当たり前のたった一人の女、此花並子。奮闘する!
その日、此花家では、美子が一人で夕飯を食べていた。下の娘、力子は遅番勤務で、夫はまだ入院していた。テレビがついてはいるが、集中して見てるわけではなかった。彼女の頭の中はいくつもの心配事でいっぱいだった。一つは夫の入院だが、もう一つはホットハートコーポレーションの事だった。どうしたらいいのだろう、こんなことなら、娘を巻き込むのではなかった。きっと、並子は辛い想いをしているに違いない。そう考えると、胸がいっぱいなになった。
「お母さん、ただいま。」突然、食堂の扉が開いて並子が入ってきた。
「どうしたの?何かあったの?」美子は驚いて、立ち上がろうとした。
「何もないわ。ちょっと、お母さんに相談したいことがあったの。」そう言うと、並子は台所から自分の湯飲み茶わんを持ってきて、お茶を淹れだした。
「えっ?何?」美子は娘が自分の茶碗にもお茶を淹れるのを見ながら答えた。
「実は、私、社宅に引っ越そうと思うのよ。」並子は言った。
「だって、そのつもりで借りたでしょ?どういうこと?」美子は娘の言葉の意味が分からなかった。
「仮住まいではなく、独立しようと思うの。」並子の表情は決然としていた。
「それは・・・・・。花山のお父さんの息子さんと争うつもりなの?」
「それはどうなるか分からないわ。ただ、退路を断って、仕事に取り組もうと思うの。」
「だって、花山のお父さんの息子さんが成年後見人に選任されたら、私達の権利なんてどうなるか分からないわよ。あなたの代表の地位だって、取り消されるかもしれないわ。」
「わかってるわ。だから、それまでに花山オーナーの給料を元に戻し、帳簿も修正しておこうと思っていたのよ。でも、こちらがその程度の覚悟では事は解決しないって思ったの。」並子は、周囲の思惑と逆に動こうと決意したのだ。
「私は反対よ。今でも見ていられないのに。そんな、あなた、辛い目にあうのが目に見えてるじゃないの。」美子は堪らずに言った。
「お母さん、私だって、正直に言うと、逃げ出したいわ。でも、私が逃げても、私の責任からは逃れられないわ。だって、法的責任者なんですもの。だから、立ち向かおうと思うの。」並子の決意は固かった。美子はこれ以上言っても無駄だと思った。
「わかったわ。それでどうするの?」美子は諦めて言った。
「来週、社宅の鍵を貰うことになっているの。仮住まいのつもりだったから、引越の手配はしていなかったのよ。でも、そうとなったら、業者を手配して、できるだけ早くここの荷物を引き取るわね。」
「じゃあ、引越の日は早めに教えて頂戴。誰かいなかったら、ダメでしょう?それに、いくつか食器やら使えそうなものはあげるから、荷物の選り分けも必要よね。」
「そんなの買うわよ。」並子は初めての独立に夢を持っていた。
「何言ってるの?所帯道具ってばかにならないのよ。あんたはそういうこと何にもわかってないのね。」美子は娘の甘さをきっちりと指摘し、現実を示すのだった。
その頃、石田と巧と隆は花火大会の片づけを終え、事務所で一休みしていた。
「今年の売上は去年より下回った。」石田は速報値を、巧に伝えた。巧は此花社長を追い払って自分が仕切っているのを周囲に見せつけて、実質自分がこの店の主だと示したかったので、ガッカリしていた。
「それにしても、彼女、よく来たよね。」隆は割って入った。
「鈍感。みんなで馬鹿にしているのに。」巧も言った。
「でも、これだけやれば、普通の奴なら、もう店には関わらないよ。」石田も言った。
「これで、これからはもっと自由にやれる。」隆はご機嫌だった。
「俺のところで、抑えておくから、自由にやったらいいよ。」石田は、巧と隆が自由にやることが店の運営をどうするかよくわかっていた。彼の真の目的は彼らに店舗運営をめちゃくちゃにさせることだった。勝沼から本社が此花並子を代表と認めると聞いてから、普通の店舗運営をさせていれば、並子に店舗運営権がいくことになると分かっていた。それは、勝沼や自分たちのした不正行為を公にすることになるという事だった。だから、それは絶対に阻止しなければならなかったのだ。それに、この立地に興味をもっているオーナーは複数いた。彼らにこの立地を与えれば、自分にも板橋営業所にも利益があると考えていた。彼は、冷たく笑っていた。
それから、並子は店舗に一切行かなかった。「要らない。」と巧からみんなの前で言われたのだ、普通の人間なら行かなくてもおかしくないだろう。彼女は引越の準備や書類の整理、仕事を本格的にやる為の準備に没頭した。M銀行東京営業部の対応から新たな法人口座を作る勇気がわかなかった、代わりに板橋信用金庫の法人口座をインターネット取引に切替えることにした。その申込にT支店に行かなくてはならなかった。T支店に行くと、融資担当の職員から話をしたいを言われた。並子は、融資係長阿野と部下の宮下と面談しなくてはならなかった。阿野は、並子について質問をした。そして、こう言ったのである。
「今、うちが融資している御社の融資の連帯保証人を花山金太郎さんから此花並子さんに変更して頂きたい。」
その融資とは、花山金太郎が王らに高齢者長寿医療センター受診につれて行かれた頃にされた宮下の契約した不要な融資と王らがマイカーとして使っている車のオートローンだった。それを是認するということは、花山金太郎の認知症の状況に関係なく、ホットハートコーポレーションが融資を追認したことにされる。並子には納得のいく話ではなかった。
「それはできません。一括して返済します。」並子は答えた。
それは、阿野や宮下の意図するところではなかったようで、話は保留となった。もし、並子に花山金太郎の認知症の医師の診断書か、もしくは金太郎の成年後見人の選任がされていれば、一括返済ではなく、逆に板橋信用金庫に強く抗議をすることもできた。しかし、それがない状況では、抗議をする理由を証明することは大変困難だった。認知症とは専門家以外には証明できない病気なのだ。並子はまた歯を食いしばって耐えた。
社宅に戻る途中で、並子は本当に花山金太郎の成年後見人の選任はされていないのだろうか?と考えた。そう考えたら、気になって仕方なくなった。彼女は板橋区の特別養護係に問い合わせることにした。彼女は携帯を取り出すと、特別養護係に電話をした。
「板橋区の特別養護係田山です。」
「こちらは、花山金太郎さんの会社の社長の此花と申しますが、成年後見人の申立てはどうなったのでしょうか?」
「その件でしたら、花山さんの息子さんが自分の方が申立てをするからと言われて、私達は取り下げました。」
「それは知っていますが、いくら何でも時間がかかりすぎます。本当に申立てがされているのかどうか、確認していただけませんか?」
「そんな、普通はあり得ませんよ。」田山は不快そうだった。
「うちは、花山金太郎さんの住む社宅のオーナーから退去勧告を受けています。何かあったら私の責任だとも言われているんですよ。どうなっているのか、知る権利があります。」並子は声を荒げた。並子の怒りに田山は圧倒されたようだった。
「わかりました。確認してご連絡します。ご連絡先を教えて下さい。」
「携帯に電話をください。」並子は田山に自分の連絡先を教えた。
社宅に戻って、並子は暫くボーっとしていたが、気を取り直して、書類整理を始めた。その中には最近、美子と花山金太郎の自宅でもらった委任状が含まれていた。並子はもらったものの、それが有効なのか自信が持てないでいた。並子は暫くその委任状を眺めていたが、意を決して高齢者長寿医療センターの電話番号を押した。暫くすると、女性の声がした。並子は、委任状を見ながら話した。
「実は、そちらに通院している患者さんの診断書が頂きたいのですが。」
「ご本人ですか?」事務の女性は尋ねた。
「いいえ、でも、ご本人からの署名、実印と印鑑証明のついた委任状があります。」並子は答えた。
「では、当院の窓口営業時間内に来て手続をして下さい。」女性は答えた。
「はい、では、そうします。」並子はそう言うと礼を言って電話を切った。並子の心に希望の光が、ともった。もしかしたら、花山金太郎の認知症の診断書がもらえるかもしれない。それさえあれば、もうニコマートにも板橋信用金庫にもやりたい放題はされなくて済む。でも、もし、この委任状が有効だと、新田医師が判断するのなら、花山金太郎の病状はそう悪くないのかもしれない。
翌日、朝、病院の事務が始まるのと同時に並子は花山金太郎の委任状を持って、高齢者長寿医療センターに行った。一階の受付のフロアはガラガラだった。並子は直ぐに呼ばれて、事務の女性のいう通りに診断書の作成依頼の書類を記載し、委任状を渡した。事務の女性は、それをファイルに入れると、預かり証を並子に渡した。並子は受け取ると、黙って帰った。
受付の女性は、直ぐにその書類を新田医師のいる医局に届けた。新田医師はそれを一瞥すると、事務の女性に厳しい目を向けて答えた。
「これは書けない。断ってくれ。」
「でも、どうしてですか?」事務の女性は尋ねた。
「この患者さんは認知症だよ。これが本人の意思で書かれた委任状だとは思えないよ。」
「でも、どうお断りしたらいいんですか?」事務の女性も困惑した。
「その通りに伝えたらいいよ。」新田医師はバッサリと切り捨てた。事務の女性は申請書を受け取ると、医局を出て行った。新田は、その後ろ姿を見て、腹を立てていた。彼はニコマートの石田と王に此花親子には診断書を書いてくれるなと頼まれていた。それは、此花親子による乗っ取りを防ぎ、王ら外国人従業員の雇用を守る為とニコマートの石田から言われていた。王らだけの言葉だったら、新田も信じられなかったが、ニコマートの石田が保証しているのだ、真実に違いなかった。それを、認知症の花山金太郎の委任状まで作って自分に診断書を書かせようとするなんて、なんて卑劣な女だろう。そう思うと、無性に腹が立つのだった。
並子はそんなこと知らなかった。彼女からしたら、認知症の花山金太郎を守ろうと考えての行動だったのだ。それが、なぜこうもあちらこちらで妨害されるのか不思議で堪らなかった。彼女が、社宅に帰ってすぐ、携帯が鳴った。
「高齢者長寿医療センターです。此花さんの携帯でしょうか?」
「はい。どうしましたか?」
「実は、新田医師が診断書は書けないというのです。書類はお返ししますから、お手すきの時にお越しください。」
「えっ?なぜですか?理由を教えてください。」
「花山金太郎さんは認知症だから、書けないそうです。」事務の女性は答えた。並子は了解するしかないと思った。では、花山金太郎は本当に認知症なのだ。
「わかりました。」それだけやっと言うと電話を切った。新田医師はこういう状態の花山金太郎に仕事をさせろといい、ニコマートは権限を戻せという。それは、並子から見たら、あまりにも無責任な話のように思うのに、そうさせようとするのだ。並子は又、自分がパラレルワールドに居るような恐怖心を感じた。
並子は、ベッドに倒れこんで、暫くボーっと天井を見ていた。何時間経ったのか、はたまた数分しか経っていなかったのか分からなかったが何も手につかず、ただ、天井を見ていた。心が固まってしまって、石のように無感覚になったような気がした。自分が体験していることなのに、それを別の場所から自分が他人事のように観察しているような気がしてきた。並子はそして、やっと体を動かす気力が湧いてきた。これは自分が体験しているのではない、他人だ。そうだ、とにかく、今、やれることをしなくちゃ。
そう、考えて、夕食の支度を始めた途端、今度はまた並子の携帯が鳴った。
「はい、此花です。」
「こちらは、板橋区の特別養護係の田山です。先日お問い合わせのありました花山金太郎さんの成年後見人の申立ての件でご連絡致しました。」田山の声は疲れたような感じだった。並子は自分が昨日問い合わせたことを思いだした。
