それまで並子は自分の責任を果たしたいと必死だった。毎日、新土手1丁目店、新土手2丁目店に差し入れを続けた。本当はあれだけ怒鳴られたり、嘲笑されたりする場所には行きたくなかった。でも、並子はタクシーを使ってでも、毎日、顔を出した。自分には義務があると思ったからだ。
そして、8月3日、年に一度の花火大会の日、並子は早朝から、ニコマートのユニフォームを着た。巧に手伝うと言ったのだ。本部が無視しようが、権限を取り上げようが、約束は果たさなくてはならない、そう思ったのだ。彼女は、勇気を奮い起こして、新土手1丁目店に向かった。
新土手1丁目店は都営住宅の道路を挟んだ向かいにあった。店の前は大きな鉄製の四角い水桶が並んであった。中には氷と飲み物が浮かんでいる。板橋営業所の社員が休日返上で総出で手伝いに来ていた。並子は石田を見つけると、挨拶をして、巧の居場所を探した。巧は店内に居た。
「約束どおり、手伝いに来ました。」並子は巧に言った。
「要らない。」巧は面白そうに言った。
「えっ?」
「要らないって言ったんだよ。」巧は繰り返した。レジにいたバイトが面白そうに見ていた。ニコマートの社員たちも笑いをかみ殺したように見ていた。並子は惨めだった。とても、それ以上そこにいるのはとてもできなかった。並子は歯を食いしばって、店を出た。できるだけ早くその場から逃げ出したかった、でも、歯を食いしばって、ゆっくりと歩いた。自分が代表とする会社が運営する店舗なのに、この扱いは何なのだろう?仮住まいに帰ると、並子はユニフォームを脱いだ。そして、手近にある服を着ると、家を出た。何だか家にジッとしていると、惨めさで押しつぶされそうな気持がしたのだ。並子はT駅から電車に乗り、ボーっと乗客を見ていた。そこにいるはずの乗客は同じ空間ではなく別の空間に居るような気がした。動物園の動物と観客のような違和感を感じていた。
「これからどうしたらいいの?」並子は呟いていた。
まず、最初に考えたのは、千葉の母の元に戻ることだった。並子は都営三田線に乗り、三田駅で都営浅草線に乗り換え、北総線に乗ろうと考えた。しかし、時間と共にそれがとても子供じみた行動のような気がしてきた。あの馬鹿にしたような巧やバイトたち、石田らの視線を思いだす。このまま、母の元に逃げ帰ったら、あいつらが喜ぶだけだと思えてきた。ふと、去年の誕生日に母が奢ってくれた三越デパートの特別食堂のローストビーフのことを思いだした。「美味しかった」その味を思い出して、生唾が出てきた。
「食べたい!」並子は思った。そう思ったら、神保町の駅で電車を降りた。半蔵門線はガラガラだった。並子は電車の中で無理に笑顔を作ろうとしてみた。悲しい顔をしていたら、運命に負けてしまう。そういう気持ちになったのだ。周囲から見たら、奇妙な行動だ。理由もなく笑顔になる人間なんて、頭がおかしいとしか見えない。でも、笑顔は苦痛を麻痺させていった。デパートにつくと、エスカレーターで特別食堂に向かった。特別食堂のメニューは高価で、普段はとても並子が行けるものではない。でも、こういう時は思い切って散財しようと並子は思った。
メニューにローストビーフはもうなかった。並子は一番高いステーキとグラスワイン、そして、デザートとコーヒーを注文した。店員は並子があまり高級でない身なりをしているのを胡乱な目つきで眺めたが、黙ってサービスをした。周囲には、このデパートに似つかわしい身なりの男女が食事をしていた。並子は周囲の視線を無視して、食べることに集中した。美味しかった。そして、食べている内にムクムクと反骨精神が湧いてきた。
「まるで、みんなして、私を排除しようとしてる。」並子は考えた。
「これだけ、やりたい放題されて、そいつらの思い通りになるなんて絶対に嫌だ。」そして、並子は「どうしたらそれに反抗できるだろうか?」と更に考えた。
食事を全て食べ終わった時、並子は固く決意をしていた。食堂をでると、彼女は千葉の実家に向かった。勿論、逃げ帰るわけじゃない。




