第5話 孝悌会の船出と、落ちた一文
【天正十四年(一五八六年)春――岡崎城・長丸の私室】
「……忠成先生。一つ、お願いがございます」
小牧・長久手の戦いから二年。岡崎城の一室で、私は傅役の青山忠成に向かい、幼く澄んだ瞳で切々と語りかけていた。
「なに、お願いでございますか? 長丸様」
忠成が身を乗り出す。私は膝の上で両手を揃え、いかにも幼子らしく、しかし健気に言葉を紡いだ。
「父上は秀吉との化かし合いや領内の立て直しでお忙しく、私に手取り足取り教える時間もございません。ならば私は、父上のお手を煩わせぬよう、自主的に学びたいのです。つきましては……城下や家臣の家に溢れる、家督を継げぬ『次男坊や三男坊』を集め、共に学ぶ場を作っていただけないでしょうか」
忠成が意外そうに眉をひそめる。
「次男や三男……でございますか? 武家の部屋住み(無給の身)のみならず、町方や職人の者までも?」
「はい。儒学の教えに『孝悌』とございますでしょう。親に孝を尽くし、兄(長兄)を敬う心です。長男が家を継ぐのは世の理。しかし、継げぬ者たちが日陰で燻り、才能を腐らせるのは徳川の損です。我ら次男・三男が助け合い、『父上に孝を尽くし、兄上を敬い、共に徳川を支えよう』と学び合いたいのです。名付けて『孝悌会』。これならば誰も傷つかず、父上も喜んでくださると思いませんか?」
「孝悌……親に孝を尽くし、兄を敬う……! おお……! おお……っ!」
私の言葉が終わるや否や、忠成の目からボロボロと大きな涙がこぼれ落ちた。
「なんというお心根……! ご自身の威光を示すためではなく、儒の美徳をもって日陰の者に光を当て、ただ父上と徳川家のためにお尽くしになろうとされるとは! 長丸様は真の律儀者にございます!」
忠成は感動に震えながら即座にこれを快諾し、家康への報告と、私の学問の師でもある僧侶が住職を務める岡崎の菩提寺(寺院)を会場として手配してくれた。寺ならば身分を問わず庶民や職人が集まっても怪しまれず、「仏門の教えと学問の一環」として完璧な大義名分が立つ。
(よし、完璧だ。まずは表向きの『清廉潔白な勉強会』という絶対の盾を手に入れたぞ)
私は心の中でほくそ笑んだ。
【同・春――岡崎城下・大樹寺の境内講堂】
数日後、寺の線香の香りが漂う講堂には、三十名ほどの若者が集まっていた。
武家の部屋住みの若い侍、豪商の次男、大工や酒造の若い職人たち――いずれも家督を継げず、普段は肩身の狭い思いをしている者たちだ。
記念すべき『孝悌会』の第一回講義。その壇上に登ったのは、徳川四天王の一人、榊原小平太康政であった。
「皆の者、よく集まったな!」
康政が豪快に笑う。秀吉との小牧・長久手の戦いにおいて、秀吉の悪政をなじる高札を書き立てて敵の肝を冷やさせた、徳川屈指の武名と教養を誇る名将である。
「わしもな、実は榊原家の『次男坊』じゃ! 兄の清政が家を継ぎ、わしには継ぐべき家も領地もなかった。だが、殿に見出され、ただ泥にまみれて働き抜いた結果、今や四天王などと呼ばれておる!」
康政の力強い声が講堂に響き渡る。家を継げず死んだ目をしていた若者たちの瞳に、急速に熱が宿っていくのが分かった。
「長丸様のおっしゃる『孝悌』の心、胸に刻め! 次男や三男だからと誇りを捨てるな! 家を継ぐ長男が『表の柱』なら、我らは家を、徳川を陰から支える『太い礎』となれば良いのだ! 我らが汗を流し、殿をお支えするのだ!」
「「「うおおおおっ!!」」」
寺の講堂は割れんばかりの歓声に包まれた。
見学していた青山忠成や内藤清成、そして寺の僧侶までもが「素晴らしい……なんと美しい光景か」と感極まって手ぬぐいで目を押さえている。
その歓声の輪の端で、私は側近となった二歳年上の松千代(土井利勝)と、本多正信の長男・弥八郎(本多正純)と視線を交わした。
(史実でも『次男から大出世を遂げた英雄』である榊原康政様を招いたのは正解だったな。これで若者たちの士気は最高潮だ)
講義は大成功のうちに終わり、参加した若者たちには「孝悌会」の手始めとして、寺の清掃や岡崎城下の小口の物資搬入、簡易な帳簿の手伝いという実務が割り振られた。
だが――その三日後の夜。
【同・夜――岡崎城・長丸の居室】
奥御殿の影で、正純(弥八郎)が静かに私の前にひざまずいた。
「長丸様。少々、妙なことが起きております」
「妙なこと?」
「はい。孝悌会の者が手伝いに入っている岡崎城下の米蔵と勘定方において……搬入された米の量と、記録された『関銭(通行税)』の辻褄が、わずかに合いませぬ」
正純は、手元に控えたメモを差し出してきた。
「落ちているのは、ほんの数文から数升程度のわずかな額です。ゆえに表の勘定方は『単なる記載漏れか、運搬中のこぼれ落ちだろう』と気にも留めておりませぬ。しかし……孝悌会の若い次男坊たちが『自分たちが疑われるのではないか』と城下の古い勘定方の役人と揉め始めております」
「ほう……」
私は顎に手を当てた。
小さな不正。あるいは、新参者の「孝悌会」を面白く思わない古い役人たちの嫌がらせか。
「長丸様、どうなさいますか? 青山様にお言いつけになり、表からお調べになりますか?」
傍らに立つ松千代が尋ねてくる。私は無邪気な幼子の微笑みを浮かべながら、首を振った。
「いいや、忠成先生の手を煩わせるまでもない。……松千代、弥八郎。この機会、実に良い踏み絵だと思わないか?」
「踏み絵、でございますか?」
「そうだ。ただ熱気に流されて騒ぐだけの奴か。それとも、理不尽な疑いや混乱の中でも冷静に『数字と事実』を追いかけられる本物か。……この騒動の中で、誰が本当に使い物になるか、裏からじっくり見極めようじゃないか」
私はパチリと算盤の玉を一つ弾いた。
「表では『孝悌の心で仲良く助け合いましょう』とお利口に収めつつ……裏でこの落ちた一文の真相を突き止めた骨のある奴だけを、我らの『本当の仲間』として選別する」
月明かりの下、幼い公子の影が、静かに蠢いた。
(さあ……誰が俺の『真の毒』に耐えられるか、見せてもらおうか)
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