「それで、どうでした?」
「息子さんは成年後見人の申立てを取り下げていました。」
「はあ?どういうことですか?」
「私達行政の成年後見人の申立てはあくまで、ご家族がされない時のものなのです。ですから、息子さんが申し立てれば、取下げます。そして、今回の場合、息子さんは私達の
申立の取下げの後に取り下げていらっしゃるのです。」
「そんな、困ります。私達はとても迷惑してるんですよ。花山金太郎さんの住まわれている所宅のオーナーから退去してほしいと言われています。また、もし何か問題が起これば、会社に責任を取ってもらうとも言われています。」
「基本的に、そういう状況の人の居住を取り上げることは区としてはさせれません。」
「では、そちらが責任を取ってくれるんですか?それなら、私も何も言いません。」並子ももう忍耐の限界にきていると思った。
「先日は、花山さんは徘徊して警察に保護もされています。引き取りに行ったのは私と母です。息子さんは放置です。それは、お年寄りセンターの相田さんにも連絡しています。これ以上、私達他人は何もできません。」もう、声を限りに訴えた。
「私達も今、知ったばかりなので、対応を相談してみます。」田山は困ったような声でそれだけを言って電話を切った。
ニコマートの板橋営業所では、所長の竹山が石田と打合せをしていた。
「先日の板橋区の花火大会の新土手1丁目店の売上は去年を下回りました。」
「やはり人手かね?」
「T団地の屋上が開放されて、わざわざ新土手まで来なくても、という人が増えたのでしょう。」
「そうか。ご苦労。ところで、例の女社長が手伝いに来たそうだね?」
「追い返しましたよ。あの分では、投げ出すのも時間の問題だと思います。」
「そうか。俺たちの仕事に女がしゃしゃり出るなんて身の程知らずは早く思い知らせる方がいい。」
「全くです。」石田は調子を合わせた。
「本来は、花山オーナーの息子さんが引き継ぐのが筋なんだよ。うちのフランチャイズ契約は血縁引継ぎが原則だからね。小賢しい法律論を振りかざして、うちのやり方に盾を突くなんて身の程知らずな女だ。」
「本当に所長の仰るとおりです。」石田は更にゴマを擦った。心の中で彼は「だから、息子に新土手1丁目店の収益を払うのは当然だよな。」と呟いた。
「ところで、人件費がかかりすぎじゃないのか?」竹山は新土手1丁目店、2丁目店の会計データを見て言った。
「・・・でも、所長、今あの店は王店長らの集団職場放棄でたいへんなんですから、仕方ないですよ。」石田は、店の収益を自分や巧らが奪っていることをおくびにも出さない。
「なにか問題が起きたら、俺たちにも振りかかってくるから、問題は起こすなよ。」
「当然です。お任せ下さい。」石田は平然と答えた。石田の頭の中はこの事態をどうごまかすか、どう此花社長に責任を擦り付けるかを激しく考えていた。彼は何としても此花並子をコントロールし続けなくてはならなかった。彼女が自分の頭で考えたり、判断したりさせることは絶対にさせてはならなかった。その為に、脅し、怒鳴り、店舗運営の知識を与えないようにする必要があった。彼女が本来の権限と能力を発揮したら、自分たちのやっている不正は全て暴かれるのを彼は分かっていたのだ。
その日、巧は店の仕事を終え、妻から頼まれた買い物をしに、T団地内にあるスーパーマーケットに向かった。彼は、本来は仕事中である。タイムカードは切っていない。彼は、できる限りの店の利益を自分たちのものにすること、その為に此花並子を怒鳴り、疲れさせ、店舗運営を教えなかったのだ。しかし、彼は心の中で不安に思っていた。というのも、此花並子が見つけた新土手2丁目店の給料の2重払い、横領は彼が王らと実行したことだった。石田が自分が花山金太郎の口座に振込んだと言ってくれたので、今は此花社長から疑われていないが、何かの拍子に露見する可能性があった。露見したら・・・そう考えると、安心してはいられなかった。ま、あれだけ、精神的に傷めつけたら、もう店のことなど考えないだろうが。
「あっ、」巧は目を疑った、此花社長が団地から歩いてくるのだ。しかも、あれはどう見ても近所を歩いている風だ。恰好からして、団地に住んでいるのだ。幸いあたりは暗くて、並子は気が付いていないようだった。
「あれだけ、傷めつけて馬鹿にしてやったのに、」巧は舌打ちをし、次いで怖くなった。自分ならたった一人であれだけ、みんなに馬鹿にされ、怒鳴られ、笑われたら、二度とそこには行けない。並み大抵の屈辱感ではないはずだ。なのに、あの女は逆に店の近くに住むことにしたのだ。巧は逃げることを考え出した。何とかすべてがバレる前にうまく逃げ出したい。そう考えだした。
20日の午後1時、並子は母に呼ばれて、花山金太郎の自宅にやってきた。板橋区のお年寄りセンターの相田とケアマネの二人が金太郎の施設のことで相談したいということであった。並子が訪ねると、美子と相田とケアマネは居間で並子を待っていた。金太郎は別室でヘルパーの女性に世話をしてもらっていた。
「王さんが自分の通える施設にしてほしいという要望を頂いています。息子さんも了解されています。」相田は話の口を切った。並子は唖然としていた。王には横領の疑惑があった、更には集団で職場放棄をした、そのような人物が認知症の花山金太郎の面倒を見るというのは、金太郎の個人資産や会社を今後も食い物にされる恐れがある。
「それには、反対です。息子さんの了解と言われますが、息子さんはお父さんが警察に保護されたときも何もされませんでした。それに、特別養護係の田山さんから成年後見人の申立てを黙って取り下げられたと伺っています。また、王さんには不信感を持たれる疑惑があります。本当に親身になって面倒を見たのは娘さん信子さんの依頼を受けた私の母の美子です。」並子は相田達に王らの横領疑惑を言うべきか迷っていた。
「確かに、その点は私達も息子さんが何を考えているのだろうか?と言っています。」相田もケアマネの方を見て、答えた。
「あの・・・・巧さんが1万円で花山さんにたばこを届けるという話をしていました。」ケアマネの女性は小さい声で呟いた。並子と美子は顔を見合わせた。花山金太郎はヘビースモーカーでたばこがないとちょくちょく勝手に家を出てしまうのだ。それで、仕方なく、ヘルパーさんたちが決めた本数だけ購入することになっていた。それを巧が届けると言うのだろう。しかし、「1万円?」態々耳に入れるというのは、巧が金太郎から過分のお金を取ろうとしているからではないだろうか?二人とも大きな声では認めないが、王や花山実に対して不信感を持っているのかもしれない、と思った。
「では、もう一度検討してみます。」相田とケアマネの二人は立ち上がると、ヘルパーの女性に会釈して、家を出て行った。
「どういうこと?」美子は少し怯えていた。それもそうだろう、花山実の行動は不可解だ。何を意図しているのか、全く見当もつかなかった。
「わからないわ。とにかく、簡単には私も手を引けないということよ。来月には、千葉の荷物を移すわね。」並子は無理に明るく話した。
「分かってるわ。うちがあげれるものはいくらか選り分けてあげてるからね。」
「お父さんの具合、よくないのでしょう?あまり、見舞いにいけなくてごめんね。」
「大丈夫よ。力子もいるしね。あんたこそ、無理しないでね。信子と良子お母さんへの義理ならもう十分果たしていると思うわ。」美子も気丈にふるまっている。
「でも、あの息子さんと王さんよ。あの二人に花山オーナーを任すのはどうしても良心が許さないのよ。」
「分かってるわよ、あんたの気持ちは。」美子は並子の肩にて置いて言った。その手のぬくもりに並子は少し元気がもらえるような気がした。
隣の部屋では金太郎が若いヘルパーの女性に着替えをしてもらい、嬉しそうにニコニコしていた。
並子と美子はそれを複雑な気持ちで眺めていた。
池袋のニコマートの本社では大熊専務が顧問の押田弁護士と電話をしていた。押田は花山実が父親の成年後見人の申立てを取り下げたことを伝えていた。大熊の顔は厳しかった。
「なんでそんなことをしたのか、先生はどうお考えですか?」大熊は押田の意見を聞いた。
「普通ではあり得ないことです。ホットハートコーポレーションの経営の主導権を握りたいのなら、実氏が成年後見人に選任されるのが一番確実です。それをこのような形で撤回するということは、どうにもわかりません。」
「実くんに何か選任されない理由があるのだろうか?」大熊は自分がそれまで立派な息子だと思っていた実に対する不信感を感じた。
「それもあり得ます。でも、それなら最初から申立てをしないという選択肢もあります。申立てをして取り下げれば、専務の言われたような疑いを招きます。」
「何かあるな、これは。」大熊は自分に語るように呟いた。
「押田先生、知らせてくれてありがとうございます。こちらでも調べてみます。」大熊はそう言うと、電話を切り、部下の古井次長に電話した。
「古井君、板橋営業所で何か動きはあったかね?今、押田先生から、花山実が父親の成年後見人の申立てを取り下げたという情報を頂いたのだが。」
「はあ?それはまたどういうことでしょうか?」古井も驚いた。
「どうも、何かが裏があるような気がする。見張ってくれ。」
「はい。分かりました。何か掴んだらご連絡します。」古井はそれだけ言うと電話を切った。大熊は胃がキリキリしていた。飯野商事の支援が決まるまで、大きなスキャンダルは絶対に不味い。しかし、この花山実の動きは父親の認知症の問題を解決するどころか、それを長引かせ、大事にしようとしているとしか思えなかった。嫌な予感がしていた。
それから、板橋区お年寄りセンターの相田からは何の連絡もなかった。施設の選定に苦労しているのだろう。花山金太郎の徘徊も最近は近隣ばかりのようだった。並子がT団地のベランダの窓から見ていると、公園にポツンと一人座っている金太郎の姿があった。心配していると、ヘルパーの女性が探しに来て、連れ帰って行った。並子は見ているだけだった。並子がT団地に引っ越したことは、周囲には内緒にしていた。このことが行政に知れると、金太郎の介護について、より大きな期待を持たれる可能性があった。並子や美子が深入りすると、妹の力子や父も巻き込むことになる。それは避けたいと並子も美子も考えていた。だから、花山実が成年後見人に選任されることを止めなかったし、それまでに、吉田税理士の行った不正な経理処理を修正したいと並子はここまで関わってしまったのだ。それに、並子は本能的に近隣に住む従業員たち、巧らを恐れていた。自宅まで押しかけてきたら嫌だと思っていたのだ。覚悟はしていると言っても、並子は普通のか弱い女性だったのだ。その巧に既に見られているなんて想像もしていなかった。
並子がその時にできたのは、店舗の近くのT団地に引っ越すことだけだった。それを、不甲斐ないという人間もいるだろう。でも、ニコマートの石田や竹山所長に権限を否定され、会計資料も見せてもらえない。なのに、責任だけを負わされ、巧たち従業員は無視し、嘲笑していた。店舗運営についてはどうなっているのか、よくわからない。変だと思うこともあるが、巧らが怒鳴ったり、無視する状況で店舗運営のことをよく知らない自分が違うと言って、誰が動くだろうか?ニコマートの本社に問い合わせたくても、竹山所長があんなにハッキリと花山金太郎に権限を戻せと言う状況で自分の言葉など受け付けてくれるのだろうか?それに、何でも石田に連絡が行く。石田に不信感があることを訴えるのに、それはどういう手段もないように見えた。更に、並子がいくら苦境を訴えても、押田弁護士は秋まで待てとしか言わない。
その時、並子の携帯が鳴った。見ると、並子が会いたくないと思っている巧だった。
「もしもし。」並子は勇気を振り絞った。
