幕間 大坂落照
時は少し遡る。大坂城――
慶長十年、十二月。
大坂城・二の丸の廊下に、けたたましい足音が響き渡っていた。
「何事か! 何が起きておるのじゃ!」
侍女たちを従えた淀殿は、朱塗りの廊下を足早に進んでいた。
秀頼が桑名へ出陣してから、すでに数日。留守を預かる大坂城には、大野治長をはじめとする豊臣恩顧の留守居役と、わずかな兵しか残されていない。だが、太閤の本拠たる大坂城が、これほど早く揺らぐとは、誰も思っていなかった。
三の丸の門前で騒ぎが起きたと聞いた時、淀殿はまだ、浮浪の徒か、残党の小競り合いだろうと考えていた。
その余裕は、二の丸の門をくぐった瞬間に吹き飛んだ。
「ひ、引き破れッ! 門ごと粉砕いたせ!」
鉄砲の轟音。黒煙とともにはじけ飛ぶ木の葉と白壁の破片。
そこには、黒塗りの甲冑に隻眼を光らせる老将と、まだ若さの残る将が率いる、異様に統制の取れた軍勢があった。
伊達政宗。そして、松平忠輝。
「な、なぜだ……! 紀伊の浅野殿の兵はどうした! 和歌山城の留守居は、何をしておったのだ!」
駆けつけた大野治長が、悲鳴のように叫んだ。かつて黄金を前に「倍払うぞ」と怒号を上げた気迫は、もはや見る影もなかった。
政宗は、答えなかった。ただ、馬上から冷ややかに治長を見下ろし、口の端をわずかに上げただけであった。
留守居の兵たちは、精鋭を桑名へ送り出していたため、手薄も同然であった。忠輝と政宗の軍勢が、怒涛の勢いで二の丸の庭へと雪崩れ込んでくる。治長の手勢も、抗う間もなく討ち取られ、悲鳴と血煙が、大坂城の優美な庭園を包み込んでいった。
「淀様! お奥へ! お奥へお隠れくだされ!」
侍女たちが泣き叫びながら、淀殿の袖を引く。
だが、淀殿は動けなかった。
(また……この匂いだ)
炎と、砕ける木材の匂い。それは、遠い昔から淀殿の身に染みついた、忘れようもない匂いだった。
幼き日、小谷の城で見た光景が、脳裏に閃いた。父・浅井長政が自ら腹を切り、城が紅く炎に染まっていったあの夜。母に手を引かれ、闇の中を逃げた記憶。
そして、もう一つ。北ノ庄で見た炎。母・お市が、義父・柴田勝家と共に、燃え落ちる天守で果てた、あの日。
二度、城が落ちるのを見た。二度とも、大切な者を、ただ無力に失った。
喉が引きつり、足が竦む。太閤秀吉が築き上げた不落の城塞が、内側から腐れ落ちるように崩れていく——その光景に、幼い頃のあの無力な自分が、そのまま重なった。
「おやめなされ……! ここをどこだと思うておるのじゃ! 秀頼の城ぞ!」
震える声で叫ぶ淀殿の前へ、一騎の馬が静かに進み出た。
幼い千姫を、その腕にしっかりと抱いた松平忠輝であった。
「義母上。お騒ぎ召されるな」
忠輝の目は、思いのほか静かであった。
「兄・秀忠の命により、千姫をお迎えに参上した。……この城には、これ以上の手出しはせぬ」
「な……何を今さら。千姫を返せ! 大坂の金を狙っておるのだろう、この盗人風情がッ!」
(……三度目は)
淀殿は、震える手で懐から小刀を抜いた。
二度、城が落ちるのを、ただ見ていただけだった。父も、母も、義父も、守れなかった。
(三度目は、許さぬ。秀頼だけは……)
「これ以上近づけば、この城もろとも……秀頼の母として、恥ずかしい死は選ばぬ!」
忠輝の背後で、政宗が静かに馬を進めた。
「淀様。ご子息は、伊勢で兄・秀忠と刃を交えておられる。……もし今、あなた様がここでお命を絶たれれば、それが伊勢にどう伝わるか、お分かりか」
「……ッ!」
「あなた様の死は、豊臣の勝ちにはなり申さぬ。ただ、ご子息を追い詰めるだけにござる」
淀殿の手から、小刀が滑り落ちた。膝から崩れるように、その場に座り込む。
「秀頼……秀頼だけは……」
絞り出すような呟きだけが、廊下に落ちた。
「早馬を出せ」
忠輝が、空へ向かって采配を振った。
「伊勢の秀頼公へ向け、飛脚を走らせよ。……『大坂城二の丸、破られる。淀様、千姫様は御無事』とだけ伝えよ。それ以上は、何も付け加えるな」
「忠輝様……よろしいのですか。もっと相手を追い込む言葉を添えても……」
傍らの家臣が問うと、忠輝は短く答えた。
「これで十分だ。……あとは秀忠兄上の算盤が、勝手に答えを出す」
夕闇に包まれ始めた大坂城。黒煙が天守閣をなめる中、太閤の威光の象徴であった城は、わずか二千の兵によって、一夜にしてその喉首を絞め上げられていた。
血塗れの早馬が、関・桑名の戦場へ向けて、夜の街道を飛ぶように駆け抜けていく。
城の奥では、まだ黄金の山が眠っていた。忠輝も政宗も、大蔵には手を触れていない。
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