第61話 覇王の決意
伊勢・関。本多正信に漏らした、あの一言は。
「……あのお方は『王』であった。その情ゆえに、わしの算盤に負けたのだ」
その言葉を口にした時、秀忠の中には、確かに安堵と、幾分かの感慨があった。死を覚悟した戦場から生き延びた者の、人としての弱さだったのかもしれない。
だが、夜が明け、傷の手当てを終え、床几に座り直した時には、その感慨はもう、秀忠の中から消えていた。
「正信」
「はっ」
「あの時わしが漏らした言葉は、忘れよ」
秀忠の声に、もう先刻の揺らぎはなかった。
「わしは征夷大将軍だ。……将軍の算盤に、情を乗せることは許されぬ」
正信は、顔を上げた。主君の目に浮かぶものを見て、息を呑む。
「上様……まさか」
「秀頼は、王の器であった。真田も、清正も、浅野も、太閤の名のもとに命を懸けて集う。……それこそが恐ろしい。生かしておけば、十年後、二十年後、必ずまた同じことが起こる。今度は、わしの首が本当に落ちるかもしれぬ」
秀忠の指先が、無意識に、己の喉元へ触れた。
幸村の槍の冷たさが、まだそこに残っているような気がした。あの刹那、死を覚悟した己の姿を、秀忠は忘れていない。あの槍が止まったのは、忠輝と政宗が大坂を突いたからであり、秀頼が情で槍を引いたからだ。もし、どちらか一つでも欠けていれば、今この場に秀忠はいない。
(……わしは、生き延びた。だが、次も生き延びられるとは限らぬ)
秀忠は、懐から新しい算盤を取り出した。幸村の槍で割れた旧い算盤は、もう使い物にならなかった。
「ここで根を断つ。大坂城の開城、秀頼の切腹、豊臣恩顧の武力を率いた者どもの処断。……徳川の天下に、二つ目の『王』はいらぬ」
「上様……秀頼殿は、ご自ら槍を引かれ、上様のお命を救われたのですぞ。その恩を、仇で返されると……」
「恩と政は別だ」
秀忠は、短く、しかし有無を言わさぬ声で正信を遮った。
「あのお方が、わしを生かしたのは情だ。わしがあのお方を生かすかどうかは、算盤で決める。……それだけのことだ」
正信は、深く頭を下げたまま、しばし動かなかった。
(……本当に、算盤なのでしょうか。上様)
正信の内心に、小さな疑念が過った。これまで見てきた秀忠は、常に先に数字と仕組みを並べ、答えを導いていた。だが今の秀忠は、まず「殺す」という結論を口にし、その後から理由を並べている。順序が逆だ。
それは、算盤を弾く者の顔ではない。死地を潜り抜けた者が、二度とその恐怖を味わいたくないと願う、人の顔であった。
正信は、その疑念を、口には出さなかった。
床几から立ち上がった秀忠の目に、もう迷いはなかった。
「使者を出せ。……伊勢・関にて、秀頼殿と会談いたす、と」
「……会談の場、御支度はいかように」
「双方、脇に一人の供のみ。武装は解く。……あのお方なら、場を違えても、約を違えはすまい」
正信が一礼し、陣幕を出ていく。秀忠は、新しい算盤の玉を一つ、音もなく弾いた。
同じ頃。大坂へ向かう道を引き返す豊臣の軍列。
秀忠からの使者の口上を受けた豊臣秀頼は、しばし黙したまま、馬上で目を閉じていた。
「秀頼様?」
傍らの真田幸村が、怪訝な顔で声をかける。
「……来るか」
秀頼が、ふっと笑った。
「わざわざ会談とは、律儀なことだ。斬ると決めた相手に、わざわざ顔を見せに来るとは」
「秀頼様。何がそれほど愉快にございますか」
「いや……あの男が、わしを斬ると決めた上で、なお会いに来ることが、愉快なのだ」
幸村が、低い声で割って入った。
「秀頼様。会談などに応じる必要はございませぬ。われらにはまだ数万の兵がございます。いま一度、桑名へ押し戻しましょうぞ」
「いや、左衛門佐」
馬を並べていた浅野幸長が、思案げに首を振った。
「秀忠殿が、わざわざ会談を申し入れてきたことこそ、好機にございましょう。あの御方、相当な覚悟を持って参られるはず」
「いずれも、半分は正しい」
秀頼は、涙も、覚悟の重さも、どこかに置いてきたような顔で、鞍の上に背筋を伸ばした。
「左衛門佐の言う通り、今わしが兵を向ければ、徳川はもう保つまい。幸長の言う通り、秀忠殿は相当な覚悟を持って来る。……だからこそ、面白い」
「面白い、とは……?」
「あの男は、算盤で詰める将だ。だが、算盤には乗らぬものがある。……それを、今日、見せてやろうと思うてな」
秀頼は、馬上で静かに笑った。これまで戦場の誰も見たことのない、底の見えない笑みであった。
「左衛門佐。正装を整えよ」
「……は?」
「太閤の遺児が、どういう生き物か。秀忠殿に、見せてやろうではないか」
馬を進める秀頼の背に、幸村、幸長はただ、言葉を失って従うしかなかった。これまで見てきた、涙を流し、情に厚い若き主君とは、まるで違う顔が、そこにあった。
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