「お疲れ様です。巧です。話があります。」
「なんですか?」
「実は、俺、9月いっぱいで辞めたいんです。」
「はあ?」並子は心の中でホッとした。
「実は、王さんらがイロイロ嫌がらせをしてくるんです。俺の家族もそれで困っていて、俺さえ辞めたら、大人しくなると思うので。」
「なるほど。でも、石田さんはどう言ってるの?あなたを選んだのは石田さんでしょ?」
「とにかく、店が回るようにはします。無責任な辞め方はしません。」
「考えさせてくれない。」並子は言った。巧も今はこれ以上の話は無理だと考えた。
「分かりました。」巧はホッとして電話を切った。巧は隣の石田を見た。
「どういう事なんだ?君が抜けたら、隆くんでやれると思うのか?」石田は怒っていた。
「隆は、俺が責任をもって、表のことも裏のことも教えます。2丁目店の末井は出来る奴だから、あいつが残れば当面は何とかなります。」
「でも、此花社長が店に関わってくるぞ。バレる危険が増えるじゃないか。」
「大丈夫です。」巧の声はヒステリックになっていた。彼は自分のやった横領がバレる危険を感じて逃げ出したいのだ。それを引き留めるのは無理な話だった。
「どういうことなのか、ちゃんと説明してくれ。」石田はまだ食い下がった。
「あの女は、この店を諦めることなんかあり得ないよ。この間、T団地で見かけたんだ。俺、怖いんだよ。俺のやったこと、気づかれるかもしれない。」
「なんだって⁈ それは本当か?」
「本当だよ。薄暗かったから、向こうは俺に気づいてないみたいだった。俺には、女房も子どももいるんだよ。バレたら困る。だから、手を引きたいんだよ。」
「あれだけやっても、まだ、諦めないのか?」石田も怖くなっていた。普通の人間ならこれだけ怒鳴られ、嘲笑され、権限を与えず、責任だけ負わせるなんて言われたら、逃げだすものだ。若しくは、精神的に壊れて、自殺だってする筈だ。それを、まだ諦めないというのか。これは、もっと徹底的に傷めつけなくてはこちらの身が危ない。石田の頭は並子を騙し、どうやって精神的に傷めつけるか必死に考えていた。
それから数日、並子は引越に全ての神経を集中させていた。彼女の心の中は、決して穏やかではなかった。店舗運営に関わらなくてはならないのは明らかだった。それは、自分を馬鹿にし、脅かしている人間たちの中に飛び込むことを意味していた。だから、嫌で嫌で堪らなかった。でも、自分が最終的に責任を取らなくてはならないことも分かっていた。嫌だから逃げれるのは平社員だけだ。並子は自分の中の恐怖と必死で戦っていた。
その日は、8月の最後の土曜日だった。並子はいつも通りに夕飯を食べ、休んだ。と、夜中過ぎに母の美子から電話が入る。
「どうしたの?こんな時間に?」並子はびっくりして電話に出た。
「悪いんだけど、明日付き合ってくれない?」美子は疲れた声で話した。
「はあ?」
「花山のお父さんが、警察に保護されたのよ。」
「なんですって?また?」
「もう遅いから、警察で預かってもらうことにしたけど、明日は引き取りにいかなくちゃだめなのよ。」
「私も行った方がいいの?ねえ、お母さん、私達は他人なのよ。息子さんが介護に関わると言っているのよ。なぜ、私達が引き取りにいかなくちゃいけないの?」正直に言うと並子は心身共に疲れていた。
「分かってるわよ。でも警察は私達以外は誰も対応してくれないって言うのよ。放っておけないじゃない。」美子も同じ気持ちだったが、放っておけないのだった。
「分かったわ。明日、午後でもいいかしら?」並子は金太郎の子供のような無邪気な笑顔を思いだした。確かに放っておくわけにはいかなかった。
「いいわよ。駅で待ち合わせて行きましょう。」
二人の明日の予定はこれで潰れてしまうことになる。そういう事だった。
翌日、美子と並子は杉並警察署まで、金太郎を引き取りに行った。そして、タクシーが金太郎を自宅の社宅の前に止まった。そこへ、並子の携帯が鳴った。ニコマートの石田だった。並子は出たくないと思った。しかし、責任者なんだから、と自分に言い聞かせて、電話にでた。石田はいつもの横柄な調子で話し出した。
「ちょっと、どうなっているんだ?花山オーナーが警察に保護されたって、俺たちにも警察から電話が入ってきたぞ。」
「それは、ご迷惑をおかけしました。」並子は責任者として謝った。
「あんたが、ちゃんと面倒を見ないからこういうことになるんだ。ちゃんと責任を取れよ。」石田の態度は嵩にかかっていた。
「今から、書類にハンコを貰いに花山オーナーのお宅に伺う。」
「えっ?今からですか?」並子は迷惑だと思った。石田はどうせ自分には内容も教えず、花山金太郎に会社の印というものを押させるのだ。何に判を押したのか、金太郎も自分も全く分からない。並子は石田たちニコマートの社員と関わる内にニコマートが本当にいい加減な会社なのだと思い知った。彼らは、認知症の花山金太郎にそれを知りつつ、印鑑を押させている。更にもう法的権限もないのを承知していてもそれをやり続ける。彼女の常識はもう崩壊していた。本来なら、抗議すべきだが、竹山所長も石田も並子に花山金太郎に権限を戻せと言った。並子ができないと答えたら、成年後見人の申立てが終わったら、権限を花山金太郎に戻せと言った。つまりは、花山金太郎が認知症なのを分かっているのだ。そして、石田は並子に一切の権限を認めず、逆らえば莫大な違約金を支払わせると脅していた。こんなことをすれば、店舗運営は崩壊する。そんなことは誰でもわかることをしているのだ。
「問題ないでしょう。」石田は言い切った。その言葉の後には俺に逆らえばどうなるか、分かってるな?というニュアンスを感じた。
「わかりました。」並子はそう言うと電話を切った。
「どうしたの?」美子が心配そうに並子を見た。
「ニコマートの石田さんが、来るそうよ。花山オーナーの顔を見がてら、何かにハンコを欲しいのですって。」
「迷惑な話ね。」美子は言って、金太郎がタクシーに下りるのを助け、T団地のエレベーターに向かった。
しかし、それで全ては終わらなかった。金太郎の部屋の鍵を開けると、お年寄りセンターの相田がケアマネとヘルパーの女性を引き連れて美子と並子の帰りを待っていた。
「お疲れ様でした。花山さんのことはヘルパーが見てくれますので、少し、お時間をいただけませんか?」相田の顔は真剣だった。美子は疲れていたので、そういう気分ではなかったが、相田達の顔を見るとそうはいかないと思った。
「なんでしょうか?」並子は母に代わって答えた。
「実は、このような事が繰り返されていたら、花山さんの命が危ないと考えています。」
相田の言葉にケアマネも肯いた。
「それで、どうするのですか?うちの会社もこれ以上の責任は負いかねます。」並子は言った。
そこへ、玄関のベルが鳴った。並子は石田が来たのだと思った。
「すみません。実はニコマートの方が花山さんに用事があるということですが、構いませんか?」
「どうぞ。」相田とケアマネの二人は言った。ケアマネの女性は石田が入ってくると、ジーっと見ていた。石田は相田たちには挨拶もしなかった。彼は、ヘルパーの女性と花山金太郎のいる寝室の方に黙って入って行った。石田の姿が見えなくなると、相田は話を続けた。
「このままでは、花山金太郎さんの生命が危ないと私達は判断しています。施設に入居していただかなくてはなりません。」
「それは、分かりました。その先をお聞きしたいです。」美子が口を入れた。
「実は、一つ施設の候補があります。しかし、入居には連帯保証人が必要なんですが、息子さんが拒否されています。」相田の言葉をケアマネが続けた。
「息子さんは、相続を放棄する、とまで言われています。」
「それで、お嬢様のご友人の美子さんにお願いできないか?」と考えています。
「娘の信子さんではダメですか?」並子はこれ以上母が負担を負うことが心配になった。
「何かあった時に連絡が確実に取れる方でないと困るんです。」
「そんな!母が巻き込まれたら、私たち家族も巻き込まれることになります。母は人情に篤いから承諾するかもしれませんが、不人情かもしれませんが、私はそれを同意させることはできません。」並子は母を庇って答えた。
相田たちと美子たちが話し合っているところを、金太郎の寝室から、ヘルパーの女性と石田が出てきた。彼は、具合悪そうに曖昧な笑顔を浮かべて、モゴモゴと口の中で挨拶のような言葉を唱え、そそくさと帰って行った。彼にとって、自分が金太郎の病状を知っているということは大変具合の悪いことなのだ。聞いては不味い話を聞いてしまったことになる。一緒に出たヘルパーの女性は、いつもの事務的な笑顔を浮かべ、仕事は終わりましたと言って出て行った。
「あの人が石田さんなんですか?何度電話しても出てくれなかった。」ケアマネの女性がポロっと呟いた。相田は目で彼女に黙るようにと合図した。
「でも、そこを何とか考えていただけませんか?」石田たちが玄関から出ていくと、相田は尚も言った。
「ダメです。」並子は言った。
相田とケアマネは肩を落とした。
「こちらももう一度考えます。」そう言うと、帰っていった。
みんなが帰った後、金太郎と美子と並子が残された。金太郎は悲しそうに呟いた。
「好きな時に死ねたらいいのに。俺が生きていたら、みんなの迷惑になる。」並子も美子も金太郎が自分たちの会話を理解できるなんて考えていなかったのだ。並子も美子も胸が痛んだ。並子は鬼のような娘と思われてもいいと思った。自分がそう言わなければ、美子や力子までも巻き込まれてしまう、そう思った。でも、胸が痛んだ。
並子が、社宅に戻ると、巧からどうしても会いたいというテキストメールが来ていた。並子は、嫌なことを先延ばしにしてもいいことはないと自分に言い聞かせて、直ぐに新土手1丁目店に向かった。事務所には巧が待っていた。
「お疲れ様です。」巧は今までと一転して神妙だった。並子は怒鳴られたり、された仕打ちを考えると、何らかの仕返しがしたいという欲求を感じた。しかし、自分の立場を考えて、自制する。
「どうしたの?」
「実は、いくらでもいいので、退職金を頂きたいのです。」巧は並子に何をしたのかを忘れたかのようにしゃあしゃあと言い出した。並子は再び自分を抑えなければならなかった。巧は並子のそういう表情を見逃さなかった。彼は並子に何かを与えなければ、この自分の要求が通らないと分かっていた。彼は、並子にストコンの前の椅子を譲ると、話し出した。
「情報があります。実は王さんのことです。それを話せば俺の要求を通してくれませんか?」
並子は椅子に座ると巧をじっくりと検分した。彼が本当のことを言うかどうか、確信はなかった。しかし、情報は欲しいと思った。
「話してみて。その話が良いものだったら、領収書と引き換えにお金を払ってもいいわ。」
巧はニヤリとした。並子を話が分かると思った。
「俺が新土手2丁目店の店長をやっている時に、王さんに売上を上げる為にデリバリーをしようと提案したんです。しかし、王さんは会社が俺たちのものになるまでは、そんなことはしなくてもいいと言いました。」
「それだけ?」並子は更に言った。彼にはまだ話があると感じていたのだ。
「それから、王さんはみんなの見てる前では花山オーナーの面倒をかいがいしく見ていましたが、陰では全く逆でした。いつも、車で花山オーナーを店に連れてくるのですが、店に来るとオーナーが発注を直すんです。それで、みんな仕事が増えるので、直ぐに家に連れて帰っていました。」巧は並子を見た、並子は沈黙していた。
「これだけじゃだめですか?」巧は聞いた。並子は黙っていた。
「それから・・・・。」巧はそれから暫く並子に自分の思いつく限りの王前店長の不誠実な所業を話し続けた。最後には怒りを含んでいた。
「分かったわ。母と相談して連絡するわ。」やがて、並子は言った。
