第6話 落ちた一文と、最初の「家族」
【天正十四年(一五八六年)春――岡崎城下・米蔵の前】
「ええい、すっとこどっこい! ぬかすな! 数升の米と関銭の計算が合わぬのは、お前たち孝悌会とかいう青二才どもが、手伝いにかこつけて掠め取ったからに違いあるまい!」
春のやわらかな陽光を切り裂くように、岡崎城下の米蔵前で古参の勘定役人が怒号を響かせていた。
「言いがかりはおやめくだされ!」
役人の前に立ちはだかったのは、十六歳になる職人見習いの若者――後藤庄三郎であった。
「我らは搬入された米俵の『目方(重量)』と、納められた関銭の小銭の目方をすべて細かく検分しております! 米は運搬中の乾燥でわずかに目減りしただけであり、関銭の辻褄が合わぬのは、役人様のつけた大まかな帳面の方が間違っているからです!」
「なにを生意気な! 職人の小僧が帳面に口を挟むか!」
庄三郎の暗算の正確さと論理の正しさにぐうの音も出ず、赤鬼のように顔を真っ赤にした役人が拳を振り上げた、その時である。
「……これこれ、争いはいけません。父上もお悲しみになります」
可憐で澄んだ童心が、場を静まり返らせた。
振り返れば、傅役の青山忠成を引き連れた長丸(秀忠)が、無邪気で愛くるしい笑みを浮かべて立ち尽くしていた。
「あ……長丸様……!」
役人が慌てて平伏する。長丸はちいさく頷くと、忠成に向かって健気な首をかしげた。
「忠成先生。孝悌会の者たちも、役人様も、徳川のために励んでくださっているのです。ここは私が双方の言い分を聞き、一度お預かりしてもよろしいでしょうか?」
「おお……なんと温かいお心遣い。分かり申した、長丸様にお任せいたします」
忠成は涙ぐみ、役人も「お優しい長丸様が仲裁してくださるなら」と引き下がった。
庄三郎たち若者は「自分たちのような日陰者の話を、幼い長丸様が信じてくださった」と感涙し、深く頭を下げたのだった。
【同・夜――岡崎城・長丸の居室】
「……で、真相はどうだ?」
昼間の可憐な笑顔は嘘のように消え去り、長丸は暗がりの中で算盤の玉を弾いていた。
傍らにひざまずく弥八郎(本多正純)と松千代(土井利勝)が、帳簿の写しを差し出す。
「長丸様のご見立て通りです」
弥八郎が静かに告げた。
「米と関銭を横領していたのは、あの古参役人自身でした。日常的に『記載漏れ』で済む程度のわずかな量を掠め取っていたのですが……今回、庄三郎が精密に計算し始めたため足がつきそうになり、焦って孝悌会に罪をなすりつけようとしたのです」
「くく……古い大人はどこも同じだな」
長丸は低く笑い、ふと手元のメモに目を落とした。
「それにしても、松千代。この庄三郎という男の手控え帳……実に恐ろしいな。米の水分量による目減りまで暗算で弾き出し、小銭の磨耗による金属の重量差まで計算に入れておる。十六の職人見習いにしておくには、あまりに規格外の化け物だ」
のちに江戸幕府の貨幣制度を創り上げ、金座を統括することになる“財政の天才”後藤庄三郎。その圧倒的な才能の片鱗を、長丸は見逃さなかった。
「弥八郎、松千代。……あの化け物を、俺の『家族』にするぞ」
【同・深夜――大樹寺の境内講堂】
深夜の大樹寺。線香の匂いが残る講堂に、庄三郎は一人呼び出されていた。
「長丸様……お呼びでございますか」
暗闇の奥、一筋の月光が差す壇上に、七歳の公子がポツリと座っていた。その傍らには、古参役人の不正を完璧に証明する「動かぬ証拠」が置かれている。
「庄三郎。お前の疑いは晴れた。明日、忠成先生にこれを渡せば、あの役人は追放され、お前たちの名誉は完璧に守られる」
「おお……! ありがとうございます、長丸様!」
歓喜に顔をほころばせ、平伏する庄三郎。
だが――次の瞬間。
パチリ、と算盤の玉がひとつ、静かな堂内に響いた。
「……だが、それだけで終わらせて、お前は満足か?」
冷ややかな、地獄の底から響くような声。
庄三郎が驚いて顔を上げると、そこには昼間の可憐な少年はいなかった。月光を背に受ける長丸の瞳からは光が完全に消え、底知れぬ黒い闇が揺らめいていた。
「え……? 長丸……様……?」
「あの役人をただ追放しても、また次の古い役人が来るだけだ。……あの役人の『弱み』を握ったまま生かさず殺さず手駒にし、米蔵と関銭の『裏の権益』を我らが横取りする。庄三郎、お前のその目で、この『表からは見えぬ金庫』を動かしてみたくはないか?」
「ひっ……!」
七歳の子供が放つ、あまりに巨大で冷酷な「毒」。
蛇に睨まれた蛙のように、庄三郎の全身に激しい鳥肌が立った。恐怖と戦慄で呼吸すらできなくなる。
だが、長丸はすっと立ち上がると、庄三郎の前に歩み寄り、その小さな手で庄三郎のゴツゴツした職人の手を優しく包み込んだ。
「職人の端っこで終わる器ではない。どれほど数字が回っても、誰からも正当に評価されず、日陰で燻っていたのだろう? ……だが俺は、お前のその『金と数字を見抜く目』を、心から買っている」
長丸は無邪気で、しかし狂おしいほどに美しい笑みを浮かべた。
「俺の『家族』となれ、庄三郎。表の孝悌会でお利口に助け合いながら……裏でこの国の金を、俺と共にすべて動かしてみないか?」
「あ……あ……」
己の才能を初めて完璧に認められた圧倒的な【承認】の歓喜。
そして、目の前の公子が纏う恐ろしくも魅力的な【カリスマ】。
二つに撃ち抜かれた庄三郎の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「長丸様……! この庄三郎……! この命も、この目も……すべてあなた様に捧げます……っ!!」
庄三郎は額を床に擦り付け、金色の月光の下で、生涯の忠誠を誓った。
【同・深夜――岡崎城・長丸の私室】
古参役人は弱みを握られ、裏で完全に「孝悌会」の傀儡となった。
利勝と正純が待つ私室に戻った長丸は、満足げに窓の外の月を仰いだ。
「一人が加わった。これで、利勝、正純、庄三郎……頼もしい『兄弟』が増えたな」
「はっ。庄三郎の手腕があれば、三河中の関銭と物資の流れを裏から把握できます」
正純が深く首を垂れる。長丸はパチリと算盤の玉を弾き、黒い笑みを深めた。
「よし。表では『孝悌の心で仲良く助け合いましょう』とお利口な顔を振りまき……裏ではこの『盤石組』の根を、三河全体、いや日本全体に張り巡らせていくぞ」
小さな幼子の影が、月明かりの中でどこまでも深く、大きく伸びていた。
(さあ……次はどんな『家族』を拾ってやろうか)
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