第7話 大坂城の怪物
私のイメージでは、秀吉=竹中直人さん、大政所=市原悦子さんなんですよねぇ。脳内変換してお楽しみください。
【天正十四年(一五八六年)十月――岡崎城】
「長丸様、また大政所様のもとへ行かれるのですか?」
岡崎城の廊下で、松千代(土井利勝)と弥八郎(本多正純)が心配そうに声をかけた。
「うむ。お茶とお菓子をお届けするのだ」
七歳の長丸(秀忠)は、可憐な笑顔で漆のお盆を抱えていた。
徳川を臣従させたい豊臣秀吉は、妹の旭姫を家康の正室として嫁がせただけでなく、ついに実の母親である大政所まで「実質的な人質」として岡崎へ送り込んできていた。
いつ何が起きて戦端がひらくか分からぬ重苦しい緊張感の中、岡崎城の大人たちは誰もが大政所と旭姫を恐れ、遠巻きにしていた。だが、長丸だけは違った。毎日こうして無邪気な「お孫」として二人の居室に通いつめていたのである。
「……まあまあ、長丸様。今日も来てくださったんか。ありがたいこっちゃねえ」
岡崎城の一室。質素な木綿の着物を着た老母――大政所が、丸い顔に皺をいっぱい寄せて長丸(秀忠)を迎えた。
どこか素朴で温かく、独特の柔らかい尾張弁の語り口。豊臣の威光に怯え、刺々しい空気を張り詰めていた岡崎の家臣たちとは対極にある、まるで田舎の田んぼの土のような温もりがそこにはあった。
「大政所様、今日はおはぎをお持ちしました」
「まあ、おはぎ! 嬉しいねえ、旭、見りゃれ。長丸様が持ってきてくださったで」
「まあ、長丸様。いつもお気遣いいただき……」
傍らで気苦労にやつれていた旭姫も、長丸の姿を見るとほっと肩の力を抜き、子供のように微笑む。長丸は大政所の隣にちょこんと座ると、小さなお手々で大政所の背中をトントンと叩き始めた。
「大政所様。関白様は、小さな頃はどのようなお方だったのですか?」
長丸が無垢な瞳で尋ねると、大政所は「ほうかい、日吉(秀吉)のことかい」と、ふふっと可笑しそうに肩を揺らした。
「あの子はねえ……もう、底の抜けたザルみたいに貧乏でね。お米なんて滅多に食えんで、いつも腹をすかして『腹減った、腹減った』って、ノラ犬みたいに走り回っておったよ。……だけどねえ」
大政所は長丸の小さな手をぎゅっと両手で包み込んだ。その手は固く、かつて泥に塗れて働いてきた百姓の温かい手だった。
「中村の畑で採れた大根を煮てやるとね、あの子は泥だらけの顔で、汁まで残さず美味そう~に食ってねえ。『母ちゃん、俺は日本一の男になるでね!』って、おっきな口あけて笑っておったよ。
……あの子が今、どんなに金ピカの着物を着て偉くなってもね、ワシにとっては、あの大根を美味そうに食っておった『日吉』のままだよ」
大政所はどこか愛おしそうに、そして少し寂しそうに目を細めた。
「黄金の城なんか建てて威張っておるが……あの子は本当は、今でもずっと腹をすかしておるのかもしれんねえ」
大政所の言葉には、天下人の母親だからこそ見抜いている、秀吉の「満たされないコンプレックスと孤独」の本質が突かれていた。
長丸はその温もりを肌で感じながら、心の中でパチリと算盤の玉を弾いた。
(……なるほど。「黄金の城」をいくら重ねても消えない、尾張中村の泥大根の飢え。秀吉という怪物の正体は、そこにあるのか)
【同・上洛の道中――尾張国中村】
大政所の保証を得た徳川家康は、ついに上洛を決意した。
大坂へ向かう道中、長丸は側近の松千代と弥八郎に命じ、家康の行列からわずかに別れて「尾張国中村」の農村へ立ち寄らせた。そこで長丸が買い求めさせたのは、獲れたての土がついた一本の素朴な大根であった。
「長丸様、なぜこのようなものを……? 大坂城へのお手土産なら、もっと豪華な品が山ほどございますが」
首を傾げる弥八郎に対し、長丸は可憐に微笑んだ。
「関白様は黄金をお好みだが……黄金では買えぬ『お心』をお届けするのだよ」
【同・大坂城・大広間】
大坂城の大広間は、息をのむほどの黄金と豪華絢爛な装飾に彩られていた。
上座に鎮座するのは、天下人・豊臣秀吉。その周囲には、威圧的な視線を放つ豊臣の諸大名がズラリと居並んでいる。
(くっ……これが天下人の威光か……!)