「よろしくお願いします。」巧は相好を崩して言った。彼は自分でもよく言っていたが、口がうまく、それを自分の最大の武器と考えていたのだ。巧は並子をうまく騙してやったと喜んでいた。本当に世間知らずの甘ちゃんの日本人だ。彼は侮蔑を込めて腹の中で考えていた。
その頃、ニコマートの新宿にある花山実が店長をする店には、石田が訪ねてきていた。
「これが、今月分です。」石田は封筒を実に渡した。実は中身を数えて、上着の内ポケットにしまった。
「はい、確かに。でも、本当にあれでよかったんですか?」実は先日、石田からの指示で父親の施設の入居の為の連帯保証人を断っていたのだが、少し良心が咎めていたのだ。
「いいんですよ。弁護士の話では、お父さまが生きている間に相続権放棄を言ったって、実際のところは口で言う分には何の意味もないそうです。しかし、そうすると、此花社長が社宅に住んでいるお父さまの面倒を見なくてはならなくなる。更に精神的プレッシャーをかけられます。」
「でも、父は区から施設に入らなければ、生命の危険があると言われたんですよ。徘徊を繰り返すから。」
「その度に、此花親子が引き取りに行っているのでしょう?これも精神的プレッシャーになりますよ。要は、此花社長に自分から店舗運営権を放棄させることです。そうすれ、実さんにもっと渡す分も多くなります。実際のオーナーになられるんですから。」石田は、実の欲に訴えて、コントロールするのだった。実も受け取る金額が増えるのは大歓迎だった。なので、石田の機嫌を取るように付け加えた。
「そうですね。ニコマートの石田さんが言われるんですから、信用します。」
石田は、実の人間性を冷たく評価していた。自分の父親の生命の危機よりもお金につられるのか?と。しかし、そんな気持ちをおくびにも出さず、営業スマイルを浮かべた。彼の真の狙いは、花山金太郎の認知症を知らないことにし、店舗運営権を此花並子に与えないことだった。それには、施設に入居されては困るのだ。そうなると、知らなかったことにはしにくくなる。印鑑をもらいに施設に行かなくてはならなくなるからだ。
翌日、美子が並子の社宅で昼ごはんを食べていると、美子の携帯が鳴った。お年寄りセンターの相田だった。
「相田さん、どうしたんですか?」
「実は、花山さんの施設の連帯保証人の件は、成年後見人の行政申立をしますから、形式だけでいいので、お願いできませんか?」
「はあ。」美子は考えた。並子が反対する理由は理解できた。実際、夫の看病と家事で手一杯でこれ以上のことは下の娘に更に負担をかけることになる。しかし、昨日の金太郎の言葉を聞き、金太郎が気の毒になっていた。それに、これ以上金太郎を社宅に住まわせることは並子の負担にもなる。
「形式だけでいいと言われるのでしたら、それに、成年後見人の申立てもしてくださるというのでしたら、考えます。家族で相談しますので、お時間をいただけますか?」
美子の言葉に相田はホッとしたようだった。
「よろしくお願いいたします。」そう言って、電話を切った。
並子は傍で電話のやり取りを聞いていた。
「お母さん、そんなこと無理よ。お母さんだって、力子だってもういっぱいいっぱいでしょ?」
「でもね、並子。花山のお父さんが気の毒だわ。それに、あんただって、施設に入ってもらわなくては、大変じゃないの。」
「そりゃあ、そうだけど。」
「とにかく、力子とお父さんに相談してみるわ。」美子の心はもう決まっていた。
「でも。」並子はそれでも、心配になって母を説得しようとした。
二人はそれから暫く言い争った。でも、結局、美子の決意は固かった。
「仕方ないなあ。」並子は妹と父の説得に委ねることにした。
「それより、あんたの来週の引越のことだけど。力子も私も手伝えそうもないわ。」
「その件なら、引越屋さんにお任せすることにしたわ。だから、お母さんは何も心配しないでいいわよ。」並子は笑った。
新土手1丁目店の事務所では巧と石田が花山金太郎の話をしていた。
「じゃあ、オーナーの施設入居はまだまだかかりそうですね。」巧はホッとしたような声だった。石田も機嫌よさげにしている。
「実氏も拒否しているし、他人の此花社長たちがそこまで面倒を見るわけがないよ。」
「なるほど、さすが石田さんです。息子さんはうまく操ってる。」
「ところで、隆くんの教育はうまくいってるの?」石田は、心配していた。隆は巧と違って、内部の仕事ができそうには見えなかった。
「まあ、何とかなりますよ。二丁目店に末井もいるしね。それに、一応、此花社長には、あの人に教えると言っておきました。安心してください。勿論、できる余裕があるなんて思っていません。それに、あれだけ、怒鳴ったり、馬鹿にしたりされたら、普通の女なら二度と俺たちと仕事しませんよ。」巧は自分がうまく逃げ切ることしか考えていなかった。それには、隆が力不足だろうと、押し付けて辞めるしかなかった。
「巧くんがそう言うなら。」石田はそれ以上は言えなかった。それに、店舗運営がうまくいかないことは石田の思惑通りだった。石田の真の目的は、ホットハートコーポレーションから店舗運営権を取り上げることだった。この立地を求めて、いくつかのフランチャイジーの会社から引き合いが来ていた。勿論、石田に対しての謝礼を約束している会社ばかりだった。当初の花山金太郎の血縁という上層部の思惑も此花並子が社長であることを認めるという決定で既に外れていた。上層部はもう血縁には拘っていないのだった。石田がこの立地を取り上げれれば、後は力のあるフランチャイジーが上層部とのコネを使ってどうとでもするだろう。しかし、これは、王や巧たちには秘密にしていた。分かれば、彼らから報酬の山分けを求められるからだ。
並子も美子もそんなことは全く知らない。彼女たちは大企業であるニコマートを心のどこかで信じていた。自分たちが誰もが変だと思うことを強要されていても、どこかできっと何かの間違いだと思っていた。そう信じなくては、日々の生活も安心して行えないと思っていたのだ。全国津々浦々どころか世界にもフランチャイジーがある巨大企業が診断書を医師が出さないということを盾にし、しかも、法的な権限も既にない認知症の高齢者に経営をさせろと強要するなんて、良識のある人間ならあり得ない行為だとわかることだった。こんなことを企業が他でやっているというのなら、誰も安心してニコマートと契約はしないだろう。ましてや、この裏側にこんな事実があるなんて、普通の人間は想像もできないことだった。もし、並子が知っていたら、並子は言ったであろう。「そんなに欲しいのなら、まともな交渉をして、奪えばよいのだ。こんなやり方、恫喝、横領、までする必要がどこにあったのだ?」そうなのだ。彼らは自分たちの欲望のままに認知症で弱っている高齢者や、コンビニ経営に疎い出資者たちの善意を踏みにじったのだ。契約では、健全な経営ができるようにサポートをすると謳っているのに、相手が正常に判断できない状況を作りだし、それを利用したのだった。だから、彼らは、花山金太郎の認知症を認めることを拒否しなければならなかった。それを知っていた、もしくは知ったと分かれば、自分たちのした行為の全てが明るみに出てしまうからだ。
それから暫く、並子と美子は、並子の社宅への引越の準備と日々の徹男の看病に明け暮れていた。
9月11日、千葉の此花家に引っ越し業者がやって来て、並子の引越荷物を運び出して行った。美子も力子も時間を作って、荷物の送りだしを手伝った。並子には、大丈夫だと言われていても、放っておくこともできないのだった。箪笥も、服もPCやプリンターも並子の荷物は此花家から持ち去られて行った。荷物は思いのほか多かった。というのも、美子の予告通り、此花家の様々な場所から娘の生活の助けになりそうなものが付け足されていったからだった。
「お父さんも、頑張れって言ってたわよ。」力子は小さな箱をガムテープで封をしながら呟いた。
「ありがとう、精一杯頑張るわ。」並子は笑顔を見せた。
「お母さん、やっぱり花山さんの連帯保証人になるみたいね。」力子は、笑った。
「お父さんもあんたもお母さんには勝てなかったのね。」並子は予想通りだと思った。
「信子おばさんはお母さんに何度も迷惑をかけてごめんなさいって謝っていたって。そう言われたら、お母さんの性格じゃあああなるわよね。」力子の言葉に並子も肯いた。
「そうね。」並子は肯いて、食器の荷造りを手伝っている美子の方を見た。お母さんは本当に頑固なお人好しだわ。
ニコマートの池袋の本社では、大熊専務が古井から報告を受けていた。
「押田先生から、花山さんが徘徊して警察に保護されたと聞いたぞ。」大熊が古井に言った。
「はい、そのようです。担当が確認してきましたが、施設入居の為の保証人のなり手がないそうです。」
「息子は拒否したんだって?自分の父親の命が危険なのに?本当かね?」
「そのようです。」
大熊専務はデスクの後ろの窓から外と見つめた。昔、ニコマートが日本型コンビニを創成しようと苦闘していた時代、大熊もまだ駆け出しのころ、花山金太郎の店を担当したことがあった。その時、協働でより良い店づくりをしようと格闘したのだった。その金太郎を息子は命の危険があると聞いても、見捨てるような態度を取ったのか。
「そうか。」
「専務、どういたしましょうか?」古井は大熊の沈黙に耐えきれず、尋ねた。
「引き続き監視を続けろ。この話には、何か違和感がある。」大熊は答えた。
「分かりました。」古井は応えると、部屋を辞した。
大熊は、花山実の行動に強い不安を感じていた。あの実という息子がここまでの態度をとれるというのは違和感がある。いくら欲に駆られていても、ニコマートの心象を悪くするようなことをフランチャイジーの雇われ店長がするだろうか?うちの心象を全く考えないということは、うちの誰かが後押しをしているという可能性があるということだ。それは、ニコマートも絡んでの大不祥事になる可能性を孕んでいると言う事だった。
巧と隆は新土手1丁目店で打合せをしていた。
「やりたいようにやって平気だ。ただ、一族と花山さんや石田さんに渡す金はプールしておくようにな。」
「うん。おれの友達数人を仲間にして、搾り取れるだけ絞りとるつもりだ。此花社長も早晩、店を投げ出すよ。見ててよ。」隆は自信たっぷりだった。
「ニコマートからの書類を絶対にあの社長に渡したらダメだぞ。あの人、そういう事の本職だから、俺らのからくりをすぐ見破るよ。」
「でも、石田さんの案で、みんな日払いにしてやったから、管理しようがないよ。その日、全員にシフトが終わったら支払うなんて、店に24時間いなければならない。そんなことできるわけないよ。」
「ああ、そうやって痛めつけていけばいいよ。俺らのたくらみを妨害した報いを受けさせるんだ。」巧はいい気味だと言わんばかりに笑っていた。
「それと、日払いにして、適当な名前で給料を出金して抜いておけよ。仲間の時給のタイムカードは切らなくていいぞ。何をしても石田さんがごまかしてくれる。できる間に取れるだけ取るんだ。」巧の言葉に隆は笑顔で頷き続けていた。
その時、巧の携帯に並子から領収書と引き換えに退職金を払うというテキストメールが入った。巧はそれを見て、更にニヤニヤとした。馬鹿な女だ。隆は巧を怪訝そうに見た。
「どうしたの?」隆は巧に聞いた。
「鴨が葱を背負って来るのさ。」彼は日本の諺を言って、笑って、隆に並子のメールを見せた。
「馬鹿だよね、日本人ってさ。」隆も吹き出した。
