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銭将軍秀忠、金庫番からの成り上がり  作者: エピファネス
第2章 小田原征伐編

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第8話 旭姫の遺言と、豊臣の「秀忠」

【天正十七年(一五八九年)十月――駿府城】

天正十四年の大坂城謁見より、三年余り――。

天下人となった豊臣秀吉の勢いは、留まるところを知らなかった。九州を平定し、京都に豪華絢爛な聚楽第を建て、刀狩りで全国の農民から刃を奪う。誰もが豊臣の世の絶対的な繁栄を疑わなかった。


だが、駿府城の一室では、重苦しい空気が漂っていた。


「……北条の老狐めが。関白様の催促を黙殺し続けるとは、何を考えておるのだ」


徳川家康は苦い顔で肘掛けに寄りかかり、溜め息を吐いた。

徳川にとって、関東を治める北条氏は隣国であり、何より家康の娘・督姫が当主の北条氏直に嫁いでいる婚姻国である。北条が秀吉に逆らい続ければ、舅である家康まで同罪とみなされ、徳川ごと豊臣の圧倒的な大軍に押し潰されかねない。


「北条は『箱根の山』と『小田原の堅城』に過信しておりますな」


静かに答えたのは、十一歳となった徳川長丸(秀忠)である。

幼少期の愛らしさは残しつつも、凛とした気品と、どこか底知れぬ静謐さを漂わせる美しい少年に成長していた。その背後には、すっかり青年らしく凛々しくなった側近たち――本多正純、土井利勝、後藤庄三郎が控えている。


「父上、北条への説得はもはや無用。あの方々は関白様の持つ圧倒的な物流と財力を理解できておりませぬ。自滅は避けられぬでしょう」


「……しかし長丸、督の身はどうなる。それに北条が滅べば、我が徳川もただでは済まぬぞ」


長丸はパチリと算盤の玉を弾き、薄く微笑んだ。


「お案じ召さるな。我らがやるべきは北条と心中することにあらず。混乱に乗じて督姫様を救い出すこと。そして……北条の滅亡後、秀吉が我らを追い遣るであろう『関東の地』と、北条が誇る裏の情報網『風魔忍び』を、そのままいただく準備をすることにございます」


家康は我が子の冷徹なまでの先見性に冷や汗を流した。

まさにその矢先、徳川と豊臣を繋ぐ細い糸であった秀吉の妹・旭姫が大坂で病没したという知らせが届く。

徳川家には「恭順の証」として、最高位の人質を大坂へ差し出す圧力が一気に高まった。


「……ワシが行くわけにはいかん。かといって、誰を……」


悩む家康の前に、長丸がすっと進み出た。


「父上、私がお伺いいたします。……人質として縛られに行くのではございません。敵の本丸(大坂城)の内側を、じっくりと観察して参ります」


天正十八年一月。長丸は大坂城へと上洛した。

大坂城の大広間にて、秀吉と対面した長丸は、深々と頭を下げた。


「叔母上(旭姫)の最期、誠にお痛わしく存じます……。叔母上は最期まで『兄様が天下を平定し、徳川と豊臣が永く手を取り合えますように』とお祈りされておりました」


「……おお、旭……! 長丸、よう申してくれた……!」


妹の死を悼んでいた秀吉は、幼い長丸の健気な言葉にボロボロと涙をこぼした。かつて岡崎城で「大根の煮付け」を差し出された時の記憶が蘇ったかのように、秀吉は長丸の手を固く握りしめた。

「お前はええ子じゃ。わしの子も同然じゃ! これへ来い!」

秀吉は長丸を傍らに引き寄せると、自らの手で長丸の帯を結び直し、その場で朝廷へ使者を飛ばした。


「本日より、お前にわしの『秀』の一字を与える! 名は徳川秀忠と改めよ! 官位は従四位下・侍従じゃ!」


わずか十一歳の少年にして異例の破格の優遇であった。秀吉は自らの勢力下に徳川の次期当主を完全に組み込んだと満足気に笑った。


だが、秀忠(長丸)の「仕込み」はそれだけで終わらなかった。

謁見の後、秀忠は大政所から託されていた「ある物」を携え、豊臣家の奥を統括する北政所(寧々)の居所を訪れた。


「……これは、大政所様から北政所様へのご伝言にございます」


秀忠が恭しく差し出したのは、大政所が手縫いした素朴な木綿の巾着と、一通の手紙であった。


「母上が……? 長丸様、これは一体」


「大政所様が『大坂の城は金ピカで息が詰まるでしょう。寧々、たまにはこれで尾張の土の匂いでも思い出しておくれ』とお言付けになられました。大政所様は今も、北政所様が作られるおはぎの味を懐かしんでおられます」


寧々は一瞬目を見開き、巾着を胸に抱きしめると、ふっと柔らかな笑みをこぼした。


「……あのお義母様らしいことですこと。大坂城の誰もが関白様の威光に怯え、擦り寄ってくる中で……長丸様、貴方様だけが私どもの『本当の姿』を見てくださっているのですね」


「滅相もございません。私はただ、叔母上と大政所様の温かなお心に報いたいだけでございます」


秀忠は心底愛くるしい笑みを浮かべて見せた。

(――よし。豊臣の表を秀吉が握り、裏を寧々が握る。これで『奥』の情報網にも太いパイプが繋がった)


その夜。大坂城に用意された豪華な客間にて。

蝋燭の灯火の下、十一歳となった秀忠(長丸)は、静かに算盤を弾いていた。側近の正純、利勝、庄三郎が影のように控えている。


「……いかがでしたか、大坂城は」


正純の問いに、秀忠は算盤の玉をパチリと弾いて弾き出した数値を眺めた。


「秀吉の羽振りの良さは見せかけだ。絢爛豪華な城を建て、諸大名に金銀を撒き散らしているが、蔵の流出速度が早すぎる。全国から吸い上げる年貢の仕組みが未完成なのだ。……そして何より、秀吉自身が急速に老いている」


秀忠は不敵な笑みを浮かべた。


「表では秀吉から『秀』の字と侍従の官位を奪い、裏では寧々様を通じて奥の動向を掴む。人質として大坂に居るからこそ、豊臣の臓腑が丸見えよ」


庄三郎が感嘆の息を漏らす。


「では、いよいよでございますね」


「うむ。北条が叛旗を翻せば、秀吉はいよいよ『小田原征伐』の総動員令を出す。……正純、利勝。小田原の陣中にて、北条の裏情報網『風魔』を接触させよ。北条が滅べば、我らは関東へ移封されるであろう。今のうちから、新たな町づくりの準備を始めるぞ」


「はっ!」


人質という名の完璧な「スパイ」として豊臣の本丸を掌握した十一歳の徳川秀忠。

彼の視線はすでに、小田原の先の「関東の広大な葦原」と、そこに打ち立てる徳川二百五十年の礎を見据えていた。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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