畳にひれ伏す家康の額からは、じっとりと冷や汗が噴き出していた。ここで粗相をすれば、徳川は一呑みに潰される。生きた心地がしない緊張感の中、秀吉の鋭い声が大広間に響いた。
「ほう、家康。そちが長丸か。面を上げよ」
「……ははっ!」
長丸が顔を上げると、秀吉は爛々と光る目で七歳の童を見下ろし、試すようにニヤリと笑った。
「長丸とやら。ワシのこの大坂城と黄金の威光、どうであったかな? 肝を冷やしたか?」
大広間の空気がピリリと凍りついた。天下人の威圧。並の子供なら恐怖で泣き出してもおかしくない場面である。家康の心臓が早鐘のように鳴り響く。
だが――長丸は怖気づくどころか、可憐で清らかな童顔で深く平伏し、恭しく進み出た。
「関白様。大坂城の威容、誠に目を見開くばかりにございます。……ですが本日、私が関白様にお届けしたかったのは、この城の黄金よりも尊きものにございます」
長丸の合図で、側近が掲げてきたのは一本の尾張中村の大根であった。
満座の大名たちが「なんだあれは」「天下人に大根だと?」とざわめく。家康の顔からは一気に血の気が引いた。
(長丸……! お前は何というものを……!?)
家康が思わず制止しようとした瞬間、長丸の澄んだ声が大広間に響き渡った。
「岡崎にて大政所様とお過ごしした折、大政所様は『あの子がどれほど天下で偉くなろうと、中村で泥だらけになって大根を食べ、美味いと笑っていた頃と変わらぬ、優しく自慢の息子だ』と、愛おしそうにお涙をこぼされておりました」
長丸は秀吉に向かい、堂々と、しかしこれ以上なく健気に頭を下げた。
「関白様の偉大なるご出世の根底には、大政所様の深いご慈愛があったのだと知りました。上洛の道中、関白様の故郷・中村にて手に入れたこの大根……関白様が天下を興された『お命の原点』と、岡崎の大政所様のお心を、私からお届けいたします」
静寂。
大名たちの間から、「おお……なんと感心な」「関白様の親孝行と原点を称えておられるのか」と感嘆の吐息が漏れた。長丸の言葉は、秀吉の威光を傷つけるどころか、天下人の成功譚と孝行を称える「完璧な美談」として大広間を包み込んだのである。
しかし――上座の秀吉の表情が、完全にフリーズしていた。
(このガキぁ……っ!!)
秀吉の脳裏に、岡崎に残してきた母・大政所のあたたかな匂い、妹・旭姫の顔、そして尾張中村で泥だらけになって大根を齧っていた己の原風景が鮮烈にフラッシュバックしていた。
黄金で飾り立てた虚飾の真ん中で、たった七歳の童によって、己の化け皮の下にある「一番柔らかい素顔」を完璧に包み込まれ、差し出されたのだ。
怒れば自らの過去と器の小ささを認めることになる。秀吉は人差し指で鼻の横をかく癖を出しながら、目頭を熱くさせたフリをして(あるいは本当に胸を打たれて)、満面の笑みを浮かべるしかなかった。
「……うむ! あっぱれである! 大政所の心、しかと受け取ったぞ! 長丸、お前は良い童じゃ……誠に良い童じゃ!」
「恐れ入ります、関白様」
長丸は可愛らしく頭を下げた。
その光景を横で見ていた家康は、全身に鳥肌が立ち、背中に恐ろしいほどの冷や汗を流していた。
(……長丸。お前は秀吉の権威を傷つけず、美談として立てながら……秀吉の『一番恐れる心の内』を完璧に掌握してみせたというのか……!? )
わが子の底知れぬ静かな毒と観察眼に、家康は身震いした。
謁見は大成功のうちに終わり、徳川と豊臣の和睦は盤石のものとなった。
大坂城からの帰り道、月明かりの下を行く馬車の中で、長丸は窓の外の夜空を眺めていた。
「長丸様……凄まじい大一番でございましたな」
背後で控える正純と利勝も、いまだ興奮と寒気が冷めやらぬ様子で息を吐いた。長丸はふり返り、パチリと算盤の玉を弾いて黒い笑みを深めた。
「見たか。あの豊臣の繁栄は絢爛豪華だが……中に詰まっているのは大根一本分の情だ。秀吉という男が死ねば、あの巨大な城もろとも、豊臣は一瞬で弾ける」
長丸は静かに二人を見つめた。
「これで岡崎での仕込みはすべて終わった。……さあ、戻るぞ。大政所様に大根の煮付けでも作ってもらおう」
七歳の少年の瞳には、すでに豊臣の滅亡と、その先に広がる広大な江戸の野原が映っていた。
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