並子は、巧について完全に信じたわけではなかった。しかし、まさか、ニコマートの石田が従業員にそんなことをするように指示しているなんて想像できるわけがなかった。巧や隆や末井が人が居なくて残業した場合、それに対して残業代を払うのは当然だと思っていた。しかし、実は彼らは働いていない間も自分たちが働いているようにタイムレコードを切らないようにしていた。そして、石田は並子が本来するべき給料計算をさせなかった。彼は本来、巧や隆、末井の三人の給料はB勘定というオーナー勘定で処理されるということを知っていて、敢えてそう処理をしなかった。このB勘定の給料を査定し、計算するのはホットハートコーポレーションだった。つまりは並子だった。そうなれば、ホットハートコーポレーションの運営をめちゃくちゃにすることは不可能だった。並子は彼らに給料を払わないということができるからだ。だから、石田は巧と隆、末井の給料をバイト口のA勘定にいれた。これにより、彼らはバイトの給料を管理するのをいいことに自分たちの給料を自分たちで計算し、勝手に残業代をつけることができるようになった。そして、彼らは並子の監督を逃れ、石田の支配下に置くことができるようになったのだった。石田は、事実上、新土手1丁目店と新土手2丁目店のオーナーだった。全く自分の懐を傷めることも、責任を取ることもないオーナーだった。ニコマートは王らの職場放棄により新土手1丁目店と新土手2丁目店の運営がおかしくなっているのを知っていた。だから、少々のことは仕方ないとしていた。それは、石田と巧、隆、末井の行動の真の目的を隠蔽するのに好都合だった。いくらニコマートが儲け主義の大企業であっても、クライアントの認知症を利用して、社員がやりたい放題をすることを是認するまでのことはなかったのだった。彼らは、並子が権限を与えられず、責任だけを取れなどと強要されているとは、思っていなかった。ただ、彼女の運営能力の問題だと考えていた。だから、困ったものだという扱いをしたのだった。
並子は、実はそんなに強かったわけではない。本当はもう店舗運営など放り出し、逃げ出したいと考えないわけではなかった。でも、責任者という立場なのを重くとらえていた。どんな理由があろうと、何かあれば知らなかったではすまない。自分が放りだせば、それを口実にどんな無茶苦茶なことをして、責任だけ押し付けるか分からなかった。彼女は必死で、自分を鼓舞していた。だから、引越が終わり、住まいに落ち着けるまでは表立ってなにもしようとはしなかった。
そうしていると、川合労務管理事務所の川合から電話が入った。
「もしもし。」並子が電話に出ると、川合のにこやかな声が聞こえた。
「川合です。お疲れ様です。実は頂いた資料についてですが、外国人労働者登録がされていない可能性があります。」
「えっ?オール労務管理はちゃんとしてくれてなかったのですか?」
「はい。それで、それをキチンとしなくてはなりません。実は、ニコマートからそう言ってきたのです。」
「分かりました。やることを教えて下さい。」並子は川合の指示に従い、巧や末井に連絡を取り、在留カードの確認をすることを約束した。いつまでも逃げてばかりもいられないと思ったのだ。
「よろしくお願いします。」川合はそういうと電話を切った。並子から見ると、オール労務管理は王らと結託しているように見えた。彼らは外国人労働者である彼らの便宜を図る目的でそういう点は融通を利かしていたのだろうか?並子は、巧と連絡を取った。
「お疲れ様、此花です。ニコマートからの指示で働いている人の在留カードの確認と登録をするようにと言う事です。私が受取にいきますから、全員分を用意しておいてください。よろしくお願いします。」
「分かりました。とりあえず、手元にある分はすぐにも渡せますが、何人かは貰ってないので、来週頭まで待って下さい。」巧は並子が退職金を払うと約束をし、更にニコマートの名前がでると絶対に逆らわなかった。彼は、ニコマートに睨まれることを恐れているのだった。この一連のことに石田が絡まなければ、彼は何もできなかった。石田が味方だから、彼は安心してできるのだ。
池袋のニコマートの本社の社長室では、大熊と社長の沢野井が頭を抱えていた。
「それは本当か?」沢野井は大熊の報告に唖然としていた。
「はい。あの認知症の花山オーナーのことですが、どうも不穏な状況のようです。外国人労働者とうちの誰かがつるんでいるのではないかという疑いがあります。」
「おい、それは困る。特に今は。」沢野井は顔面蒼白だった。彼は出身の飯野商事に業績立て直しの援助を申し入れているところだった。そんなことが表ざたになれば、飯野商事がどんなことを言い出すか分からなかった。
「今、信頼できる部下に監視させておりますが、隠密裏に膿を排除しなくてはなりません。」大熊は厳しい顔だった。
「それで、今回の外国人労働者の在留資格や登録の強化なんだな?」
「それと、関係する者をリストラする必要があります。置いておいてもうちにはマイナスしかありません。」
「なるほど。だから、大規模のリストラを発案したのか?」
「そうです。その中に密かに紛れ込ませるのです。」
「分かった。上手くやってくれ。」沢野井は即決した。
彼らは並子やホットハートコーポレーションが彼らのやり方の犠牲になり、どんな目にあっているのか全く考えなかった。自分たちの部下がどんな理不尽をやっているのか、考えもしなかった。彼らにとって、クライアントの小さな企業がどうなろうとどうでも良かったのだ。いくらでもホットハートコーポレーションの代わりはいた。そうニコマートの生き残りの為ならそれは些細な犠牲に過ぎなかった。だから、彼らの問題の処理法は隠蔽だった。
美子が連帯保証人になると決まると、花山金太郎の施設入居の手続が始まった。並子は社宅の後始末をしなくてはならなかった。並子は会社関係の書類を完全に引き取った後、お年寄りセンターの相田を通して、花山実に必要な荷物を引き取って欲しいと打診した。退去ギリギリまで待つとのコメントも付け加えた。信子については、美子にいくつかの思い出のものを残してほしいと連絡があったので、それは倉庫を借りて預かることになった。並子はURの新宿営業センターに電話をして、花山金太郎の退去を報告することにした。
「もしもし、UR新宿営業センターです。」いつもの明るい声が聞こえた。
「私はホットハートコーポレーションの此花と申します。実は以前にうちの借りている社宅の件でご連絡を受けたのですが。」
「どのような内容でしょうか?」
「うちの社宅に認知症の高齢者が住んでいたのですが、近隣にご迷惑をかける可能性があるので退去をしてほしいとご連絡を受けました。」
「URはそのようなことを申し上げることはありません。」女性はびっくりしたように答えた。それで、並子は理解した。あの高齢者相談窓口の女性は、本当にできることをしてくれたのだ。並子が困っているので、花山金太郎の施設入居を促すべく、ああ言ってくれたのだ。
「ありがとうございます。その認知症の高齢者は施設に入居が決まりました。近日中に退去致します。」
「そうですか。係の者にそのように伝えます。」URの担当者は事務的にそう答えて電話を切った。並子は、電話を切ってから、ポロポロ涙が溢れてきた。誰も助けなどないと思っていたのに、全然思いもよらないところから助けがきたのだ。
その日、並子は新土手1丁目店に巧から外国人登録の為の書類を受取に行った。そして、その日に巧に10万円を今後一年のコンサルティング代として支払うという約束だった。並子は領収書の書類に巧のサインと印を求めた。巧は書類の内容も読まず、サインをし、認めを押して、お金を受け取った。彼は並子が自分を信じているようなので、安心していた。並子は領収書と外国人登録の為の書類を巧から受け取ると社宅へ帰っていった。
池袋のニコマートの本社のビルの側のビルにニコマートの板橋営業所の入っているビルがある。所長の竹山は部下の石田から新土手1丁目店と新土手2丁目店について、報告を受けていた。
「それで、まだ人件費はおさまらないのか?これはひどいじゃないか?」竹山は損益計算書を見て聞いた。石田は、必死で平静を装った。
「とにかく、店長たちが残業に次ぐ残業なんです。我々は花山オーナーに復職するように申入れをしている以上、此花社長に店舗運営をさせるわけにはいきません。彼らにその分のしわ寄せが行っています。」
「そのことなんだが、石田君。上は此花社長を容認する方針らしいぞ。」
「はあ、今更ですか?それじゃあ花山オーナーの認知症のことを知らなかったとは言えなくなりますよ。」実は勝沼から既に聞いていたとは一言も言わない。
「そうだ。つまり、誰かが切られるということだ。どうも、大規模なリストラがあるらしいぞ。」
その言葉に石田は青くなった。自分がその対象になることは、まず間違いないからだ。
「でも、私はご指示通りのことをしただけです。」
「分かってる。私も勝沼さんの引継ぎに従ったまでだ。」竹山も抜け目なく勝沼に責任を擦り付けた。
石田は、必死で頭を巡らしていた。石田にしたら、今更、此花社長との関係を修復することは困難に思えた。少なくとも会計資料を渡せば、彼女は石田たちのしたことを全て見抜くだろう。巧の後の隆はどうもあてにならないという予感がした。隆や末井の報告でも彼の事務処理能力はひどいものだった。彼では、裏どころか表もダメだろう。ただ、欲だけは人一倍ありそうだから、裏のお金を抜くのはやるだろう。しかし、うまく誤魔化すことはできない。早晩、此花社長に店舗運営に関わらせざるを得ないだろう。それをどのようにうまく彼女をコントロールしてやるかは、何か取引を申し出なくてはならないだろう。しかし、それは今、何も思いつかなかった。
「とにかく、様子を見よう。」ため息をつき、竹山は言った。
ニコマートの新宿のフランチャイジーの店では、花山実がお年寄りセンターの相田からの電話を受けていた。
「やっと、連絡がつきましたね。よかった。」相田はまずチクりと実に言った。実は全く平気だった。この電話も嫌な予感がしたのと、あまりにもしつこい連絡だったので取っただけだった。
「何か?父のことでしたら、先日お答えした通りです。うちは施設入居の連帯保証人にはなりません。相続も放棄します。」実はつっけんどんに言った。
「いえ、その件はもう大丈夫です。別の方が連帯保証人になって下さることになりました。それで、UR団地を退去することになったので、必要な荷物があるようでしたら、引き取りに来てほしいとのことです。」
「はあ、それはどうも御親切に。」実は言い方に馬鹿にしたような、ニュアンスが含まれていた。認知症の施設入居の連帯保証人というものがどういうものか、実はよく知っていた。何かある度に呼び出され、費用が足りなくなれば、支払も肩代わりしなくてはならない。そんなことを引き受けるお人好しはそう簡単にいるわけがなかった。更に、父のものから自分の必要なものがあれば引き取ってもいいなんて、驚く話だ。
「期限は10月10日だそうです。引き取られる場合には、ご連絡をください。」相田はそう伝えると電話を切った。
実は、暫く相田の電話の意味を整理していた。これは、不味い展開だった。父親が施設に入居となれば、さすがにニコマートも金太郎の認知症を認めなくてはならなくなる。そして、自分は石田との約束のお金を受け取れなくなる。どうしたらいいか?と暫く実は考えた。とにかく、このことは石田には伏せておこう。自分は知らなかったことにして、少しでも多く、石田からせしめようと決めた。自分は石田の指示通りにやった、まさか、そんなお人好しが現れるなんて想像しなかったのだ。自分には責任はない、そう自分に言い聞かせた。
花山金太郎は9月の最終週に板橋の施設に入居した。美子がタクシーでつれて行った。金太郎は施設に着くと、帰りたいと駄々をこねたが、美子は住んでいる団地が改修することになったからと言って、金太郎を説得して、置いて行った。その日、美子は並子の社宅に泊まった。
「かわいそうだったわ。」美子は娘に言った。並子は母の背中をさすりながら、
「仕方ないよ。だって、もう面倒を見切れないじゃないの。」と繰り返した。
