権限のない責任者、並子奮闘する1
その帰り道、並子はホテルに帰る前に意を決して、T警察署に向かった。T警察署はURT団地の道路を隔てた向かいに立っている、タイル貼りのビルだった。受付には初老の男性が座っていた。実は、並子は去年、帳簿の調査を始めたころ、自宅近くの印西警察署に相談に言っていた。その時に、警察官から管轄の問題があるから東京の警察署に相談に行くようにと言われていた。弁護士の押田や木田に相談はしてても、それだけでは心もとないと感じた。その時のことを考えると、並子は心が温かくなった。
その日、並子は印西警察署に電話をして事の次第を語ると、電話に出た女性が係の者に代わると言われた。
「遠いし、分かりにくいから来ても無駄だよ。」係の警察官は答えた。
「でも、無駄でも、行きます。行き方を教えて下さい。」並子は懸命に食い下がった。警察は面倒くさそうに行き方を教えてくれた。
「道、分かりにくいよ。」最後にそう彼は付け加えた。
並子は書類を鞄に入れて、家を出た。千葉のそのあたりはまだまだ開けていない。電車も本数は少ないし、バスはもっと少なくて、しかも、どちらも運賃が高かった。土地の人たちは大抵車で移動するのだった。しかし、並子はペーパードライバーだった。家に車があっても、運転しようなどと思いもよらなかった。妹か父が運転してくれて、用を足すのが通常なのだが、これは家族には内緒だった。彼女は電車とバスを乗り継ぎ、印西警察署にたどり着いた。印西警察署の中に入ると、警察官の言っていた分かりにくいという意味がよくわかった。署内は通路もないくらいに人と机があふれているのだった。並子は、言われた階までエレベーターに乗り、電話で面倒くさそうだった当の担当警官と対面した。警官は奥の小部屋に並子を招き入れた。そして、明らかに窮屈そうな椅子に座り、小さな机を挟んで、並子の話を聞いた。並子は一生懸命に話した。そして、いくつかの書類を見せた。警官は最初は本当に面倒くさそうだった。しかし、話を終える頃になると、態度は明らかに変化していた。
「それで、その中国の人たちがくるまではどうだったんですか?」警官の声は同情を含んでいた。並子はさっきまで泣きそうなのをこらえて話していたことに気づいた。ふと、美子から聞いた良子や金太郎、美子の株主総会の話を思い浮かべた。
「それまでは、毎年、年度末に亡くなった良子さんと母と花山オーナーとで株主総会を開いて、利益処分とか決めていたそうです。」
並子の言葉を聞くと、警官は少し沈黙した。
「その会社があるのは東京ですね。だとしたら、管轄の問題でそちらになるかもしれませんよ。管轄が東京となったら、又最初から調べなおすことになるかもしれません。だから、どこでもいいから、東京の警察署に相談した方がいいと思いますよ。」と言った。
「東京?」並子は少しガッカリして言った。なぜなら、印西警察署にくるのも、警察沙汰を嫌がる母には内緒にして来たのだ。とても、又、勇気が出せるか自信がなかった。
「一応、この書類のコピーを頂きます。」そう言って、並子の持ってきた書類のコピーを取りに席を外した。並子はボーっとその小部屋から外の景色を見ていた。ありったけの勇気をはたいたので力が抜けていた。暫くすると、また、警官が戻ってきた。
「お母さんに内緒で来たんでしょ?この書類で見る限り、訴える権利のある人はお母さんだよ。」
並子は頭が切り替わらずに話を聞いていた。
「でも、母は警察沙汰を嫌がるんです。本来なら花山オーナーの責任ですけど、母は花山オーナーを訴えたくないのです。そのくらいなら、自分が損をしてもいいと言うのです。私は多分、花山オーナーは認知症ではないかと思うんですが、本人が違うと言い張るし、私達は他人ですから、無理にお医者さんに連れていくこともできないのです。保健所にも相談もしましたが、認知症の診断は本人の協力がなければ無理と言われました。」
言うだけ言うと、並子は気持ちが吹っ切れてきた。
「聞いていただいただけでも元気になりました。」
「道案内しますよ。」警官は立ち上がると小部屋の扉に向かった。小部屋の外はやはり人と机が所狭しと並んでいて、通路などなかった。
「確かに、道が分かりにくいですね。」並子は思わず言ってしまった。警官は噴出した。
「警察署を出たら、近くのロータリーに巡回バスが来てるから、それに乗りなさい。」そう言って、並子をエレベータ―まで案内してくれた。並子は礼を言うと、警官に言われた通りにロータリーにあるバスに乗った。バスは並子の家の近くまで送ってくれた。
バスを降りて、並子は突然、強い後悔の念に駆られた。彼女は再度、印西警察署に電話した。先ほどの係の警官がすぐに出てくれた。
「私、もしかしたら、中国の人たちを誤解しているかもしれません。もしかしたら、良い人たちなのかもしれません。もう少し様子を見てみます。お騒がせしてすみませんでした。」並子は警官に言った。警官の声は最初の時のような無関心でも面倒くさそうでもなかった。彼は言った。
「ダメかもしれないけど、東京の警察署の知能係の人に相談してみなさい。」
「えっ?」並子は親身な声に少し驚いた。
「ダメかもしれないよ。でも、やった方がいいよ。」どこか切実な声だった。
「でも。」並子が警察に行くのは普通の勇気ではなかったのだ。
「なにか、困ったことがあったら、電話してきなさい。」
「そんなこと言ってもらえただけでも、嬉しいです。私、すごく心細かったんです。」並子は泣き笑いの声で答えた。
それから、半年近くの時間が流れ、並子はその時のアドバイスを実行しようとしていた。
「すみません。実は知能係の方にご相談したいことがあります。」並子は勇気を振り絞って、受付の男性に印西警察署で言われた経緯を話した。受付の男性は並子をじっと観察して、内線電話のボタンを押した。
「今、係の人が来るから、ついて行って下さい。」受付の男性が言った。暫くすると、本当に若い制服の男性警官がやってきて、並子を階上の取調室に案内した。並子はやはり東京の警察署は印西警察署より広いなぁと思った。ちゃんと廊下があるし、机と机の間隔も人が通れるくらいには空いていた。取調室は四人用の部屋のようだった。二脚づつ机を挟んで並んでいた。案内してくれた若い警官が年上の私服の刑事を連れて現れた。
「私は此花並子」と申します。そう言って、並子は印西警察署で話したことを書類を見せながら話した。二人の警官は時折質問をしながら、並子から様々な情報を3,4時間聴取した。最後に、並子が持ってきた書類を全てコピーした。
「わかりました。」そう私服の刑事は言った。「やはり、ダメなのか?」と並子は思ったが食い下がった。
「刑事さんの名刺をいただけませんか?」必死の気持ちだった。それが通じたのか、笑って、私服の刑事は並子に名刺をくれた。並子は「お時間を頂きました。」と礼を言って、席を立った。若い制服警官が並子を入口まで見送ってくれた。並子は印西警察署でダメかもしれないと言われていたのを思いだした。それでも、やれるだけのことはしようと思ったのだと自分に言い聞かした。