「そうよね。仕方ないわよね。」美子も自分に言い聞かせていた。
「明日から、色んな解約手続をしなくてはいけないと思うわ。お母さん、悪いけど花山オーナーの施設に必要な荷物を作るのをやってくれない?だって、服の替えとか必要でしょう?名札も付けるんでしょ?」
「そうよね。お父さんのことは力子が暫く見ててくれるから、それはしてあげなくちゃね。」美子はそういうと、少し元気になった。せめてものことをしてあげようと考えたのだ。
「息子さんが何か荷物を欲しがるかもしれないから、早めに片付けて、いつ息子さんが来てもいいようにしとこう。」
並子がそう言うと、美子も笑顔で頷いた。
二人は、近所のスーパーで買ったお惣菜とご飯で簡単な夕食を食べ始めた。
翌日、並子と美子が金太郎の部屋を見分すると、某宗教団体の新聞が山ほど積まれていた。電話も某電話会社の最新設備が設置されていた。どこも、金太郎の認知症を知っていてカモにしていたのだった。これらを解約しなくてはならないと二人は考えた。並子は分かる限り、それらの契約担当に金太郎が認知症で施設に入居したので、退去するから契約を解除したいと連絡して回った。大抵の相手は、他人の並子の言葉を疑った。並子は施設の名前を話、解約に応じないのなら、誰も手続をできる人間はいなくなると警告した。認知症の人間に契約をさせたということ自体が不味いことのようで、そういうとどこも他人の並子でもいいから契約解除手続をしてほしいと言ってきた。美子は、金太郎の衣類のいいものを選び、名札を付けたり、修繕したりして、施設での生活に不自由のないように準備を始めた。そうやっていると時間はあっという間に過ぎていった。金太郎の息子からは何の音さたもなかった。花山実は石田の手前自分は知らなかったことにすると決めたので、放置することにしたのだった。万が一、石田に自分が父親の社宅に荷物を見に行ったなどとわかれば、石田からお金を吸い取ろうという目論見が外れてしまう。
そして、とうとう、10月10日になった。金太郎の荷物は大半置かれたままだった。美子とお年寄りセンターの相田との話し合いで、それらの整理はURに任せることになった。その費用は、花山金太郎に請求してよいとの了解も得ていた。
美子と並子は二人で金太郎の部屋の鍵をURに返却し、その足で美子は千葉へと帰っていった。
石田は、その日、T団地の花山金太郎の家を訪れた。しかし、何度呼び鈴を鳴らしても、誰も応答がなかった。彼は、もしかしたらと考えて、ドアノブも回した。しかし、それも鍵がかかっていて開かなかった。彼は、顔色を変えて、隆に連絡を入れた。
「花山オーナーが居ないぞ。」彼は隆に怒鳴った。隆はムッとしたが、すぐ、気を取り直した。
「そんな馬鹿な!末井さんに聞いてみます。」そういうと彼は電話を切った。そして、直ぐにまた、着信が入った。
「末井さんも知らないようです。」
「わかった。此花社長に聞いてみる。」そういうと石田は並子へ電話した。
「此花ですけど、何か?」並子は必死で嫌な気持ちを抑えて答えた。
「花山オーナーが居ない。どういうことなんだ?」石田は高圧的に言った。
「ああ、それは。行政に言われて施設に入居されたんです。」並子は答えた。
「こっちにも言ってもらわないと。」石田は幾分声のトーンを抑えた。彼の頭には先日の竹山所長からの話が頭をよぎったのだ。
「バタバタして、遅くなってすみません。」並子は大人の対応をし続けた。
「上に報告します。」石田の声にはどこか脅しのような色が残っていた。
「どうぞ。」そう言うと、並子は電話を切った。
石田の頭の中は「不味い」という単語が駆け巡っていった。どうごまかそうか?この状況では並子を認めなくてはならないが、それをすると彼女に会計資料を渡したり、店舗運営について関与させなくてはならない。それをするには、自分はまずいことをたくさんしすぎていた。並子が正式な店舗運営について正確な知識を得たら、自分が嘘をついて、店舗運営をめちゃくちゃにしてきたことも明るみにでる。既に上司らが自分に全ての責任を押し付けて切ろうとするだろうと予測していたが、それでも、この立地の引き合いが来ているフランチャイジ―に渡せば、その功績で挽回することもできるかもしれなかった。それに、万が一リストラされても、他の有望なフランチャイジーに恩を売っておけば何等かの見返りもあるだろう。此花社長への店舗運営権の引継ぎは何としても妨害しなくてはならない。石田の腹は決まった。
池袋のニコマートの本社では、大熊専務が古井次長から花山金太郎の施設入居の報告を受けていた。
「そうか。花山さんは施設に入られたのか。」大熊専務の声は一抹の寂しさが含まれていた。ニコマート創業当時には一緒に店舗運営で汗を流した仲間の老いさらばえていく話は悲しく、寂しいものだったのだ。古井は大熊を無言で見つめて、言葉を待った。
「息子は連帯保証人を拒否してた筈だよな。一体どうやったんだ?」
「はい、どうも此花社長の母君が連帯保証人になられたそうです。」古井は、石田ではない部下に内密に確認をさせていた。
「そうか。他人の方がよっぽど情があったんだな。」大熊の花山実に対する評価は当初と全く違ってきていた。
「引き続き見張らせろ。息子の後ろに誰がいるか突き止めるんだ。どうも違和感がある。」大熊専務は古井に命じた。古井は肯くと、軽く礼をして専務の前を辞して行った。
大熊専務は古井が居なくなると、内線で社長室を呼び出した。
「専務の大熊だが、社長に繋いでくれ。」大熊は社長室の社員に言った。
「大熊くん、どうした?」社長の沢野井は普段通りの声で電話にでた。
「社長、例の案件ですが、認知症のオーナーが施設に入居されたそうです。」
「例の案件、というと新土手1丁目店かね?それは良かった。これで、あるべき方向に解決が進むといいのだが。」
「しかし、社長。どうも私は嫌な予感がします。これで連中が諦めるとは考えにくいのです。」大熊の胃のキリキリはまだ続いていたのだ。
「となると、どうやってこれを内密に収めるかだな。飯野商事は近日中にうちへの経営のテコ入れの方針を決めるようだ。これが表沙汰になれば、手を引くことも考えられる。勿論、俺たち全員の首切りもあるだろう。」
「なんとか、抑えます。」大熊は本社として、この件に直接介入することはできないと決断した。暫くは見て見ぬふりをするしかない。下手に介入すれば、表沙汰になり、飯野商事の対応に影響を与えることになる。それは、ニコマートにとってはいい結果にはならないだろう。二人は、自分たちの部下が顧客であるホットハートコーポレーションに対して不正を働いているのを知ってて、自分たちの保身のために放置することを決断したのだ。
並子は花山金太郎の施設入居が完了し、自分の社宅への引越も落ち着いた。巧は先月で店長を辞め、石田が隆を店長に指名したという連絡を受けていた。巧は、辞める前に、並子にいくつかの要求をしていた。一つは退職金だった。そして、もう一つは雇用保険を会社都合で手続をすることだった。並子は、巧と争うことを避けた。黙って、言う通りにすることにした。
なぜなら、現在残っている隆も末井も巧と強い個人的繋がりがある人間で、しかも、現在雇用しているバイトは全て巧や隆らが面接し、雇った人間で、誰に忠実かというと、それは並子ではなかった。そして、ニコマートが並子に店舗運営権限を与えないこと、バイトや客たちのまえで馬鹿にしてきたことで、バイト達も並子を馬鹿にしていた。つまり、バイトたちに給料を払っているのはホットハートコーポレーションであるにも関わらず、彼らはニコマートの石田が事実上のオーナーだと考えていたのだった。並子は王らのようにまた集団で職場放棄をされることを恐れていた。それが、1店舗だけならまだしも2店舗それをされたら、並子には手の施しようがなかった。そして、それを理由にどのような無理難題をニコマートからされるかわからなかった。並子は逃げ出したいと何度も考えてしまった。だから、一日延ばしに店舗に直接関わるの避けていた。でも、いつまでもそうは言っていれなかった。だから、まず、川合労務管理事務所の川合理事長から言われた外国人登録の為の書類を隆と末井から受取に行った。勇気を必死に振り絞っての一歩だった。
並子が新土手1丁目店に行ったのは夕方頃だった。事務所に一歩入るとその汚さに驚いてしまった。巧が辞めてから、事務所が一切片付けられていないのだった。並子が、受取書類を探して、引出をかき回すと、新土手1丁目店の9月の会計資料が出てきた。石田が、花山金太郎に渡していると並子に言っていたものだった。そもそも、石田も職場放棄した王も会計書類は吉田税理士に送るシステムだと説明していた。「どういう事なんだろう?」並子は更にかき回したが、出てきたのはそれだけだった。しかし、伝票やら様々な書類が整理もされずに放り込まれていた。これは、とてもちゃんと仕事ができているとは思えなかった。しかし、隆は残業代を無制限に取っていた。川合理事長に言われて、王らが職場放棄して以降の給料をみて驚いたのだが、巧、隆、末井の三人は新土手1丁目店、2丁目店の全利益分を自分の給料として受け取っていたのだ。彼らは、一般にB勘定で処理される給料体系の人間だった。B勘定とはオーナー勘定と呼ばれ、オーナーが受け取るオーナー配分金から支払われる給料ということだった。一般のバイトたちがA勘定で店の売上から経費として給料を差引くのとは区別されるものだった。それらは、店長が管理してニコマートに金額を知らせて、ニコマートから振込むか、又はレジから伝票処理して支払われるのだ。つまり、巧、隆、末井の3人は自分で自分の給料を勝手に査定し、勝手に振り込ませていた。しかも、隆のこの書類整理のめちゃくちゃさから考えると、それだけの仕事をしているとは全く思えなかった。
「これは、どうしたらいいかしら?」並子は考えた。自分が店舗運営について学ばなければ、早晩この店は破綻するだろうと予想した。しかし、自分の店舗運営権を認めないニコマートに教えてほしいとはとても言えなかった。石田は、並子が先日経営を健全化の為に労務管理事務所を変えようとしたら、早く花山オーナーの成年後見人を選任する方が先だと怒鳴り付ける人間だ。それに、どうも彼が教えることは正しいとは思えなかった。隆のこのていたらくでは、彼には頼むのは無理だった。すると、末井だろうか?並子は彼も信用しているわけではなかった。正しい店舗運営法を教えるとは限らない。しかも、自分はそれを検証することはできないのだ。並子は、自分がもらう約束の書類だけを持ち去り、他の書類を元に戻し、暫く機会を伺う事にきめた。
翌日、石田は新土手1丁目店を来店した。彼は、レジには誰も立っていなかった。彼は店内を一回りすると、皮肉に笑った。店内の展示は落ち、床は汚れていた。欠品している商品もたくさんあった。彼の耳には、隆の事務処理能力のひどさについての本社経理チームからの苦情も届いていた。顧客からもクレームもあった。隆は友人たちを誘って、チームを組んで働いていた。その友人たちの時給は他の店とは比較できないほど高かった。彼らは、深夜勤務をやりたがった。高い時給の人間が深夜の割増がつく時間に入ったら、どれだけの人件費になるか。それも、早晩問題になるだろうが、もっと大きな問題は、隆と友人チームはシフトの休憩を同時に取るのだ。つまり、その間、お客さんが来ても、誰も接客する人間がいないという事態になっていた。店のレジのつり銭が何万も足りなくなるということも多発していた。まあ、そもそも、店舗運営をめちゃくちゃにするためにやっているのだから、さもありなんだった。
石田は、隆のいる事務所に入った。隆は友人とコーヒーを飲んで一服しているところだった。
「お疲れ様。レジに誰か入った方がいいんじゃないか?」石田がそう言うと、隆の友人はコーヒーを飲むのを止めて、レジに入った。
「石田さんどうしたんですか?」隆はストコンの前の山と積まれた書類の上に肘を投げ出して聞いた。石田は、持ってきた書類を出しながら、
「この書類にサインと印鑑を頼むよ。」
石田の書類を見て、隆は笑った。石田はホットハートコーポレーションの印を押せというのだった。
「なんですって?いいんですか?」
「ああ、王さんが店長の頃からずっともうこうだよ。巧君から聞いていなかったの?此花社長の前で1、2回は花山オーナーの署名と印をもらったけど、そんなのずっとできるわけないじゃないか。花山オーナーに署名や判子を押すってことを理解させるのは大変な作業なんだぜ。それに、此花社長はどんな書類に何回押印したかなんてわかるわけがない。だから、王さんや巧くんに頼んで適当に花山オーナーのサインをしてもらって、適当な印鑑を押させていたんだ。花山オーナーの印鑑ケースからゴム印や社判を拝借したこともあるよ。でも、それができないときは、仕方ないだろう?うちの方だって、一々社判やサインが本物かどうかなんか調べないからな。だから、花山金太郎ってサインして、この印鑑を押してくれよ。」そういうと石田は花山の認め印を渡した。隆は言われた通りに書き、印を押した。隆は巧から石田の指示には絶対に逆らうなと言われていた。今後のボスは石田だと。巧も隆も末井も親類がニコマートのフランチャイジーに勤めていた。ホットハートコーポレーションに睨まれても痛くも痒くもないが、ニコマートに睨まれたら、親類に類が及ぶ、それは絶対に許されないことだったのだ。石田は、書類を受け取ると、「またな。」と言って事務所を出てい行った。
並子はニコマートの対応がおかしいとは感じていた。彼女の最も不思議に思ったのは、診断書を医師が並子や美子に出さなくても、花山金太郎は認知症なのは明らかだった。そして、竹山所長も石田も成年後見人の申立てを早くしろと言うのだから、それを理解している筈だった。しかし、彼らはその花山金太郎に経営権限を戻し、店舗運営をさせろと強要し続けていた。当たり前の企業だったら、そんなことをすれば何等かの事件があった時にニコマートの責任も問われるから絶対にしないことだ。それを、堂々とやっている。公になったらただでは済まないことをだ。つまり、絶対に公にはならないと思っているのだ。彼らは並子には何の後ろ盾もないと知っていた。だから、何をしても大丈夫だと見ていた。押田弁護士の存在も彼らには意味がないようだった。
並子は、先日の新土手1丁目店の様子を見て、どうしても自分が店舗運営に関われなくてはならないと思った。隆は全く無能だったのだ。彼に店舗運営をさせると決めた石田は本当に無能だった。もしくは、全く店舗運営を健全に行うつもりがないということのようだった。彼らニコマートは並子に店舗運営をさせない。そして高いロイヤリティーを払わせて、店舗運営を破壊しようとしているようだった。企業としてあり得ない行動だった。
彼らは、全く契約上の仕事をしていないで、暴利を貪っているのだ。その彼らに対して、並子が店舗運営に関わるのは正当な切っ掛けが必要だと思った。まずは、外国人労働者登録を手伝うことから始めた。そして、次に、もっと直接的に店舗運営に関与する機会を待った。それは、やがてやってきた。
近年、東京都はゲリラ豪雨の被害を何度も経験していた。地方では、上水と下水は分かれて配管されているのだが、大都市東京は上水と下水が分かれておらず、その為、豪雨によりマンホールが溢れて、浸水被害を出すという事例が数多あった。新土手1丁目店も新土手2丁目店も名前のとおり浸水被害にあいやすい、川沿いの立地だった。その年、10月17日、板橋区は台風による河川の氾濫の警報が出た。ニコマートは板橋区の店舗に対して、営業の自粛を呼びかけた。並子は、自分も知らん顔はできないと思った。彼女は石田に連絡を入れ、新土手1丁目店に向かった。店内には隆と友人のバイトと愛ちゃんが居た。そして、並子の連絡を聞いて、石田が駆けつけた。
「どういうつもりですか?」石田は並子を見ると言った。
「だって、責任者ですから、放置してるわけにもいかないと思ってきたんです。」並子は責任者ということばを強調して言った。石田も、この状況では彼女の意思を無視できないと思ったようだった。営業本部から店舗の営業停止の指令が出ていた。そうなると、金庫や鍵の保管をする人間が必要になる。
「板橋区の全店舗は休業になります。1丁目店と2丁目店の金庫とレジの売上をあなたが保管してください。ここが終わったら、2丁目店に行って、現金を預かって下さい。ここは、店の鍵をかけて、避難します。」石田は、そういうと鍵を探した。王が職場放棄した際、誰も鍵類の場所を確認していなかったのだ。暫く探したが、分からず、どうしようかと思案したいたが、ふと、ロッカーの奥にあるキーボックスのことを思いだし、開けると中に店の鍵が入っていた。
「よかった。これで店の扉を閉められます。じゃあ、此花さん、金庫の中の現金とレジの現金を全て回収してください。」
石田に言われた通りに、並子は現金をビニール袋に入れ、自分の背負ってきたリュックに入れた。石田は、並子がどこへ帰るのだろうと不審に思った。
「此花さんの家は?」
「店の近くに引っ越しました。では、預かります。これから、2丁目店に向かいます。」並子はそういうと、店の鍵を閉めたのを確認してから雨の中を雨合羽を被って、新土手2丁目店に向かった。勿論、石田は車だったが、キチンと礼を言った。店の責任者として、そうすべきだと考えたのだ。どんな人間だとしても、今日は台風の中を店の、休業の対処を手伝ってくれたのだから。そして、並子は新土手2丁目店に向かった。末井が、お金が入って袋を並子に手渡した。並子は受け取ると、豪雨の中をT団地の社宅に向かって歩いた。
翌日、天候は晴れた。朝一で、並子は預かった現金を持って、新土手1丁目店、新土手2丁目店に向かった。末井は既に来て、開店の準備をしていた。並子が現金を渡すと、扉の前で待っていた客を店内に入れ、営業を再開した。新土手1丁目店の方は、隆が中々来なかった。並子は少し扉の外で隆を待った。彼とその友人数人が一緒にやって来て、営業再開の準備を始めた。並子は現金を隆に渡した。この時、並子は、店舗運営を末井に教わろうと決心した。彼が並子に完全に正しい店舗運営を教えてくれるかどうかは分からない。でも、この状況では自分が店舗運営を直接に関わらない限り、店は良くならないと思ったのだ。しかし、この時、並子はニコマートの石田が並子のこの行動を利用して、更に並子を過酷に傷めつけるとは予想していなかった。彼女は、石田の目的がホットハートコーポレーションの立地を他のフランチャイジーへと奪うことが目的だなんて想像してもいなかったのだ。また、ニコマートが自分たちの会社を犠牲にして、自分たちが花山金太郎の認知症を利用して働いた不正をもみ消そうと画策していることも想像していなかった。
もし、ヤクザを相手にしているのなら、そういうこともあり得ると考えたかもしれない。また、詐欺師を相手にしているのなら、それは警戒して当たり前のことだった。しかし、ニコマートは東証上場企業だったのだ。しかも、日本全国のみならず、海外にもフランチャイジーを抱える大企業なのだ。それが、そんなことをするなんて普通の人間には想像することさえできないことだった。
並子は、どこかで、ニコマートは自分がいかなる人間なのか、試しているのだろうと信じていた。だから、自分がキチンとした誠実な人間であることが分かれば、ちゃんとした対応をしてくれるに違いない、そう考えていた。傍から見たら、世の中を分かっていないお嬢さんの考えだと思う。でも、並子が対峙しているのはヤクザでも詐欺師でもない一流企業だったのだ。だから、並子は酷い対応をし続けていたニコマートの石田にも、礼儀正しく接していた。巧や隆にも末井にも他のバイトたちにも、どんな態度を取られても、誠実に接しようと努力をしていた。それは、ニコマートの石田にも巧にも隆にも、末井にもバイト達にも嘲笑される努力だった。彼らは陰で並子を馬鹿にして笑っていた。
その翌日には、台風の被害が落ち着き、店はいつもの日々が戻ってきていた。並子は意を決して、新土手2丁目店に向かった。末井に店舗運営について教えてもらう為だった。
並子が店に入ると、レジにバイトたちが働いていた。末井は事務所の中だった。
「お疲れ様。ちょっといいかしら?」並子が声をかけると、末井は作業を止め、並子を見た。
「どうぞ。」末井は台湾訛りのある、彼は自分の向かいの席を示した。並子は、末井の示した組立椅子に座った。
「ちょっと、この作業が終わるまで待ってもらえますか?」末井はまた、ストコンをいじりだした。並子は肯くと辛抱強く待った。十分くらいもしただろうか、彼は手を止め、並子を見た。
「実は、店舗運営について教えてもらいたいの。」並子は末井に言った。末井は、ちょっと考えていた。そして、手を滑らして、何かを落とした。並子はそれを拾って、末井に手渡した。それを末井はニヤリと笑って受け取ってから言った。
「いいですよ。いつからですか?」
「明日からお願い。」並子は言った。
「分かりました。明日、午前中に来てください。」
「朝9時くらい?」
「了解です。」末井は本当にあっさりとしていた。必死の覚悟で来た並子が拍子抜けしてしまうくらいに簡単だった。
「じゃあ、明日からよろしく。」並子はそう言うと、店を出た。
並子が店を出たのを見届けると、末井はニコマートの石田に電話をした。
「末井さんどうした?」石田は末井の電話に驚いた。
「此花社長が俺のところで店舗運営を習いたいと言ってきました。」末井は並子との会話を伝えた。
「ふーん。」石田は末井の話をあまり意外には思わなかった。先日の台風被害の際の此花社長の態度から彼女が新土手1丁目店、新土手2丁目店を諦めていないことは分かっていた。それに元々、巧が抜けた後に此花社長が直接介入しだすことは想定内のことだった。
「末井さんはどう答えたの?」石田は末井に尋ねた。
「反対する理由もないし、教えると答えましたよ。」
「それなら、それでいいよ。いつまでも、こんなことをやってはいられない。どうやって手を引くかを考えなくてはだめだよ。此花社長が俺たちのしてることを気付かない内に、例え気づいても何もできないようにやらなくてはならない。」
「どうするんですか?」末井は好奇心を感じて石田に尋ねた。
「まあ、見ててよ。今の様子じゃ隆くんの方は長持ちしないと思うよ。クレームがありすぎだよ。本部もこれじゃあ彼らのことを放置できないよ。この責任を此花社長に押し付けるには、彼女が店舗運営に直接関わる方が都合がいいよ。」
「わかりました。じゃあ、教えますね。」末井は楽し気に言った。
「俺たちのやったことの責任を全てあの社長に押し付けるんだ。あの社長が全てに気づくころには俺たちはコンビニとは全く無縁になっている。誰も手出しができない位置にいるのさ。」石田は冷たく言った。
「了解です。」末井は応えると電話を切った。
石田は末井の電話が切れると、ある電話番号を押した。
「ご無沙汰してます。ニコマートの石田です。」石田は挨拶をした。
「ああ、石田さん、どうされました?」相手は男性で年齢も重ねているようだった。
「オーナー、確か板橋にいい立地を探されてましたよね?」
「え?何かあるんですか?」男性は興味を持っているようだった。
「はい、よいのがあります。しかし、他にも興味を持たれている方がいますので、」
「うちに回してくれたら、石田さんに感謝するよ。」オーナーと言われた男性は言った。
「例えば、私がどなたかオーナーさんに対して便宜を図ったのが分かれば、私も無事ではいられなくなるかもしれません。」石田は、そこまで言うと、相手に考える時間を与えた。相手のオーナーはコンビニが立地商売なのを熟知していた。良い立地は、要なのだ。
「もし、本当に良い立地で、うちを優先したために石田さんが困ったことになったら、私が石田さんのことを責任を持つよ。だから、よろしくね。」男性は答えた。
「それ、文章にしてもらえますか?」石田は要求した。
「いいよ。今度うちの店に来たら、書くよ。」
「分かりました。」石田は、そういうとできるだけそっと電話を切った。そして、ホッと胸をなでおろしたのだった。これで、リストラされても、ホットハートコーポレーションの立地を渡せば、自分の身は安泰だ。後はどうやって、此花並子をコントロールし、騙すかを考えねばならないが、あの此花社長の純粋そうな姿を思い浮かべると、それは難しくはないと思った。
翌日から、並子は新土手2丁目店に向かった。彼女は末井からレジの精算業務とニコマート本部への送金業務を教わった。精算業務は経理事務の応用のような感じだったので、慣れたらできそうだった。ニコマートの本部への送金業務は精算業務が終わり、本部への送金金額が決まると、その金額を店内のATMに入金し、それを本部が振替操作するというシステムだった。末井は並子に数日それをさせた。そして、大丈夫と判断すると、次に発注を教えると言った。並子は発注の締めと仕方を末井から教わった。その間も、並子は新土手2丁目店に来る客たちからも新土手1丁目店の隆たちに対するクレームを言われた。並子は、早晩彼らと対峙しなくてはならないだろうと考えていた。しかし、それには自分の準備を整えなければならない。焦って飛び込んでも、店舗運営が全く分からない状況では混乱させるだけだと思った。今は準備の時だ。
その頃、ニコマートの本社では、社長の沢野井が大熊専務と打ち合わせをしていた。
「新土手1丁目店の店舗運営は荒れまくっています。この荒れまくり方は尋常じゃありません。うちの者が関与している可能性大きいです。押田弁護士からの情報では、フランチャイジーの代表に店舗運営をさせないそうです。」
「それじゃあ、大きな問題が起きる可能性があるじゃないか。」
「そうです。内密に見張らせている部下からも、危険だと言ってきました。しかし、代表が店舗運営を独自に学んでいるそうです。彼女にやらせた方がいいと思いますが、うちの者たちの不正を明るみに出すわけにはいきません。」
「本社のトレーナーたちがそれとなく手伝いを装って、見ているようだが、危険だと言ってきた。トレーナーたちに手伝うということで揺さぶりをかけたらどうだろうか?」沢野井が言った。大熊も肯いた。
「それはいいです。本社の人間が直接入れば、奴らもやりにくくなるでしょう。まず、古
井次長を通じて、情報を流します。揺さぶってやりましょう。」
「ああ、頼むよ。上手く内々に収めるのだ。」沢野井の表情は厳しかった。これはニコマートにとって、蟻の一穴となる可能性のある事件となっていた。
石田はその日、新土手1丁目店に来ていた。店は本社からトレーナーたちが来て、陳列を直してくれたので、きれいだった。隆たちがあまりにも精算事務ができず、発注も、陳列もめちゃくちゃなので、とうとうそういうことになったのだ。石田は、自分たち板橋営業所の人間ではなく、本社のトレーナーたちが入るようになり、更に此花並子も末井のところに店舗運営を勉強しに行くようになったことに危機感を感じていた。このまま、此花並子と本社のトレーナーたちが接触するようになれば、自分の不正が明るみに出ると不安になっていた。彼には離婚した妻への慰謝料の支払、現在の妻と子の生活費という十字架があった。石田は、並子と取引をしなくてはならないと決心した。
隆は整理整頓を全くしないストコンの机を前にして、バイトの友人とコーヒーを飲んでいた。彼も自分があまりいい状況ではないのを理解していた。石田が事務所に入ると、友人は席を外した。
「そろそろ、潮時だな。」石田はボソッと言った。隆は少し頭をかいた。
「そうですね。で、どうしましょうか?」
「まず、俺が此花社長をなんとか言いくるめる。君は、俺が時間稼ぎしている間にできる限り多くレジから日払い給料の形で現金をぬけ。そして、いつものように分けろ。君、不味いぞ。嘘でも偽名でも誰に払ったか残しとけよ。末井さんや巧くんはそれくらいはしてたぞ。」石田の言葉に隆は二ヤニヤと笑って答えた。
「どうせ嘘なんだし、俺たちはもう逃げるからめんどくさいと思ったんですよ。」
石田は呆れた顔で隆を見たが、肩をすくめた。そして、隆の前で電話をしだした。
「もしもし、ニコマートの石田です。」
「はい、此花です。なんでしょうか?」並子の声は自制心をかき集めたような響きがあった。それはそうだろう。
「あんたがどんなに頑張っても、あんたにはなんの得もないぞ。」石田はまず、脅しから切り出した。彼は弱い者には威張るという性質上それからしか話ができないのだ。
「・・・。」並子は沈黙した。
「単刀直入に聞くが、あんたが欲しいのは金か?店舗運営権か?」並子をコントロールする方法が石田にはそれしか思いつかないのだった。正直に言うと、並子はこんなややこしい状況の店舗運営など放り出したかった。しかし、彼女の直感がそれは言ってはならないと告げた。
「店舗運営権です。」並子は応えていた。石田はニヤリと笑った。それなら簡単にこの女を利用できると踏んだのだ。
「それなら、俺の言う通りにしてください。本社がどう言おうと俺はあんたを悪いようにはしない。」石田は言った。彼はその時既に他のフランチャイジーにホットハートコーポレーションの立地を譲る約束をしていた。しかし、そうキッパリと約束したのだ。
「わかりました。」並子は答えた。並子にはニコマートに対する伝手など何もない、だからそれは仕方のない決断だったのだ。
電話を切って、石田は隆を見た。二人は顔を見合わせて、腹を抱えて笑った。
「馬鹿だよね。まだ、店舗運営権を欲しいだなんて。」隆はおかしくて堪らないという感じで言った。
「ホントに世間知らずのお嬢さんだよ。」石田も同じだった。
二人があまり笑っているので、席を外していたバイトが覗きに来た。それでも、二人は笑いが止まらなかった。
竹山所長は、池袋の板橋営業所で部下の影井と打合せをしていた。影井はやせ型でひょろ長く頭髪もあまり豊ではなかった。
「それで、石田の様子はどうだ?」竹山は密かに影井に石田を見張らせていたのだった。
「あれは、危険です。所長は最近新土手1丁目店に本社から人が出てるのをどう思われますか?」
「きな臭いと思ってるよ。普通なら本社ではなく、営業所からヘルプを入れさせるはずだ。きっと、上は何か掴んでるに違いない。」竹山の表情は暗かった。
「他店でも新土手1丁目店のことは噂になってます。本社の耳に入らない筈がない。本社が直接、動く前に営業所で何等かの手を打たなければ、営業所長の管理責任を追及される可能性があります。」影井の言葉は既に竹山の気持ちと同じだった。
「分かってる。しかし、下手に騒ぐとこちらに火の粉が飛んでくる可能性がある。慎重にタイミングを図る必要がある。」竹山は、新土手1丁目店と新土手2丁目店の会計データへのチェックを厳しくするように部下に指示していた。大きな問題が起これば、石田の仕事に介入する気だった。
「引き続き石田を監視します。」影井は言うと、仕事に戻って行った。竹山は大きくため息をついた。板橋営業所に赴任した時、彼は自分の人生に大きな希望を抱いていた。しかし、今はこの問題をうまく納めなくては自分の進退さえ危険であると思っていた。
翌日、並子は、いつものように新土手2丁目店の末井に発注を教えてもらいに行き、いつものように、スーパーで買い物をして社宅に戻った。帰ると母の美子が来ていた。美子は、娘の顔を見ると、手料理を並べ、二人は久方ぶりに一緒に夕食をとった。
「やっぱり、お母さんの手料理が一番だわ。」並子は嬉しそうに話した。
「そう、ありがとう。お代わりはまだまだあるわよ。」そう言うと、美子は揚げたてのコロッケを並子の皿に置いた。
「ところで、どうしたの?お父さんの具合はどう?」並子は美子が理由もなく、自分の顔を見に来たとは思えないのだった。
「お父さんは相変わらずよ。実は、花山のお父さんが精密検査で、付き添いなの。」美子は、施設から受けた報告の内容を話した。実は、金太郎は入所前から頭に大きな出来物ができる奇病を患っていた。入所前の検査では異常がなかったのだが、ここにきて施設側が再度病院に連れていくことになり、リンパ腫の疑いで、精密検査となってしまったのだ。その付き添いに連帯保証人の美子が呼ばれてやってきたのだった。
「で、いつなの?」並子は尋ねた。
「3日後よ。それまで、あんたの食事を作ってあげるからね。力子もお姉ちゃんに美味しいものを食べさせてあげてって言ってくれたのよ。」
「わあー!うれしい。お母さんの手料理に飢えてたんだ。」並子は嬉しそうに笑った。
久しぶりに並子は心からリラックスをして、母と団らんを過ごせたのだった。
石田は、その頃、都内の某所のビルの中にいた。そのビルにはニコマートと複数のフランチャイズ契約をしている会社の事務所があった。石田はその応接室と思しき部屋に初老の恰幅のいい男性と一緒にいた。
「それで、石田さん、本当にそこの立地はいいのかい?」初老の男性は石田にお茶を勧めながら尋ねた。石田は新土手1丁目店の過去の売上などのデータの入った書類を鞄から取り出し、渡した。
「はい、社長。今は、目の前の都営アパートが建替えになる為に、売上が落ちていますが、建て替えが完了したら、売上が以前を超える可能性もあります。」
初老の社長と言われた男性は、石田の渡した書類を何度も点検し、いくつかの質問を石田にした。そして、二人は1時間もそうしただろうか、社長と言われた男性は、応接室を出て行った。手には2枚の紙があった。
「覚書だよ。うちを優先してくれたことによって、石田さんが困ったことになったら、うちが何等かの手当をする。」
石田は、覚書を点検してから、言った。
「社長、もう少し色を付けてくれませんか?」
社長は、舌打ちをした。
「なんだよ。」
「今の俺よりいい待遇で雇用するという一文を入れて下さい。それから、支度金も100万円下さい。」石田は、条件を追加した。社長は、もう一度、石田の持ってきたデータを見てから、言った。
「分かったよ。しかし、このことを少しでも外部に漏らしたら、この話はなかったことにするよ。いいね。それも、入れさせてもらう。」
石田は、頷いた。
「直ぐに書面にしてください。」
社長はまた応接室を出て、直ぐに戻ってきた。書面は二人の合意内容で修正されていた。
「君の署名と母印をくれ。うちのはもう入ってるから。」
社長の言葉に、石田は内容を確認すると覚書に署名と母印をした。
「では、失礼します。」石田が言うと社長はちらっと石田を見、また石田の持ってきた書類を見ていた。石田は、応接室を出ると、事務員がいる事務室を通り抜け、ビルのエレベーターに乗った。彼は、もう一度、覚書を見て、ニヤリと笑った。これで、自分の不正がバレてもホットハートコーポレーションの店舗運営権を取り上げたら、安泰だ。此花並子は本当にお人好しの馬鹿だ、自分たちがどれほど騙しても気づかない。世の中に認知症の花山金太郎に店舗運営させるなんて話がまかり通るわけがないのも気づかないのか?そんなことを天下のニコマートが言うわけないじゃないか。俺たちが店の利益を盗むためにやっているに決まっているじゃないか?それに、あんな王たちだけでこんなことができるわけないじゃないか?俺が全てを仕切っていなければできるわけないことだった。その俺の言葉を信じるなんておめでたい女だ。まだ気付かないのか?石田は、此花並子を完全に馬鹿にしていた。




